8 圏外
「………はい」
岩崎は間を置いて声を発する。
相手は誰なのだろうか。
訝しがるような彼の表情は変わることが無かった。短く確認するように返事をし、必要最低限の事しか話していないように聞こえた。
鈴華も不思議そうに彼の様子を見守っている。
やがて岩崎は携帯電話を明弥の前に突き付ける。
「久住、お前に電話だ」
「俺に?」
出ろ、と促されて仕方なく明弥は携帯電話を受け取る。
岩崎の携帯に電話をかけてきた相手が、自分に用があるとはどういう事だろうか。まさか、警察の関係の人なのだろうか。
携帯電話を持ち慣れていないせいか、何処か変なボタンを押してしまいそうで余計に緊張をした。
「もしもし?」
声をかけると聞いたことのあるような声が戻ってきた。
『明弥さん?』
「あ、はい」
『水守祐里子です』
「えっ……あ? 水守さん?」
名前を言われて一瞬のうちに誰なのかを思い出す。バレンタインの日、明弥が病院まで付き添った女の人だ。「一度だけ助けます」と電話で言われたきり連絡がなかったからすっかり忘れていた。
岩崎と知り合いなのだろうか。だとしたら何故今自分が一緒にいることを知っているのだろうか。
混乱していると向こう側から笑うような声が聞こえる。
『私の助けが必要だと思ったから連絡を差し上げました。そこだと携帯電話が一番いい媒体だったから利用しただけですよ』
「えっと……意味が分からないんですが」
水守はくすりと笑い声を上げた。
『あまり長く介入していると術者に負担をかけるから手短に言います』
「はぁ」
『‘引いてダメなら、押してみろ’』
「はい?」
『占星の結果です。本当ならそっちに行ってあげたいけど、今仕事中なので。多分、言葉だけでも役に立つと思うのだけれど』
前の時と同じだ。
彼女の言葉は今ひとつ分からない。
けれど何故だろう。
それが意味のある言葉に聞こえる。
『先刻の彼、多分彼なら』
ふつ、と突然音が途絶えた。
「もしもし?」
声を掛けても返事は戻らなかった。切れたのだ、と分かる。
結局、何だったのだろう。
携帯電話を耳から離すとすぐに岩崎の声が聞こえた。
「久住」
「この道場は圏外だ」
「……?」
「電波が入らない場所では携帯は鳴らない。……この意味が分かるか?」
「えっと」
それはつまりどういう事だろうか。
携帯電話を見ると確かに「圏外」の文字がある。携帯は持っていないのだけど、圏外では着信しない事くらいは分かる。だが、水守からの着信があった。
どう考えても矛盾している。
考えるほどに分からなくなった。
混乱をする明弥の代わりに鈴華が答える。言葉を選んでいるように慎重に。
「今の着信の相手は普通の人ではないんですね?」
「そう言うことになる」
分からない。
明弥は首を傾げた。
「普通の人じゃないって……水守さんはちゃんと生きている人だよ」
「そう言う意味じゃない」
ますます意味が分からなくなり明弥は瞬く。
鈴華は全て分かっているという風に落ち着いていた。分からないのは明弥だけだ。
置いてけぼりになったが、話は続く。
「久住、彼女は何と?」
「ああ、うん、ええっと……」
混乱していたが、一人で混乱している場合でもない。明弥は彼女から言われたことをそのまま伝える。
話の流れで水守と出会った時の事も簡単に話した。バレンタインの時の事故のことにまで言及するとさすがに岩崎は顔をしかめたが何か追及することは無かった。
一通り全て話し終えると彼は暫く黙り込んで何か思案する様な素振りを見せた。
やがてぽつりと彼は呟いた。
「実のところ、俺が人狼に会ったのは彼が初めてじゃない。だから彼がずっと獣の姿でいることに危険性があることを承知している」
「危険性?」
「人としての性が抜ける。つまり、身も心も完全に獣になってしまうと言うことだ。そうなれば言葉は通じないし、人を襲った場合人によって処分される」
ぎくりとした。
それはつまり、太一を殺すと言うことだ。
脳裏に浮かんだのはアスファルトの上に倒れた赤髪の男。あの時は気を失っているだけだったが、あの時の杞憂が現実のものになってしまう。
そんなのは嫌だ。
「増して今回は暴走している状態だ。早く戻してやらなければ獣に飲まれる。……南条斎と連絡は取れるか?」
「とれます。でも、今は遠出しているから、多分戻るのに時間がかかると思います。急いでも、深夜」
確認するように彼は頷く。
おずおずと声を上げる。
「な、何とかならないの?」
「だからそれを今、考えていたんだ。水守祐里子の言葉を信じるのなら方法が無いわけじゃない」
視線が彼に集中した。
少し緊張した風に岩崎が言う。
「お前の……久住の波をもう一度彼にぶつけるんだ」
「えっ」
「インパクトをもう一度起こすんですか?」
不安そうに彼女が尋ねる。
こくりと頷く。
「毒を以て毒を制す、聞こえは悪いけれど、そう言う方法はいくらでも使われる。やってやれない事はないだろう」
「でもやり方が……」
可能性があるなら、やりたい。
けれどそのインパクトを起こす方法が分からない。
「強い感情」
「え?」
「久住が無自覚で使っているのなら今までの状況を考えて、おそらく引き金になっているのは久住自信の感情だ。強く願えば意識的に行うことも可能だろう」
上手く、行くのだろうか。
失敗すれば自分だけではなく他の人にまで迷惑がかかる。まして自分の能力について今さっき言われたばかりで自覚さえもない。そんな状況で上手くいくのだろうか。
何より太一は?
インパクトという能力で無理矢理獣になった。もう一度同じ力を当てられて今度こそ取り返しの付かないことにならないだろうか。
だけど、他に方法が分からない。
岩崎の言葉を、水守の言葉を信じて良いのだろうか。
二人ともいい人だが、今回は人の命に関わること。簡単には決められない。
(でも)
「俺が出来る限りのサポートはする。無理強いはしない。やるかどうか決めるのはお前だ」
「……」
明弥は鈴華を見る。
彼女は縋るような目で見ていたが、視線が交わると気まずそうに目を伏せた。
ぎゅっとまぶたを閉じる。
そしてゆっくりと開いた。
「やるだけやってみる。だから、」
手伝って欲しい。
明弥の言葉に、岩崎は力強く頷いて見せた。