1 安定を欠いた獣
酷い頭痛がした。
遠くで電子の音が一定のリズムを刻んでいる。それに会わせるように頭がズキン、ズキンと疼くように痛んだ。
目を開くのさえ億劫になる頭痛。それは思考を鈍らせ、気を萎えさせる。夢うつつの中でも感じる痛みは古い記憶を呼び覚ます。
鮮烈な痛みと共に浮かび上がるのは初めて獣になった時のこと。
人の性が抜け落ち、本能だけが覚醒するように自分が誰であるかが分からなくなった。
あの時頭痛と繋がった思考だけが自分の理性だった。今のこの痛みはあの時の痛みによく似ている。
手放せば苦痛を感じなくなるだろう。
例え大切な誰かを手に掛けたとしても、痛むことはない。
それが、獣としての彼の本性だった。
「……っ」
太一は意識をはっきりさせようと髪の毛をかき混ぜた。
髪の毛にしては太い何かが音を立てて彼の頭から剥がれる。
一定のリズムを刻んでいた機械音が警告音に変わる。複数の人間が慌てて駆け込んできたのが分かった。
(ここは……研究室か)
うっすらと目を開くと、白衣を身に纏った人間達がせわしく動いているのが見えた。
誰かの手が太一の手を押さえ込み、太い注射針を打ち込んだ。痛みは大したことがないが、反射的に動こうとする手を別の誰かの手が押さえ込んだ。
安定剤だ。
彼は判断する。
何度も経験しているから、自分が何をされたのかが分かる。彼らが、太一の痛みを和らげようとしているのが分かる。
だが、煩わしい。
太一は力任せに白衣の連中を払った。
このままでは、彼らを殺してしまいそうだ。
目を覆い、低く唸るように言い放つ。
「……イッキを呼べ!」
「私ならここにいますよ」
冷静な声が戻る。
目を開くと、白衣の研究員達の向こうからいつもと変わらない様子の男がいつもの笑顔で立っていた。
南条斎。
戸籍上では今自分の兄にあたる人物だ。見つけて、ようやく、頭の中に冷静さが戻ってくる。自分の凶暴な衝動も、彼ならば抑えてくれるという安心感があった。
頭を抑え、太一は尋ねる。
「……状況は? 何があった?」
意識が今ひとつはっきりしない。
何があって今研究所にいるのかがよく思い出せなかった。自分は確か、久住明弥を「監視」するために出かけていたはずなのだ。
「あなたは街中で獣化しました。私がそれを保護しました。……ああ、あなた方はもう戻って結構ですよ。後は私がやります」
斎に言われ、研究員達が返事を返して部屋の外へと出て行く。
徐々に戻ってくる感覚を支えに太一は上半身を起こした。ぶちぶちと身体に付いていた検査の為の線が抜ける。騒がしい電子音が切れたのは斎が電源を落としたからだろう。
太一は深く息を吐いて記憶を辿る。
(……獣化した?)
恐怖に怯えた少年の姿が脳裏をよぎる。
それは紛れもなく久住明弥を襲った証拠だ。
「私が対処しなければあなたは殺していたでしょうね」
斎は淡々とした口調で言う。
その口調から久住明弥が大した怪我もなく済んだことがわかる。彼はほっと息をついた。
「……話したのか?」
「誰に?」
「久住明弥にだよ。あいつとあったのか?」
「会いました。話もしました。最も今はこちらの事情を詳しく説明するわけにはいきませんでしたからね、簡単な説明をして納得して帰って貰いましたよ」
太一は半眼で男を睨む。
「じゃあ、お前」
いいえ、と彼は首を横に振った。
「私が‘説得’をするまでもありませんでした。彼はとても優しい子です」
「……馬鹿か、あいつは」
自分が殺されるかも知れない状況だったことを分かっているのだろうか。斎の介入が無ければ無事で済んだ自信がない。そもそも、意識的に獣化した時ならともかく突然何かに押されたように獣化した時には正気は保てない。
そう、太一は押されたのだ。
強い力に‘獣になれと’背を押された。
だから簡単に正気を失ってしまった。そうでなければ獣になっても人を襲わないように訓練してきた自分が襲うはずもない。人狼として人の世の中で生きていくことを選んだ自分が、簡単に自分を見失うはずがないのだ。
「イッキ」
「はい?」
「大丈夫なのか?」
「何がですか?」
聞き返す斎に太一は唸る。
「質問に質問を返すなよっ!」
「あなたの言葉が足りないんですよ。それでは何に対して聞いているのかわかりません」
太一は舌打ちをする。
頭の良い斎ならば太一が何を尋ねたかすぐに分かるはずだ。敢えて聞き返すのは相手に必要以上の情報を与えないためだ。太一に、という訳ではない。普段から、そうするように癖を付けているのだ。
いつもそうだ。
慣れているはずなのに苛立つのは自分自身に不安があるからだろう。
太一は溜息をつく。
「……万が一にもお前の身に何かあれば、困るのは鈴華だ。街の方は騒ぎになっただろう? 大丈夫なのか?」
「はい。警察がここに辿り着いたとしても強制捜査になるような証拠は残していません。それに、マスコミはそれほど騒いでいませんよ」
太一は顔を上げる。
獣になる瞬間を誰かに見られていなくても、あの街中で太一は姿を晒した。少なくとも久住明弥を襲った時に、他の人間の気配を感じている。彼の獣としての姿は狼だ。野犬と見間違われたとしても、少年が襲われたとなればマスコミは騒ぎ出すはずだ。
それほど騒がれていないとはどうしたことだろうか。
「爆発事故があったんですよ」
彼を睨む。
「……お前がやったのか?」
「まさか。いくら私でもうやむやにするためだけに人を巻き込んだりはしません」
どうだか、と太一は心の中で呟く。
斎は笑顔のまま続けた。
「このところ火事が頻発していますからね。その関連かも知れないし、全く別の件かも知れませんが、大きな事故で犠牲者も出ました。不謹慎ですが感謝しています」
大きな犠牲者の出なかった事件よりも、何人もの犠牲が出た事件の方が人の興味を集める。マスコミはより衝撃的な事件の方に動く。おそらく警察も火事の方を重点的に調べるだろう。
確かに不謹慎ではあるが、少しほっとしたのも事実だ。
「……心配なら自分の心配をしなさい、太一」
うん、と太一は頷いて見せる。
「人狼がいるなんてマスコミが知ったら騒ぎ立てるもんな。気を付ける」
「そう言うことを言っているのではありませんよ。あなたは今とても不安定になっています。薬で抑えていますが、いつ獣化してもおかしくないでしょう。変調があるならばすぐに私に言って下さい」
斎は少し不安そうな表情を浮かべた。
「私は、あなたを殺したくはありません」
「イッキ……」
獣化した自分がどんなに危険か知っている。
今回は何とかなったが、殺さなければ止まれない状況になるかもしれない。万が一の時は斎が自分にとどめを刺すのだろう。そうなりたくないし、させたくもなかった。
何だかんだと言いながらも太一にとって今一番信頼できるのは斎で、斎にとっては太一なのだ。
物理面でも、精神面でも。
太一は目を閉じて頷く。
「……分かった。何かあったらすぐにお前に言うよ」
「はい、そうして下さい」
斎はほっとしたように笑って見せた。
獣化することに不安なのは、太一だけではなく斎にとっても同じ事なのかも知れない。久しぶりに見た斎の不安そうな表情に少しだけ気持ちが軽くなった気がした。