9 馬鹿息子
いつも突然呼び出される。
そう言う職業に就いているのだから仕方がないと思いつつも苛立ちがあった。自宅にいたのだからまともなスーツを着る余裕もあったが、腹いせのように女性用のブランドパンツスーツを着込んできた。開襟シャツを着てメイクもしっかりとしてきている。
腰をくねらせながら廊下を歩くと、藤岡に慣れていない別の部署の人間達が驚いたように振り返ったが一課に近づけば近づくほど藤岡を気にする人は少なくなる。他の刑事にするように挨拶をし、堂々と廊下を歩く藤岡の為に道を譲った。
藤岡は扉の前で一度立ち止まり口紅が取れていない事を確認すると、ようやくドアを開いた。
すぐに男女の言い争う声が聞こえてくる。
藤岡は苦笑した。
近くにいた若手刑事の肩に手を置いて話しかける。
「なぁに? またやってんの?」
「ああ、お疲れ様です。今さっき始まった所ですから暫く続きますよ。この光景、もう一課の名物ですよね」
伊東は笑いをかみ殺したような表情で立ち上がる。
彼が座っていた椅子を奪うように座りながら藤岡は彼を見上げる。
「あなたも随分と慣れたわよね。最初の頃はおろおろしていたのに」
「さすがに何年も相手していれば慣れますよ。コーヒー飲みますか? 不味いですが、目が覚めますよ」
「不味さでね。その不味さがやみつきになっちゃうのよね、こういう仕事していると」
藤岡は欲しいと言うのを手で示す。
伊東は頷いた。
「えっと、ミルクと砂糖、どうします?」
いらない、と彼は返事を返す。
セルフの飲料コーナーからコーヒー用のプラスチックカップを出しコーヒーを注ぐ。何も入れずに藤岡の前に差し出し、自分用には砂糖を入れてかき混ぜた。
「珍しいですね、ブラックなんて」
「ダイエットしているの」
藤岡はふふと、科を作って笑った。
その様子に伊東は平気な顔で笑った。自分の女言葉も女装も慣れたな、と藤岡は思う。どう見ても綺麗なオカマにしか見えない彼の女装に最初は軽い嫌悪感を示していた伊東だったが今では全く気にする様子もなく接してくる。
本名ではなくテレビで良く見かけるアイドルの名前と同じ「藤岡眞由美」で通しても彼はまるで気にしなくなった。誘おうとコナをかければさすがに嫌そうにしたものの、彼の女装を否定はしなかった。
(この子ってば、私より順応性高いわよねぇ)
不味いコーヒーを飲みながら上司の喧嘩を見つめる。
中津龍二と岩崎愛の仲の悪さは一課でも評判だった。
超常能力が存在するという前提で捜査する岩崎班の班長である愛と、超能力を認めない中津とでは思想が全く違う。常に対立しあうのは無理もない話だった。
ただ、中津が愛に突っかかる理由はそれだけでは無い。
もしも超常現象を全て否定したいだけなら、岩崎班全員を敵視していても良さそうなのだが、岩崎班に属する伊東を中津は後輩として可愛がっている。服装のことで注意される事もあったが藤岡も敵視されている訳ではなかった。
だから、愛に突っかかる理由はそれだけではない。理由になりそうな事を知っているだけに、藤岡は複雑な気持ちでかつて同じ岩崎班の一員だった中津を見つめる。
「で、今日は?」
「例の、中津刑事が会った赤毛の獣の話です。今日、また出現しました」
「それで私も呼び出されたの?」
やれやれ、と藤岡は机に肘を突く。
「実はその対処で揉めているんですよ」
「っていうと?」
「目撃者の証言では人が突然獣に変わったそうなんですよ」
「へぇ、それって……」
伊東は頷いて言い争う二人の方を見る。
「はい、愛さんは人なのだと言い麻酔銃を使うべきじゃないって言い張っています。しかし、何の証拠もないと中津さんが突っぱねています。写真を撮ったという目撃者が多数いたんですが、そのどのカメラにもちゃんとした画像が残っていませんでした」
写真に残った場合と残らなかった場合、残らない方が本物である可能性が高いと経験上知っている。最近のカメラは性能が良くなった分、不可視の光までとらえてしまうのだ。それで余計に曖昧にしか映らない。
