3 愚鈍
「岩崎くん、ちょっと待って!」
既に最初のHRが終わっていたためにクラス写真を撮り終えるとそのまま解散となった。親が入学式に参加した生徒は親と一緒に帰宅していったが、やはり高校の入学式ともなるとわざわざ来ない家も少なくはないらしく幾人かの生徒達はまだ残り無駄話をしていた。
明弥の親も入学式には出てこなかった。
昇降口に向かう岩崎の側にも親の姿はない。おそらく彼の親も不参加だったのだろう。明弥が後ろから呼び止めると彼は一瞬振り返ったが、一瞥しただけですぐに取り出した靴を下に投げ落とした。
不機嫌そうな彼は話しかけられるのも嫌そうに眉根に皺を寄せている。
他の生徒や教師達と話をしているのを見かけたが嫌そうな態度をとってはいなかった。こんな風にあからさまに嫌悪感を示した態度を取るのは明弥に対してだけだ。
やはり自分は彼に何かしてしまったのだろう。
明弥はそのまま帰ろうとする岩崎の腕を掴んで引き止める。
「待って、俺、何かした?」
じろり、と睨まれる。
やはり不機嫌そうだ。
「ごめん、何かしたなら謝るけど……」
「お前」
岩崎は顔だけ振り向いた。
二人の立っている場所には少し段差があり、明弥の方が高い位置にいる。それでも岩崎に見下ろされているような気分になるのは明弥よりも高い身長だけが原因ではないだろう。威圧感のようなものが彼の瞳にはあるのだ。
彼は静かな口調で言う。
「馬鹿だろう」
「……うっ、それ今日二度目」
明弥は口をへの字に曲げた。
先刻も同じ事を安藤に言われたばかりだ。多少自覚はしているが、やはり日に何度も言われると落ち込む。
「離せよ。伸びる」
「あっ、ごめん!」
明弥は慌てて彼の腕を放した。
服を直しながら岩崎は小さく息を吐いた。どこか観念したような表情。もう先に行ってしまう意思は無さそうだった。
明弥は自分の靴箱からスニーカーを出す。彼はそれを見つめながら抑揚のあまりない口調で言う。
「川上とは帰らないのか?」
明弥は頷く。
「トモちゃん親来ているから。……えっと、同じクラスだったって?」
「ああ」
言葉は少ないがちゃんと会話は交わしてくれるつもりらしい。
明弥は微笑んだ。
「岩崎くんってやっぱりいい人だよね」
「馬鹿にしているのか?」
彼はあからさまにむっとした表情を浮かべる。
明弥は慌てて手を振った。
「そんなつもりじゃあ……」
岩崎は腕組みを詩ながら鼻先で笑う。
「おめでたい脳だな。大体‘いい人’は褒め言葉じゃない」
「そうかなぁ……」
「それで?」
「え?」
「こんな無駄話するために呼び止めたんじゃないだろう?」
何か気を悪くさせるような事をしたのなら謝りたいと思ったのは事実だ。けれど彼の言うようにもう一つ目的があった。色々と聞きたいことがあるのだ。自分に忠告をしてくれた彼だから知っている気がするのだ。
明弥は歩き始めた勇気に並んで歩く。
熱心な部活の勧誘の先輩達が配るビラを受け取りながら行くと自然と一歩遅れる形になった。岩崎は差し出される一切を無視して歩いている。
「入試の時の事で聞きたいことがあるんだ」
「……」
後ろからでは彼の表情が見えないが、返事はなくとも聞こえているはずだ。明弥は目の前に差し出されたビラを全て受け取りながら小走りに彼に駆け寄りながら続ける。
「岩崎くんなら知っているでしょう? 俺、自分が危険な目に遭うのはいいけど、誰かを巻き込むのは嫌なんだ。だから……」
岩崎は僅か振り返った。
嫌そうな表情をされて一瞬尻込みをする。
だが、引くわけにはいかない。これは自分だけの問題じゃない。
解決出来る手段があるなら何でもする。だけど、それには情報が少なすぎる。あの時何故岩崎は自分に忠告してきたのか、その理由を知りたかった。知れば何か解決の糸口が見えてくるかもしれない。
少なくとも、何もしないでただ嘆いているよりはずっとマシだ。
「始めに言っておく」
彼は睨むような目つきで明弥を振り返った。
校門を出る少し手前で立ち止まったために目の前に差し出された弓道部の勧誘のビラを受け取る形になった岩崎は小さく舌打ちをした。明弥も弓道部のビラを受け取り束になった紙を軽くまとめる。
「俺は、お前がシラを切っている可能性がゼロじゃないって考えている。むしろ状況証拠から見ればお前が意図的にやったと考える方が自然だ」
「それって……」
どういう意味、という言葉は吹奏楽部の演奏にかき消される。
頭の良い進学校なのに何故こうも部活動が熱心なのだろう。
岩崎は校門の外に向かって歩きながら少し怒鳴るような声で言った。
「それでもいいなら、……それで満足するなら、俺が見たこと全部話してやるよ」
「本当? 話してくれるの?」
「ともかく、来いよ。ここじゃあまともに話も出来ない!」
彼は片耳を押さえながら苛立ったように吐き捨てた。
確かにここじゃあうるさすぎて会話もまともに出来ない。
明弥は頷いて紙束を鞄の中へと詰め込むと彼の後に続いた。
学校から離れ彼の後を歩くと騒がしい人の気配は消え、代わりに車が行き交う騒音が響き始める。西ノ宮高校から駅方面へと向かうとどうしてもこの大きな道路を渡ることになる。歩道橋を上がり大通りを渡ると駅前の大型のショッピング街になる。
バレンタインの日に事故が起きた場所も、赤毛の獣に襲われた場所も全てそのショッピング街で起こった事だ。
ちらりと横目で見やって少し重い気持ちになったのは純粋にあの時のことを思い出したからではなく、岩崎がいるからだ。万が一にも彼を巻き込むことになってしまえばと考えると気持ちが落ち着かない。彼まで巻き込むことになってしまったら、もう怖くて誰とも一緒に出かけられなくなるだろう。
それを解決するために、岩崎に声を掛けたというのに。
明弥は不安な気持ちを払拭するように頭を振った。
「どこまで行くの?」
「珈琲屋」
「えっと、ドトール?」
「いや、オレンジ色の猫のマークの」
「ああ……あの店。ああ、そうか<珈琲屋>か」
明弥は納得したように頷く。
コーヒー屋と言われたから大雑把な言い方をすると思ったが、そうでは無かった。駅前の大通りから一本外れた道にある‘珈琲屋orange猫’という店があるのだ。その辺のカフェと違って学生の自分にはちょっと敷居の高いイメージのある店だ。ガラスにオレンジ色の猫のマークが描かれていて印象的だったから覚えていたが、そうでなければコーヒーに興味がない限り素通りしてしまう店だろう。
「コーヒー好きなんだ?」
「知り合いの店だ」
「ああ、それで」
明弥は頷いた。
地元の人間じゃなければあまり通らないような人通りの少ない道を抜けて、やや賑わいのある道へと出る。確か、この通りに珈琲屋があるはずだ。
当然曲がると思っていたが、岩崎は何喰わぬ顔でそこを通り過ぎる。
「……?」
「久住」
岩崎は近くに来いと言うように指先を軽く動かした。
指示通りに明弥は彼の横に駆け寄る。
「振り向かずに歩け」
「え?」
反射的に振り返りそうになるのを堪えて彼の横顔をじっと見つめた。
険しい表情をしている彼は視線だけを明弥に向ける。
「尾行られてる」