11 Ain Suph Aur
聴取のためにまた警察に何日も行くことになった事以外、あの事件の前と後で変わったこと何て無い。
それも一段落がついて、暫く休ませてもらっていたアルバイトも再開し、ウソのような平穏な日々が訪れた。
変わったことがあるとすれば、少し感覚が鋭くなったことだろうか。勇気のように何かが見える訳ではないけれど、自分の能力を少しだけコントロールできるようになった。
そのくらいしか変わっていない。
「お先に失礼します」
厨房に向かって声をかけると吉岡と鮫島が振り向いた。
「あれ、もう上がり? 今日は早いんだね」
「何だ、アキ、デートか?」
鮫島に言われ、明弥は慌てて手を振った。
「そ、そんなんじゃないですよ、友達が妹の見舞いに来てくれるって言うから飲み物くらい用意しておこうと思って」
「何だぁ、赤くなってんじゃねーかよ」
「え、ホント、そんなんじゃないんです、友達って言っても小学生の女の子と男ですよ。一人は鮫島さんより大柄な男の人だし」
「望より大きい人? 随分異色な組み合わせだね」
兄妹なんですよ、と明弥は笑って言う。
太一と鈴華はマスコミが騒いでいる間、伊東刑事の好意で彼の所で寝泊まりしていた。岩崎刑事が「騒がれると捜査がしづらくて大変。どうせ使ってない部屋だから自由に使って頂戴」と勝手に言いだしたらしいが、伊東刑事も特に反対しなかったらしい。
それで随分と助かった、と太一は話していた。太一だけならばどこでも寝泊まり出来るが、鈴華が一緒となるとあまり無茶も出来ないとも言っていた。
「友達来るなら、クッキー持っていく?」
吉岡は綺麗にラッピングされたクッキーを示して言う。
お茶請けとして店頭に並んでいる焼き菓子の一つだ。
「え? 売り物なんじゃないですか」
「それがね、今日は作り過ぎちゃったんだ。望が」
ちらりと吉岡が見上げると、鮫島は苛っとしたように眉間に皺を寄せた。
「強調すんなよ」
「作りすぎたって……どうしたんですか?」
「それがね」
「言うなって」
「卵落として30個全滅させたんだ。苦肉の策で日持ちのする焼き菓子系。まったく、食材を駄目にするなんて料理人として恥ずかしいよね」
「うるせぇよ、無駄にしないように使ったじゃねーか」
「それにしたって多すぎるよ。この間も警察にお世話になったし、たるんでるんじゃない?」
「アレは俺が原因じゃねぇ! 何か分かんねー事件の巻き添え喰らっただけじゃねぇか」
大規模なインパクトが起こった時、鮫島にはその兆候があった。実際思い返してみれば以前にもほんの僅かそれらしい様子を見せていた事があった。
鮫島を初めとして何人かの人達は警察に保護された。様々な理由をつけて保護や監視をされていたが、その兆候はほんの数日だけで徐々に元通りになっていった。今も定期的に警察や勇気が様子を窺っているらしいが、インパクト前と今は全く変わらないらしい。
勇気の言葉を借りれば「ドライアイスが気化するようだった」という。
インパクトで不自然に目覚めたからなのか、それとも他に理由があるのか知らないが停電以外に大騒ぎになった事件はない。
「明弥、何笑ってんだよっ」
「え? ええっと……平和だな、って思って」
「ああ?」
「な、何でもないです。ともかく遠慮無くもらっていきますね。鮫島さんのクッキー美味しくて好きなんですよ」
「うっ……あ……そうか」
「あはは、顔が赤いよ」
「う、うるせぇ!」
照れた鮫島のを笑って明弥はラッピングされたクッキーを受け取る。
鈴華も太一もここの焼き菓子は好きだと言っていたからきっと喜ぶだろう。
『orange猫』を出てすぐに勇気と落ち合った。最近はバイト帰りに弓道の練習から帰ってきた勇気と落ち合うことが多くなった。今日は休日と言うこともあって、お互いに早い時間で切り上げてトモミの見舞いに行こうという話になっている。
トモミはまだ目を覚まさない。
けれど顔色はとてもいいように感じていた。
毎日ではないけれど、色んな人がお見舞いに来てくれるからだろう。彼女は人と一緒にいるのが好きだ。だから嬉しいのだろうと思う。
いつだったかいつも病院に付き合わせて勇気に悪い気がして謝ると、彼は少し気分を害したようにしながら言った。
川上は俺にとっても友人だから、と。
さも当然とうように言われて明弥もそれから何も言っていない。
病院に着くと、外来用の待合室の隅に太一達の姿が見えた。
「よう」
明弥達が入るとすぐに太一が気が付き片手を上げた。すぐ近くにいた木村看護士が太一に白い袋を渡すと明弥達に軽く笑いかけ、そのまま仕事へと戻っていった。
少し柔らかい雰囲気だった。
「あれ、邪魔した?」
「いいや、鈴華の薬を処方してもらっていただけだよ。二週間振りだよな。ユーキには警察の方で会ってるが」
「そうなの?」
