7 遅すぎたこと
斎の言葉を聞いた瞬間、鈴華の身体が震えた。
残酷な言葉だと思った。
鈴華という人間は存在しない、兄になった覚えはない。それは鈴華自身の全てを否定する言葉だった。
(……でも)
彼女を抱きしめたまま明弥は思う。
同じ、ではないだろうか。
自分に赦される必要はないと言った時と同じではないだろうか。
「南条鈴華という人間は、法律にも自然にも逆らって産まれた子供です。いなくなったとしても元の状態に戻るだけなんですよ」
まるで自分を憎むように仕向けるような言葉。
そうしているようにしか思えなかった。
明弥は目を瞑る。
トモミのことは理不尽だと思った。考えれば誰かを、自分を憎まずにはいられない。
自分がもっと早く気付いていれば、あの時自分が彼女に会わなければ、無理にでも彼女と一緒に行動していたなら。そうすれば変わったのではないかと自分を責めた。
だから、斎を激しく恨んだ時、一瞬だけ何か解放された気分になったのだ。
自分のせいではない。斎のせいだと思うことで、一瞬だけ軽くなった。
だから彼がこんな風な態度を取ること、それが自分たちの為の嘘である気がしてならなかった。本当に自分のしたことを悪いとも思っていなかったら、あの時わざわざ明弥に伝えに来る必要なんて無かったのだ。
そうだって思いたかった。
「……人を恨むのって、辛いことです」
あの涙の温度を思い出す。
嬉しくて流す涙は暖かい涙だ。悲しくて流す涙は冷たい涙だろう。だが、人を憎んで流した涙は凍えてしまうほど冷たかった。
二度と、あんな涙を流したくはない。
「正直、苦しいんです。自分を責めるよりも苦しかった。だから、斎さんが悪い人じゃないって信じたいです」
斎が哀れむように明弥を見た。
「貴方は愚かですね」
「それでもいいです。俺は憎んで苦しむより馬鹿で愚か者でいた方がいいから」
愚かであっても、自分がどんなに損をしようと、理不尽だと泣こうと、誰かを恨んで暮らすよりよほどいい。
いままでだってそうやって生きてきた。
腹が立たない訳じゃない。明弥だって人間だし、当然誰かのせいにしてしまいたいことだってある。あたってしまうことだってあるだろう。でもそれとは違う。馬鹿だと言われるだろう。生き方が下手だと言われるだろう。
それでもいい。
世の中に心の底から悪い人なんていない。
どんなに悪いことをしている人だって、必ず優しい面を持っている。明弥はそれを信じたかった。
「でも」
明弥は鈴華の身体を支えたまま立ち上がる。
「貴方がこれ以上鈴華ちゃんに何かするつもりなら止めます。力づくでも、何でも、絶対に止めるから」
「その子はあなた達家族を追いつめた元凶ですよ」
そうじゃない、と明弥は首を振る。
「古武玲香さんのことは聞いているけど、俺の知ってる鈴華ちゃんは俺の弟と同じクラスの優しい女の子です」
くっ、と斎が笑う。
「トモミさんを追いつめた事を知らない訳じゃないでしょう」
それを言われると確かに複雑だ。
でも、言える。
誰かを恨まないと決めた今ならちゃんと言える。
どんな表情を見せても明弥にとって鈴華は「古武玲香」ではないのだ。
「だけど、鈴華ちゃんは鈴華ちゃんだ」
責めるのは間違っている。
もしも仮説が本当なら鈴華の中には「南条鈴華」と「古武玲香」が共存していることになる。もしも「古武玲香」のしたことが鈴華の本意ではなくそれによって彼女が苦しんでいるのなら、それはおかしな事だ。
鈴華は責められるべき存在ではない。まだ護られなければいけない小学生だ。大人びていても、誰かより頭が良くても、彼女はまだ12年しか生きていない。優しい子で、人のことを思いやれる良い子なのだ。
「貴方だって知っているはずです」
鈴華がどんなに優しい子であるかを。
斎の顔から笑顔が消えた。
初めて見る顔だった。
憎しみや憎悪を描いているわけではない。ただ無表情に見つめる目。
それが彼の素顔なのではないのだろうか。十数年、誰にも見せることが無かった造り物ではない顔。それを見ている気がした。
「本当に、愚かです」
口調は変わらず穏やかだった。
彼はそのまま続ける。
「貴方のように生きられれば、変わったのかもしれませんね」
吸い込まれるような瞳が明弥を捕らえた。
どくん、と心臓が強く鳴る。
「でも、遅すぎました」
瞳に捕らえられ、明弥は身動きが取れなくなる。
「全てが、遅すぎました」
『イッキ、やめろ!』
「太一くん、駄目!」
一瞬の事だった。
ほんの数秒の出来事だったはずだ。
スローモーション。
全てがゆっくりと流れて見える。
二メートルの赤い巨体が跳躍する。
その爪が斎に向かって振り下ろされようとしていた。
「鈴華ちゃん!」
はっとして明弥が叫んだのは、そちらに向かって鈴華が走っていったからだ。割って入ろうとするように、彼女の小さな身体が斎の前へと躍り出た。
太一が一瞬怯んだ。
その鋭い爪を鈴華に当てないようにするように身を退いたのが分かった。
だが、間に合わなかった。
太一の爪が、鈴華に向かって振り下ろされる。
肩口がえぐれ血が噴き……
「………!」
叫ぶ。
誰の名前を呼んだのか。
そこから全てがいつもの時間の流れを取り戻した。