7 影響の波
神社の拝殿の脇を抜けると、そこには道場のような建物があった。ここで神事の時に奉納する舞の練習などをするのだと岩崎は言う。
彼に促され道場に入ると暖かいような空気を感じた。木々の覆い茂る神社の敷地内は他の場所より少し温度が低い。四月の暖かい気候とはいえ、少し肌寒さも覚えるほどだ。それに比べてこの建物はまるで暖房か床暖房のようなものが入っているかのように暖かだった。建物や床は古く黒光りをしていてとても床暖房が入っているようには見えなかった。
妙な暖かさに違和感を覚えながらも中に入ると岩崎が入り口に何かを貼りつけたのが見えた。
お札のようだ。
それも彼の言う「遁甲」の一つなのだろうか。疑問には思ったが、尋ねなかった。今はそれよりも聞きたいことが山ほどあった。
「まずは聞きたい」
座るように促しながら岩崎が少女を見る。
彼女は南条鈴華と名乗った。獣の男、南条太一とは兄妹なのだと言う。
「君は彼が……人とは違うことを知っていたのか?」
彼女は頷きながら座る。
明弥もその近くに座る。練習場ということもあってか座布団も無かったが、床はやはり妙に暖かい。床に直接座っても冷える印象はまるでなかった。
「はい、知っています。でも、あんな風に突然変化したのは初めてでした」
「苦しんでいたのはいつもの事か?」
「いいえ。見たことありません。いつも太一くんは自分の意思で変化していたし、自分の意思を失うなんてこと……ありませんでした」
どうして急に、と鈴華は視線を落とした。悲痛そうな表情で俯いた彼女に明弥は掛ける言葉もなかった。
岩崎はそんな彼女を静かに見つめながら思案するように口元に手を当てた。
彼は驚くほど冷静だ。明弥は太一の兄を名乗る男から説明を受けていたから、突然変化した太一を見ても冷静でいられたが普通こんな風にはいかないだろう。
神社の関係者というのはこういう現象に慣れているというのだろうか。それとも、彼だけが特別なのだろうか。
明弥はじっと彼を見つめる。彼はやがて静かに明弥を見据えた。
「多分、久住が原因だろうな」
「えっ? 僕!?」
突然自分に振られて明弥は頓狂な声を上げた。
明弥は慌てて言い直す。
「あ……えっと、俺が原因って……」
「入試の時もそうだった。お前を中心に不可視の波のようなものが出た」
「不可視の、波?」
尋ねると岩崎は頷く。
「限りなく霊体に近い波。外部に向けて勢いよく放たれる‘オーラ’と言った方が分かりやすいか? 厳密には違うがそれに似たものだと認識してくれればいい」
オーラと言われぼんやりと納得する。
「不可視なのに岩崎君には見えたの?」
指摘すると彼は少しだけ眉根を寄せた。
「俺のことはどうでもいい。問題はその波だ。その波に影響されるように入試の時は水道管が破裂し、今回は彼が変化を起こした」
「……他人に影響する力……インパクト」
少女がぽつりと呟いた。
岩崎が鈴華の方を向く。自然と明弥も彼女の方を見た。
「お前、何か心当たりが?」
少女は頷く。
「聞いたことがあります。他人の潜在能力を引き出す力です。爆発のように起こり、他人に影響を及ぼす力なので、インパクトと呼ばれていると」
不可解そうに岩崎は眉をひそめた。
「何故君がそんなことを?」
「私の兄が……そう言った能力を研究しているんです」
「兄というと先刻の?」
鈴華は首を振る。
おさげが左右に揺れた。
「違います。上の兄、斎です」
「あ、その人、こういう髪型で……スーツの似合う優しそうな人?」
身振りで説明すると少女は驚いたように目を見開いた。
少し驚き、警戒するような素振りを見せる。
「そうですけど……兄を知っているんですか?」
