5 全てが終わる場所へ
朝から降り続いていた雨も止み、空から穏やかな光が降り注いでいる。
斎が運転する車は、いつも歩いている繁華街や住宅街を抜け、だんだんと人の気配の少ない道へと入っていく。
木々に残る雨粒に反射して眩しいくらいの景色は、どこか寒々としているようにさえみえた。
「どこへ行くの?」
後部座席から尋ねるように見ると、バックミラーに映る斎は貼り付いたような笑顔で答えた。
「全てが終わり、始まった場所です」
「……」
鈴華は彼を見返した。
意味が分からない言葉だった。けれど、これからどこに向かおうとしているのか分かっているような気がした。
既視感。
いつなのか分からない。ただこうしてこの兄と一緒にこの道を進んでいた記憶がある。それは、いつのことだっただろうか。
「人の中で生きていくつもりなら、人の作った法に従う必要がある」
「え?」
「かつて私たちに有賀教授が言った言葉です、覚えていますか?」
「斎兄さん……?」
鈴華は瞬いた。
突然、兄がおかしくなってしまったような気がした。
いや、おかしいのは自分だろうか。
聞き覚えの無い名前なのに妙な懐かしさを感じる。
「ウィッチクラフトは神が与えた力などではありません。悪魔が、人を唆すために与えた力です。私はこの力で多くの人を壊してきました」
バックミラーに映る兄の瞳が開く。
色の薄い光彩はまるで闇を見つめているように冷たい。
全身が粟立った。
兄のこんな表情を見るのは初めてだろう。
「私の瞳は人を惑わせます。人を操ることは難しいことではありません。けれど、私の瞳は同時に人を壊す。故に悪魔の力です。ですがレイカさんの力は違いました」
「……」
「癒しの手。万能で無くても貴方の力は人を癒す力でした。それはおそらく神が与えた力です。その意味で貴方は貴方の理想に一番近い場所にいたんです」
鈴華は手を見つめた。
癒しの手。
少し心当たりがあった。
万能ではない、その言葉にも心当たりがある。
(結局私は実兄さんの病気を治すことができなかったものね)
一瞬、鈴華は違和感を覚える。
自分に兄は斎と太一しかいないはずだ。「実」という人物には心当たりがない。だが確かに知っているのだ。
頭の後ろにちり、と灼けるような感覚を覚える。
「全ての能力が貴方のような力なら争いは無かったでしょう。明香さんのように優しい人ばかりなら悪用したがる人間などいなかったでしょう。でも人は罪深い生き物です。罪と知りながらも私利私欲で動く。私でさえそうです」
「でも、斎兄さんは優しいわ。だって、いつも太一君や私のために自分を犠牲にしてまで働いてくれて……私がこの年齢まで生きて来られたのも、斎兄さんがいてくれたから」
ふわり、と兄が笑う。
「そうですね、私は鈴華を護るために尽力してきました。……でもレイカさん、それさえも私は自己満足のように思えて仕方がないんです」
運転しながら、彼は助手席にあるファイルを手に取ると、鈴華の方にそれを差し出した。
鈴華はそれを受け取る。
ずっしりと重いファイルだった。
開くと中には新聞のスクラップ記事がびっしと貼りつけられた紙が丁寧にファイリングをされていた。
その記事の内容は、強盗や殺人といった悲惨な事件ばかりだった。
「ウィッチクラフトを持つ人間が関わった事件です。後ろの方を見て下さい。ここ数日間に起こった事件です」
鈴華は言われた通りファイルの後ろの方を開く。
同じようにファイリングされた記事の日付は新しい。第一面に踊るような大きな事件ではないが、その件数は不自然な程に多かった。窃盗や暴行事件、見た限りでは死者が出ていないと言うのが救いだろう。
それでも記事の件数は多い。
「全部超常能力者が関わった事件なの?」
「はい。私の持つ資料の名前と住所が一致しています。警察の方では普通の事件として処理しているようですが、数件はあの頭の回転の良い岩崎警部が預かったそうですよ。大規模なインパクトが起こり、多くの人が目覚めています。警察が保護するよりも犯罪件数が増加する方がよほど多いでしょうね」
「……どうして……どうして、力をそんな風に使うの? 誰かを傷付けても何も良いこと何てないのに」
「……」
きっ、とタイヤが音を立てて車が止まった。
斎がシートベルトを外す。
「着きましたよ、降りて下さい」
鈴華はファイルを脇に置いて車から降りる。
古い病院のような施設だった。もう使われなくなって久しいのだろう。所々窓ガラスが割れていたり、壁に焼け焦げたような跡が見える。
雑草の覆い茂る庭は元々どんな形であったか分からないほどになっている。
それでも覚えがある。
自分はかつてこの場所に来たことがある。
もっとこの場所が綺麗で、建物の壁も白く清潔な印象だった頃に。
「……ここは」
「覚えがありますか? レイカさんが亡くなり、鈴華が産まれた場所です」
産まれた場所。
そして、死んだ場所。
一緒に来て下さい、と斎が言う。
鈴華はそれに従うように歩いた。
院内は土埃が入って汚れている。
それでも人が何人か出入りした気配があった。壁には赤いスプレーでおどろおどろしい落書きがされている。
ここが心霊スポットにされていたのが分かるような文字ばかりだった。
助けて。
死にたくない。
そんな文字がまるで狂気のように重ねて書かれている。人の形をした染みのような落書きもあった。
踏み入った人達に取ってこの場所がどんな場所であるか、関係ないようだった。
「レイカさん、何故人を傷つけるように力を使うのか、そう問いましたよね?」
「……うん」
鈴華は頷く。
斎の背中はどこか苛立っているようにも見えた。
院内の落書きよりも、その背中の方がずっと恐ろしく見える。
後に付きながら鈴華はぎゅっと自分の手を握りしめた。
「答えは簡単なことです。貴方の理想を達成するには人の心が弱すぎたんです」
「理想?」
「人はまだ‘Ain’に触れるには早すぎたんですよ」
確かに、と彼は続ける。
背を向けたままどんどんと奥に進む。
「確かに、貴方の理想は素晴らしいものでした。その通りになれば我々のような人間達が迫害されることも、嘘つきと罵られて苦しむことも無かったでしょう。けれど現状では実現は不可能でした。おそらくこの先も人の心が成長しない限り不可能です」
斎は荒らされた院内を進み、大きな扉の前で立ち止まる。
壊そうと何度も蹴られたような跡や、扉に「開けて」と訴えるような言葉が書かれている。
ここを訪れた誰一人としてこの扉を開けることが出来なかったのだ。
斎はドアに着いた鍵穴に鍵を差し込みひねると電卓のようなパネルが現れた。
そこにパスワードを打ち込むとひゅん、と電源が入る音と供に扉が開いた。
斎はようやくそこで鈴華を振り返った。
その顔には笑みが浮かべられていた。
「レイカさんの命がもう少し長く続いていれば、成功如何はともかくとして、計画は実現していましたよね。……でも、もうお仕舞いです」
「斎兄さん」
斎は鈴華に手を差し出す。
「行きましょう。全て終わらせる準備が整いました」