6 遁甲
「太一くんっ!」
「止せ、行くな」
少女が太一の元に走り出しそうになるのを岩崎が止めた。
「でも……」
「お前の知っている‘タイチくん’と少しでも違うなら、近付くな!」
鋭く言われ少女は唇を噛む。
太一は苦しそうに頭を押さえ、呻き声を上げている。
必至に自分を押さえつけているように明弥には見えた。
ようやく立ち上がった男が、半分這うようにしながら走り去ったのが見えたが、今はそれどころではない。
大通りの方からざわめきが起こる。
ようやく事態の異常さに気が付いたかのように人だかりが出来ているが、むしろそれは危険と分かっているのではなく、興味をそそられているだけだと分かる。所々で携帯カメラの撮影音が響いてくる。
ざわめきの中から映画や撮影という言葉を聞き取る。
確かに、事前に同じ獣に遭遇していなければ、男が狼に変身する姿など現実だと信じられなかっただろう。だが、明弥がそれが特撮の撮影でないことを知っている。
「久住、逃げるぞ」
「逃げるって……でも」
岩崎は明弥の肩を掴んで小声で囁く。
「この辺には警察がいる。万が一の時には俺たちよりも上手く対処してくれる」
「警察?」
「ともかく、行くぞ。お前もだ」
言われ少女は頷いた。
岩崎は携帯電話を確かめて、次いで太一の様子を振り返った。太一は頭部を抱えながらよろよろとこちらに近付いてきている。必至に何かと戦っているように見えた。
ばしゃ、と岩崎がアスファルトに何かをまいた。
手元にはミネラルウォーターのペットボトルが握られている。赤毛の男と自分たちを隔てるように、道路上に水で一本の線が引かれた。
引かれた線から何か青白い光が陽炎のように揺らめく。
「……?」
「簡単な目眩ましだ。どの程度利くか分からない。アレが全力で追いかけてくる前に安全な場所まで逃げる」
訝る明弥に岩崎は説明を加える。もっとも、その説明を聞いたところで明弥には彼が何をしたのかが理解できなかった。
彼は歩きながら携帯電話に耳を当てる。
明弥はその後に付きながら少女の手を握った。
「俺です。説明は後ほど、用件だけ伝えます。駅前オレンジの……2-3-3」
彼は電信柱にかかったプレートを確認しながら言う。どうやら電話の相手に場所を知らせているらしい。
「はい、事件です。……いえ、俺は神社の方に。………そうです、願いします。……はい、そちらもお気を付けて。……タクシー拾うぞ」
電話を切った後すぐさま彼は明弥達を振り返った。
どうなっているか分からないが、今は彼に従うしかないと思った。
どっちにしても明弥にはどうして良いのかが判らないのだ。なら、少しでも把握していそうな彼に指示を仰いだ方がいい。
少女もまたそれに不服は無いらしく大人しく彼の言葉に従った。
目の前で知っている男が突然獣の姿に変わり始めたのだ。混乱していてもおかしくない。だが、彼女はそのことに関して混乱している様子は無かった。おそらく、彼女は彼が「人狼」であることを知っているのだ。明弥を助けてくれたあの人と同じように、彼女もこのことを知っている。
けれど何かいつもと様子がおかしい。彼女の様子から、普段は獣となってもこんな風にはならなかったのだろうと思う。
だから岩崎に従っているのだろう。
駅前に着くとタクシー乗り場に行く前に彼はタクシーを捕まえる。少し不審そうにドアを開けた運転手にタクシーチケットを手渡し彼は指示通りに進むように言う。
少女を挟むようにして後部座席に乗り込んだ学生二人を不審そうに見ていた運転手だったが、鬼気迫るような岩崎の表情に大人しく頷いた。
「……その先左折、その次の信号も左折」
「それならこの先の広場でUターンした方が早……」
「言うように進んで下さい。お願いします」
運転手は不可解そうに首を傾げたが、彼の言うように進み出す。
彼の指示は目的地に早く着くルートではなかった。まるで道に迷っているように何度も似たような道を進んでいる。
明らかに効率が悪い。
「……何やっているの?」
少女が不思議そうに尋ねる。
「遁甲だ」
「トンコウ?」
「さっきも言ったけど、簡単な目眩ましだよ。あの男……彼が俺たちを追いかけにくくしているんだ。……ああ、そこは右折です。その先真っ直ぐ。……日と時間がいいから今回は上手く行くが本来はこんな簡単にはいかない」
明弥は後ろを振り返る。
前に彼に追いかけられた時には猛スピードで接近してくる赤い影が見えた。しかし今日はそれがない。それどころか、騒ぐ人の気配すら感じなかった。
岩崎は少しだけ表情を緩める。
「無理に信じなくても良い。分かる必要もない。ただ、安全に進む方法なのだと思っていればいい」
「岩崎くん……」
彼はちらりと女の子を見て、次いで明弥を見据えた。
その視線は鋭いが恐ろしくは無かった。
「お互いに聞きたいことも、確かめたいこともあるはずだ。だが、まずは目的地に着くのが先だ。遠回りになるが、それでもあと十分くらいで着く」
岩崎は身を乗り出して運転手に次の指示をする。
「……次の信号左折、そのまま真っ直ぐ山の方へ」
特殊な客に少し楽しくなってきたのか運転手は威勢良く返事をする。
こんな風に無茶なルートを指定する客なんて今までにいなかったのだろう。イライラして怒り出すような運転手でなくて良かったと思った。
こう言うところは恵まれているのだと明弥は思う。
自分の身の回りで他人が聞けば不運としか思えないことばかり起こるけれど、明弥はその分人に恵まれている。いい人なんて言えばまた怒られそうだが、運転手も岩崎もやっぱりいい人なのだと彼は思う。
そして彼女も。
明弥はちらりと隣を見る。
握ったまんまの少女の手が少し汗ばみ震えているのが分かった。
「大丈夫?」
声を掛けると少女は微笑む。
「はい。平気です」
控え目だが、明るい笑顔。
この状況には似つかわしくない。
それでもほっとしてしまうような力が彼女の笑顔にはあった。
「そろそろ着くぞ」
岩崎が言う。
いつの間にか木々の多い静かな場所まで来ている。
タクシーはその中でも一際木の多いところで停車する。すぐ脇に、赤い鳥居が見えた。
「……神社?」
少女とともにタクシーを降りて、鳥居を見上げながら明弥は呟く。
運転手に礼を言って降りてきた岩崎が横にならんだ。
「岩崎神社だ」
「岩崎って……」
彼は肯定するように首を縦に振った。
「ここは俺の先祖が代々宮司を務めている」