見上げると勇気は頷いてから、正確にはすれ違っただけなのだと注釈を入れた。
「何かずっとすっげー久しぶりの感じもするよな。それまで毎日のように顔を会わせていたから……鈴華、何隠れているんだよ」
太一は自分の後ろに隠れて出てこようとしない鈴華を促すように肩を軽く叩く。
鈴華はあれから少し感じが変わった。
大切な兄を失って落ち込んでいる風だったが、それも思いの外早く吹っ切ったかのように現場検証にも立ち会っていた。そしてあれから鈴華の精神は不思議な程に安定を見せていた。
古武玲香が出てこなくなったというよりは、鈴華が彼女を抱きかかえているようにも見えた。時々やはり精神を落ち着かせる薬が必要だとは言っていたが、それも徐々に量が減っているらしい。
「えっと……あの」
鈴華が戸惑ったように太一の後ろから姿を現す。
少し、驚いた。
「鈴華ちゃん、髪が」
短くなっていた。
「変、ですか?」
彼女は不安そうに明弥を見上げた。
三つ編みをしていても胸に届きそうな位に長かった髪が、短く切りそろえられていた。大人っぽい印象は変わらないが、良い意味で十二歳の子供らしい雰囲気になっている。
今までどこか精一杯背伸びしているような印象だったが、髪を短くした彼女は等身大の彼女の姿のようだった。
明弥は慌てて首を振る。
「ううん、可愛いよ、ねぇ、勇気?」
「ああ、よく似合っていると思う」
「良かった……こんなに短くするの、久しぶりだから不安だったんです」
彼女はほっとしたように笑った。
「だから言っただろう? 似合っているって」
「でも、太一君何でも可愛いって言うから」
「可愛いモン可愛いって言って何が悪いんだよ」
太一は唇をへの字に曲げる。
こういうやりとりは変わらないな、と明弥は微笑む。
暖かくて好きだ。
お互いにお互いが大切な事がよく分かる。
太一は何か言いたげだったが、こんなところで話していると他の患者の邪魔になると勇気に促されて、明弥達はトモミの病室へと向かった。
既に顔なじみになった看護士達に挨拶をしながら病室へ入ると入り口で不意に太一が立ち止まって鼻を鳴らした。
「ん……誰か来ていたのか?」
「え?」
「薬品と混じって分かりにくいが、何か普段と違う匂いがする」
「午前中に川上のおじさんたちが来ていたはずだけど」
「その、せいか? ああ、原因はこの花か」
太一が花瓶に生けられたひまわりの花を見る。
川上のおじさんだろうか。
ベッド脇の花瓶に切り花用の小振りなひまわりが生けられている。季節としてはまだ少し早いが、ひまわりはトモミの好きな花だ。
ひまわりの匂いと言ってもあまりピンと来ないが、嗅覚の鋭い太一にはその鼻の匂いも敏感に感じ取ったのだろう。
それはきっと太陽のような自然の匂いだ。
その匂いに誘われるように、少し開いた窓から暖かな風が病室の中を吹き抜けてくる。
明弥はトモミの髪を撫でて語りかける。
「トモちゃん、みんなお見舞いに来てくれたよ。ひまわりの匂い分かる? あと、バイト先でクッキーもらったんだ」
目を閉じて静かに寝息を立てているトモミが心なしか微笑んだように感じた。
不意に、ひまわりの葉の上に小さな赤い点を見つけ、明弥はそれを見つめる。
丸い実のようなそれはてんとう虫だった。
ひまわりにくっついてきたのだろう。よじ登るように派の先まで辿り着くと、ゆっくりとその羽根を広げ飛び立つ準備を始めた。
ゆらりと葉が揺らされる。
風に揺れてなかなか飛び立つことが出来ないと言う風に、てんとう虫は葉の上で耐えていた。
やがて葉の揺れが落ち着くと、再び羽根を広げる。
「……や………?」
掠れた息のような声が聞こえた。
明弥は驚いてトモミの方を見る。
微かに彼女の睫毛が動く。
うっすらと開かれた瞳が眩しいものを見るかのように明弥の方を見つめている。
「……明………弥?」
「……ぁ……」
声が、出なかった。
ベッドの上で固く目を閉じていた彼女が、目を開いて自分の名前を呼んだ。
ふわり、とてんとう虫が羽根を広げ飛び立った。螺旋を描くように周りながら開かれた窓から目が覚めるような蒼穹の空へと飛び出していく。
これは夢だろうか。
自分の願望が見せている幻だろうか。
でも。
それでもいい。
明弥は顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「おはよう、トモちゃん」
ちょうどその時、病院の前に付いた男は不意に気になって空を見上げた。
手には仄かにピンク色をした百合の花が抱えられている。
彼の瞳に、空へと舞い上がったてんとう虫の姿は小さすぎて映っていないだろう。だが、彼はまるでそれを見つめるように空を見上げた。
やがて男は小さく笑って病院の中へと入っていく。
赤い虫は、青い空の中にとけるように消えた。
了