今回の件で言えばその獣に変わった人というのは人狼なのだろう。
肉眼で直接見たわけではないが、藤岡はかつて一度人が狼に転変する姿を見たことがある。その時、その人の身体を覆うように普通の人間に見ることの出来ない光が包み込んでいた。
おそらく目撃者のカメラに映ったのはその光に飲まれた姿なのだろう。
そんな曖昧な写真で中津が納得するとは到底思えない。
どっちにしても愛が‘最終手段’を使えば中津が折れざるを得ないのだが、もう暫くこの不毛な言い争いが続くのだろう。
「時間稼ぎかしらね」
伊東は苦笑する。
「だと、思いますよ」
「それにしたって中津さんも愛も、お互いに食い下がるわね」
「今回はどうやら勇気くんが居合わせたようですよ。中津さんに連絡をとったそうなんですが」
藤岡は笑う。
「それで、これなのね」
‘岩崎警部の息子’である勇気はここにとって少し特殊な立場にある。元々愛自身の立場も特殊なのだが、警察でもなく、協力者として公表する訳にもいかない勇気は余計に特別な位置にいる。
自分の息子である愛にしてみても、中津にしてみても彼が事件に関わっているのは揉めずにはいられない事柄なのだ。
まして危険が絡む状況ならば余栄に。
不意に伊東の胸ポケットから携帯のバイブ音が響く。
彼はテーブルにコーヒーを置くと軽く断りを入れて携帯電話を取りだした。
「はい、伊東です。……ああ、今ちょうど話していたんですよ」
「勇気くん?」
「そうです。……はい、今中津刑事と揉めていますね、こちらは通常通りです……ああ、なるほど、理解しました、ちょっと待って下さいね。それで、彼のこと、どう思いました?」
彼は携帯電話で話をしながら言い争いを続ける上司の方へと進む。
携帯電話を肩に挟み込み、愛と中津の間を引き裂くように両手で押しやった。
その行動に周囲の警官達がどよめく。
藤岡は口笛を吹いた。
「会話中よ、伊東くん」
「何か用ならば後にして下さい」
同時に抗議を入れられるが彼は全く顔色を変えずに愛の目の前に携帯電話を突き出して言う。
「埒のあかない会話はそのくらいにしておいて下さい。緊急を要する電話です」
「誰?」
「出れば分かります。この場は自分が預かります」
愛は携帯電話を受け取り伊東を睨む。
「いい身分になったわね」
「文句なら後で聞きます。今は電話に出て下さい」
「……」
まだ何か文句を言いたげな彼女だったが、緊急という言葉が気になったのか、すぐに電話を片手に電波の入りやすい窓辺の方へと向かう。
話を途中で中断されてばつが悪そうに中津は溜息をつきながらネクタイを少し緩めた。
伊東は彼の方を見て言う。
「今から猟友会に要請しても早くても明日の朝になりますよね?」
「そうなりますね」
中津は淡々と答える。
「では今晩我々が動いても問題はありませんね?」
伊東の言葉を中津は正確に理解する。
「市民の安全が最優先ならば」
「当然です。では、いいですか?」
「止めても動くつもりならばもう止めても無駄でしょう」
中津は諦めたように言う。
電話から戻ってきた愛が嫌味のようにたたみかける。
「……もっとも、あなたに止める権利はありませんけどね、中津係長」
「それなら早くあなたの‘必殺技’を使いなさい、岩崎警部」
愛は少しむっとした表情を浮かべる。
嫌味よりも「岩崎警部」と呼ばれた事に腹を立てたのだろうと伊東は軽く吹き出す。が、上司二人に睨まれ肩を竦めた。
「七光りは最後の手段よ。……協力をお願いできるかしら、中津くん」
「分かりました。ただし、期限は明日の朝までです。それまでに何とかしなければ……」
「はいはい、マタギでも何でも呼んで頂戴」
彼女は適当にあしらうように手を振る。
先刻の腹いせだろうか。彼女の性格を理解している中津は軽く肩を竦めた。
愛は伊東に向き直り指示をする。
「伊東くん、眞由美と一緒に馬鹿息子たちを保護して頂戴。あの子たち、自分たちだけで何とかするつもりよ」