2 津波の影響
「兆候はない。大丈夫そうだ」
勇気は「orange猫」で働く彼女の姿を見ながら伊東に伝える。
伊東は頷いて彼女の名前が書かれた名簿の横に「A」と書き入れた。兆候が無いという意味だ。
大規模なインパクトが起こり、津波のように街中を覆った。
近くにいた勇気が巻き込まれて暴走しなかったのはおそらく奇跡だろう。以前勇気は明弥の波に巻き込まれて暴走をしかけたことがある。あの時感じた感覚と今回の感覚は少し種類が異なった。
トモミの力が交じり合った為だろうか。それとも大規模な爆発を起こしたためだろうか。広範囲に広がったために力が薄まっていたのかもしれない。
それでも街の様子は少し変化をした。
街は一時的に大規模な停電を起こした。まだ復旧していない所もある。その騒ぎがまだ収まっていないために少し浮き足だったような感じになっているだけではない。空気の流れが以前と異なっているのだ。
おそらく何人かがインパクトの力に引かれ超常能力に目覚めたのだろう。おそらく大多数の人間が気が付いていない。無意識の状態で力を使うために大気が乱れる。この空気の変質はおそらくそれによるものなのだろうと勇気は思った。
「良かったんですか?」
「何が」
「明弥君の側にいてあげたほうが良かったんじゃないですか?」
伊東は他の資料をまとめながら言う。
おそらく生きている人間の全てが潜在的に超常能力を持っている。それでも目覚める可能性の高い人物と低い人物がいる。初めからその傾向があった人物はゼロ班が既にリストアップしている。その名簿を片手に、勇気はあのインパクトで目覚めている可能性のある人を確認しに回った。
集中してみればその人間の周りを流れる「気」が違うのが分かる。それを兆候と呼び、兆候の顕著な人物に注意を促すために回っている。
他の人が調べて回るよりも、勇気が「見る」方が格段に早い。
そのため、勇気自身が協力させて欲しいと申し出たのだ。
無論一人二人で確認出来る人数ではない。
他の捜査員も回っているし、愛が警察庁の方に協力要請をしている。勇気と伊東が確認しているのは中でも「要注意」とされる人物とその家族についてだ。
「……望さんは理由をつけてゼロ班が保護した方がいいかもしれない」
「はぐらかしましたね」
「明弥は大丈夫だよ」
勇気は自分に言い聞かせるように言う。
「あいつは伊東さんが思っているより弱くない」
「それでも勇気くんが近くにいてあげるのと、そうでないとでは違うと思いますが?」
「逆に俺は近くにいない方がいいと思うんだ」
勇気は憔悴した様子の明弥を思い出す。
話しかければ答える。誰かが励ませば微笑む。だが、全てが朧気でまるで幻を見ているような気分になった。
それでも、明弥はゆっくりと変化していた。
他の人間にはあまり理解されないだろうと思う。誰もが親友なんだから一緒にいてやればいいのに、そう思うかも知れない。
でも勇気は一緒にいることを選ばなかった。今は勇気が一緒にいることが妨げになる気がしたのだ。
だから、それが一番なのだ。
先に事態の収拾に動き出す、それが勇気が彼に示した唯一の意思表示であり、励ましの言葉だ。明弥ならばそのうち気付く。立ち上がり、走って追いかけてくる。そう信じていた。
「あいつは自分自身が傷つくよりも、他人が傷つく事で心を痛める人間だ。今俺に出来る最大のことはこれだよ」
勇気は名簿をトンと叩く。
明弥が心配といえばそうだ。でも、心配して付き添うだけが彼の為になるわけじゃない。一緒にいることが友情ではないのだ。
「それより古武宗の容態は?」
伊東は刑事の顔になる。
「依然意識不明の状態が続いています」
あの日、太一と伊東が駆けつけた時、火災で大騒ぎになっている研究所で見つけたのは、久住有信と、拳銃で撃たれ意識不明になっている古武宗だった。救急車を待つよりも直接走った方が早いと太一が背に乗せ運び込んだそうだ。
撃った坂上は抵抗する様子も全くなく、簡単に逮捕された。南条斎はその後、事情聴取を受けていたが逮捕はされていない。逮捕するだけの理由がないのだ。
逆に久住有信が逮捕された。
罪状は公文書偽造容疑。はっきり言ってそれは彼を保護するための苦肉の策としか言えない。
こういった状況になってしまえば久住有信が南条斎を殺すために動き出す可能性が高くなる。それを止めるために全く関係のない理由をつけて彼を捕まえたのだ。
久住有信にトモミの事は伝えられていない。
そして明弥にも父や古武宗のことは伝えられていない。もう少し落ち着いてからすべきだと言うのがこの事件に関わっている刑事達の統一意見だった。勇気もその意見に賛成だった。ただ連日報道は続いているために、彼が父親達のことを耳にするのも時間の問題だろうとも思っている。
今はまだテレビを見る気にもなれないのだろう。
彼の口から疑問の言葉は出てこなかった。
「古武宗は意識を取り戻さない可能性が高いです。戻ったとしても生きれる時間はそれほど長くありません」
「あいつが知ったら泣くだろうな」
「延命治療の中止も提案されましたが、家族が難色を示しています」
「古武の家の方の? それとも……」
「水守祐里子です」
彼の治療が始まった直後、訪れた水守祐里子は古武宗の娘を名乗った。戸籍を調べても古武宗に子供がいたという記録は残っていない。それでも実子である可能性を捨てきれない上に、治療費は全て彼女が払うと言いだした為にそれ以上何も言うことが出来なかった。
今は親子関係を立証するために彼女とのDNA鑑定がされているところだ。
事情を知る可能性のある水守小夜子と連絡を試みたが、彼女は既に長野県にはいなかった。
「南条鈴華は?」
「精神科で解離性同一性障害と診断されましたが、輪廻が絡んだ可能性がるのなら、ゼロ班側の管轄です。今は様子を窺っている状態ですね」
「輪廻の可能性はあると思う?」
「分かりません。クローンである可能性は高くなりましたが、だからといってその身体に輪廻出来る可能性は低いです。むしろ幼い頃に脳の一部を移植されたか、繰り返し何らかの刺激を受け、本人が古武玲香であると思いこんでいる可能性が高いです」
「どっちも事例有か。でもクローン体に輪廻するという新しい事例の可能性もある」
伊東は頷く。
「その通りです。だから様子を見る他ありません」
南条斎は彼女が古武玲香の娘であることは認めたが、クローン体であることは認めなかった。父親が分からないと言われてしまえばそこで終わりだ。その上、古武玲香の遺伝情報が残っていない以上、確かめる術もない。
埋葬された骨の欠片でも残っていれば鑑定は可能だったかもしれない。しかし、彼女の埋葬先は不明である。彼女に繋がる情報はほぼ全て消されてしまっているのだ。
それが南条斎の凶眼を使った隠蔽工作なのか、あるいは別の誰かによる隠蔽なのかはまだ警察は掴みきれていない。そもそも、ゼロ班以外の警察が「凶眼」という存在を認めて発表するわけにはいかない。
難しい事例なのだ。
勇気は息を吐く。
「ともかく今はこちらに専念しよう。ウィッチクラフトによる事件が起こる前に」
「はい」
伊東がそう頷いた時だった。
テーブルの上に置いた携帯電話が突然震えだした。