「前に太一……さんに襲われた時に助けてくれたんだ。名前聞きそびれてどうしようかって思っていたんだ」
「そうなんですか」
少女はほっとしたように微笑む。
岩崎が睨むように明弥を見た。
「……なるほど、覚えていないというのはやっぱり嘘か」
「え?」
呆れたように岩崎は息を吐く。
「お前、警察に覚えていないと言っただろう。車に乗り込んでからのことは良く覚えていない、気付いたら病院にいた、それは嘘だったんだな」
「え? ええ? どうしてそんなこと」
あの時のことは誰にも言っていないはずだ。警察に事情を聞かれたことすら嫌でも事情を知ってしまった家族にくらいしか話をしていない。何故詳しいことまで彼が知っているのだろうか。
彼は少し首を傾げる。
「お前色んな刑事に聞かれただろう。その中にいなかったか、岩崎という女の刑事」
確かに病院で意識を取り戻してから色んな警官に入れ替わり立ち替わり同じ事を何度も聞かれた。その中に確かに岩崎と名乗った女刑事がいた。小柄で若い女性なのに刑事なのだな、と強く覚えていたのだ。
考えて見れば同じ岩崎だ。
岩崎なんて苗字は珍しくない。けれどこんな言い方をすると言うことは血縁なのだろう。そう言えばどことなく雰囲気が似ているような気がした。
「あ、あれ、もしかしてお姉さん?」
「母親だよ」
「ええっ? あの人まだ三十台前半くらいだったよ!?」
驚愕した明弥の声に恥ずかしくなったのか、岩崎はそっぽを向く。
「……俺の母親のことはどうでもいい。嘘を付いたこともこの際置いておこう。問題はこれからどうするか、だな。……聞くが、彼はどうやって人の形に戻る?」
「自分の意思で、です」
鈴華の答えに岩崎が頷く。
「今回の場合人の意思を失っている。つまり正気を戻させるか、気を失わせない限り、彼を人の形に戻す手段はない」
「そんなの、どうやって?」
足の速さも、腕力も、人を遥かに凌ぎ簡単に意思を失わせなられない事を経験から知っている。明弥達の力だけでどうこう出来る相手ではない。
「それを今考えている」
岩崎は厳しい顔で答える。
明弥も難しい顔で考え込む。
(……斎さんなら)
彼なら出来る。
連絡先なら鈴華が知っているだろう。
(だけど、それはダメだそれは最後の手段……)
あの日、別れ際に言ったのだ。
彼に使った麻酔は強いものなのだと。今回は大丈夫だったけれど、頻繁に使うことがあれば命に関わることさえ出てくる、と。
だからダメだと明弥は思う。
彼が人でなくても、例え自分を襲ってくる相手だとしても、死なせていい、危険な目に遭わせて良いなんて言う理由になんてならない。
どうすれば良いのだろう。
斎に連絡を取って最良の手段を考えて貰うのが一番いい。けれど、もしもあの薬を使う事が最良なら、太一が危なくなる。明弥達の力で何とか出来るならそれに越したことはない。
優しそうな人だと思ったのだ。
外面は厳つく怖そうな印象の人だったが、鈴華を大切にしていたし、出会ったばかりの明弥を庇ってくれるような人だ。獣の姿は怖いけれど、どうでもいいなんて思えなかった。
(やっぱり斎さんと連絡を……)
決めるのは自分だろう。
岩崎の方が冷静で決断力もあるだろうが、彼は巻き込まれただけだ。鈴華はまだ小学生で、太一の妹。彼女に決めさせてはいけない。今、選択すべきは自分。
だけど、分からない。
何が正しいのか、最良なのか。
何も分からない。
ピリリリ、と不意に携帯電話の電子音が鳴る。
明弥はぎくりとして顔を上げた。
鳴っているのは岩崎の携帯電話だ。彼は携帯電話を見つめたまま一向にその着信に出ようとはしない。
「出ないの?」
「……出る、しかないようだな」
「?」
意味が分からず明弥は首を傾ける。
彼は顔をしかめたまま携帯電話を耳に押し当てた。