10 手向けの煙草
事件から一月半ほど経過した。
適当な理由をつけられて拘留されていた有信が出所する頃になると、事件は既に「少し前の事件」になっていた。
ニュースで事件のことを目にすることも無く、時々あの研究所の前を通りかかった人間が思い出したように呟く程度だった。後から見返した新聞や雑誌の記事では、実験失敗で爆発が起こり、その責務を問われるはずの所長が失踪。立てこもった上に自殺を図ったと報道されていた。いい方は悪いが、真相解明されていなくても街の人間にしてみればその事件よりも隣の県で起こった殺人事件などの方が面白いようだ。
誰もそれが十年以上前からの因果で引き起こされた事件だと知らない。
それに巻き込まれ命を落とした人間が何人もいたことを知らない。
事件の当事者達と一部の警察関係者だけが僅か知っている程度だった。
「悪いな、遅くなった」
有信は墓場の前で呟いた。
そこには豪華でも質素でもないどこにでもある普通の墓石が置かれている。
刻まれた名前は「古武宗」。
墓石の名前を見つめながら有信は煙草に火を付けた。軽くふかして線香台の上へと置く。線香の代わりに白い煙が一筋上がる。
あの家に残っていた彼の愛飲の煙草だ。
煙草以外に何も用意していない。他に必要はない気がした。
「葬儀にも、四十九日にも出れなくて悪かったな。まぁ、十年以上もチャンスを待っていたんだ。待つのは慣れている、な?」
語りかけると自然に笑いが零れた。
宗は病院に運ばれた後、一度も目を覚ますことなく亡くなったそうだ。
ただ、銃で撃たれた為に亡くなったわけではない。一命を取り留めた後、身体を蝕んでいた病が彼の心臓を止めた。
斎が自殺を図ってから一週間後の事である。
どちらにしても、今の医学では彼の病を治せなかったのだ。
だから、これでいい。
事件に巻き込まれて死んでしまったのでないのなら、それで、いい。
「高橋さん」
「祐里子」
「やっぱり逢えた。今日ここに来ると思っていたわ」
彼女は白い日傘を差していた。
着ている衣服は勿忘草のような淡い色のワンピースを着ている。真っ黒の髪の毛は相変わらずであったが、彼女が黒以外の服を着ているのは初めて見た。
「占いで、か?」
「いいえ、出所すると聞いて真っ先にここに来るとおもったの」
彼女は穏やかに笑う。
何か吹っ切れたような顔をしていた。
「結局、お前に会わせることが出来なかったな」
「いえ、会えました」
「だが話すことは出来なかっただろう?」
彼女は頭を振る。
「いいえ、話せました。一度だけ、呼びかけに応えるように手を握り替えしてくれたんです。それだけで十分なんです」
「そうか」
「感謝しています。それなのに、私、何も出来なくて」
「警察へ刑が軽くなるようにと掛け合ってくれたそうだな。いくら俺の保護が目的の拘束でも一年くらいは出られないのを覚悟していたが」
「私は何もしてないわ。むしろ迷惑かけたくらい」
有信は首を振る。
あのタイミングで警察に保護されていなければ、有信はあのまま斎を殺すために力を使っただろう。トモミのことを知って許せる気分ではなかった。拘束されている間に、事件のことを知ってもおそらく同じ事をしただろう。脱獄をしてでも絶対に自分の手で殺していた。
斎が自殺をしてしまったために、やり場のない憎しみがあった。だが、宗の言葉を思い出すと次第に氷解していった。
多分まだ完全に燻った感情を消火することは出来ないだろう。でも、拘束されている間に少し頭が冷えた。今会えばもう少しマシに話ができるだろう。
(だが)
有信は思う。
もう二度と彼に会うことはない。遺体が発見されていない。だから今もどこかで生きている気がしてならない。けれど、例え生きているとしても、もう二度と彼と出会うことはないような気がした。
その方がいいと思う。
「お前、これからどうするんだ?」
父親を捜していたのだ。
目的は果たしてしまっただろう。
「長野に戻るつもりよ。こちらにいる理由、無くなってしまったから」
「そうか」
「お墓参りにはくるわ。だからその……」
彼女は少し言いにくそうに目を伏せる。
有信は小さく笑う。
「連絡してくれれば俺も墓参りに来る」
「そう、良かった」
「当分、この辺りにいることになったんだ」
言うと彼女は不思議そうに顔を上げる。
どこかへ行くとでも思われたのだろうか。
「実は岩崎刑事にある条件を呑まされた」
「出所する為に?」
「ああ。……研究を続けて欲しいと、頼まれた」
「え?」
「‘Ain’ではない。ウィッチクラフトの方だ。あの計画に関わった子供達……祐里子も含めてだが、それが普通に生活出来るように研究を引き継いで欲しいと頼まれたんだ」
それは警察庁の意向だと言っていた。
正直、研究は進めるべきではないと思っていた。いつ誰がまた古武玲香のような考えで進んでしまうか分からない。
けれど岩崎刑事は言う。
少なくとも有信が所長を務める間は大丈夫だと。まず道を示せる人間がいた方が安全ではないかと。
有信は条件を呑んだ。
「高橋さん」
「それは俺の名前じゃない。警察から本名を聞いているだろう?」
「でも、貴方から直接聞いたわけではないわ」
有信は苦笑する。
やはり明香に似ている。
少し強情で、真っ直ぐな。
「久住、有信だ」
「有信さん」
にこり、と彼女が微笑む。
嬉しそうに笑う、百合の花。
「上手くいきます。きっと大丈夫、私が保障するわ」
「それは占いか?」
「いいえ、根拠のない自信よ」
「そうか」
有信はおかしそうに笑った。
こんな風に笑うのなんて、何年振りだろうか。
祐里子もつられたように声を立てて笑った。
ふと、祐里子が何かに気が付いたように瞬いた。見えないものを目で追うようにゆっくりと視線が宙を泳ぐ。
有信は首を傾げる。
何かいたのだろうか。
「どうした?」
「いえ、有信さん、今日はこれから明弥さん達に会いに行くの?」
「電話はしてみようと思っていた。あの子達にも自分の生活がある。一緒に暮らすつもりはないが、ちゃんと会って、話はしなければとは思っている」
「会いに行って」
「いやしかし……」
トモミはまだ眠ったままだ。明弥は優しい子だから、会いたいと言えばきっと会ってくれるだろう。でも、まだ早くないだろうか。自分自身の心の準備すら出来ていない。それに、会って何を話せばいいのだろう。
「大丈夫よ。きっと何もかもうまくいくから。今日の有信さん、とても運勢がいいのよ。十年に一度あるかないかくらいの」
「そうなのか?」
頷いて彼女は急かすように有信の背を押す。
「ええ、だからこんなところで運気使う前に会ってきて。今からなら病院に行けばちょうど会えるはずよ」