4 願ったこと、叶わないこと
尾行?
誰が、誰を?
明弥は戸惑ったまま瞬いた。
「校門を出たところからずっと後を付けてきている。ガラスに映ったのを確認した」
岩崎は声のトーンを落として言う。
「……次の角で曲がる時に出来るだけ自然に振り返って確認しろ。左側にいる灰色の服を着た男だ」
明弥は半信半疑のまま、道を曲がる瞬間に何気なさを装ってその姿を確認する。
視線が交わった。
何か後ろ暗いことがありますと言わんばかりにあからさまに視線を逸らされる。
岩崎の言う通り、灰色の服を来た男だった。一瞬見た印象では三十代半ばか後半くらいだろう。多少ガラの悪そうな男に見えた。
見覚えはあるか、と岩崎の視線が尋ねる。見覚えが無いと視線だけで答えた。
一瞬だけでは分からないが、少なくとも彼が覚えている範囲内で知り合いではない。
彼がやや歩調を早めた。明弥はそれに合わせるように多少小走りになる。
後ろの男を意識して小声にしながら明弥は問う。
「ほ、本当に付けてきているの?」
「確かめて見るか?」
「……うん」
頷くと、岩崎が走った。
明弥も続くと、やはり後ろの男も弾かれたように走り出した。それはこの街中を歩く人にしてみれば不自然な反応。駅方面に向かって走っているのならば、電車に乗り遅れる事に気付いたという理由で走るのは頷けるが、彼らが向かっているのは駅とは逆の方向。
尾行されているという岩崎の言葉は間違いないようだ。
不自然に思われても見失うよりはマシだと思ったのだろうか。明弥達が気付いたことが分かったのかも知れない。もはや彼に隠れている意思は感じられない。
男の様子を窺うために振り向いた瞬間だった。
「久住!」
岩崎が注意を促すように叫ぶ。
「え? ……わっ……あっ!」
気が付いた時には遅かった。明弥は勢いよく何かに激突する。
衝撃は自分の身体に跳ね返り、ぶつかった力と同じ力で跳ね飛ばされる。転倒を覚悟して彼は目を瞑る。
転倒はせず、代わりに腕に力がかかった。誰かが声を上げる。
「……っと、悪い、大丈夫か?」
「……?」
明弥は目を開いて瞬いた。
「え? あれ?」
男が片手で明弥の身体を支えていた。二メートルはありそうな偉丈夫だ。あの狼を連想させるような赤い髪の男だった。
(……まさか)
あの人では無いだろうか。
あの時、路上で倒れていた人狼の男。
あの時顔は見えなかったが、体つきがよく似ている。
まさか、と明弥は心の中でもう一度呟いた。
赤毛の大男と言うだけの特徴で勝手に決めつけるのは失礼だ。こんな大柄な人はそんなにいないろうが、全くいないわけではない。大体、あの人が普通に出歩いているのだろうか。あの人は、お兄さんが「保護」したのだ。
「太一くん、どうしたの?」
男の後ろ側で洋品店の自動ドアが開く。彼の半分以下の印象を受けるほど小柄な少女が男を見上げる。
男は優しそうな顔で微笑んで明弥を示す。
「ん、こいつと不注意でぶつかったんだ」
「身体が大きいんだから気を付けないとだめよ」
「面目ない」
少女に窘められ、男は苦笑を混じらせながら言う。
しっかり者の娘という感じだろうか。外見的には政志と同じか少し下という感じだが、大人しそうでずっと大人びてさえも見えた。おさげが印象的な可愛い子だ。
彼女はにこりと微笑んだ。
その表情がまるで同年代の女の子に微笑まれたかのような錯覚を覚え、一瞬自分が今尾行されていてそれから逃げようとしていたことを忘れた。
「ごめんなさい、怪我ありませんか?」
ドキリとした。
弟と同じくらいの女の子を恋愛の対象になんか見たことがない。けれど彼女の表情があまりに大人びていて驚いたのだ。
明弥は一拍置いて答える。
「あ、うん、大丈夫……」
「おい!」
岩崎が慌てたように明弥の肩を引いた。
瞬間的に現実を思い出した。
振り向いた先で追いかけてきていた男と視線が混じる。こちらに向かって走ってきた男だったが、明弥と顔を合わせる形になって戸惑ったのか動揺した素振りを見せた。或いは明弥の後ろに立った大男に驚いたのだろう。
男は踵を返した。
岩崎が動く。
逃げるように走り出す男を追いかけるように彼は走った。
ひゅうと、大男が口笛を吹く。
「おお、俊足」
狭い路地に入り込んだ男の襟首を岩崎が掴む。
大通りには人が行き交う姿があったが、狭い路地で繰り広げられていることに気が付かないのか見向きもせずに素通りしていく。たまに振り向いた人がいても、一瞥しただけで面倒なことに巻き込まれるのを嫌ってかそのまま早足で通り過ぎていった。
明弥が路地を覗き込むと男がもがき、反撃をするところだった。
「岩崎く……」
「止めとけ、お前じゃあ足手まといだ」
彼を助けるために走りかけた明弥は太一と呼ばれた男に制され止まる。
男を見上げると顎をしゃくって見るように促す。明弥は慌てて視線を岩崎の方へと戻す。
岩崎は強かった。
ケンカ慣れをしていると言うよりは、格闘技の経験があるような動きだった。身のこなしに一切の無駄がなく、冷静に見つめる眼差しには余裕さえも見て取れた。
繰り出された拳を岩崎は難なく交わし、足を大きく振り上げた。勢いよく振り下ろされた瞬間、男の身体ががくんと沈む。
踵落としだ。
格闘技系の番組でくらいしか見たことがない。
確かに明弥が近くに行けば逆に足手まといになりそうだ。
「凄い」
女の子が呟く。
同感だった。
生徒総代になるほど頭が良く、見た目も格好良い。その上強いともなれば彼は完璧だ。凄いと言う以外に感想がもてない。
「この、クソガキが!」
岩崎の足下に蹲った男が起きあがった。
手元にきらりと光るモノが見える。
刃物だ、と悟る。
「危ないっ!!」
明弥は叫ぶ。
見ていられずに目をきつく瞑った。
穏やかな生活を望んでいた。
自分のせいで誰かを巻き込んだり、傷つくことのないような生活を望んでいた。
そのために岩崎に話を聞こうと思ったのに、今、彼が危機に瀕している。
どうして、と思う。
何故今刃を向けられているのが自分ではないのだろう。
せめて自分だったら諦めもついたのに。
平穏な生活。
そんな当たり前の生活すら、望めないのだろうか。