1 凍てつく涙
じっとしていたら狂ってしまいそうだった。駆けつけた叔父叔母たちとも話していることが出来ず、まるで何かを求めて彷徨うように病院の敷地内を延々と歩き回った。
そうしていなければ引き裂かれてしまいそうだった。
あの時、トモミの顔が今までに無いほどに動揺で歪んだ。
次の瞬間感じた、引っ張られるような感覚。
それがトモミが「インパクト」を使おうとして明弥自身も引っ張られてしまったのだと本能が先に理解した。
止めに入ったが既に遅く、何かの力で崩落した天井が、彼女とそのすぐ近くにいた鈴華を押しつぶした後だった。
そして今彼女は手術室の中にいる。
幸い鈴華の方はかすり傷だった。
一時脳震盪を起こして意識を失ったために、念の為に検査はうけているものの、小さいからだが幸いしたのか鉄製のテーブルの隙間に挟まるようにして彼女の身体は押しつぶされる事は無かったのだ。それが何よりの救いなのだろうと明弥は思う。
(だけど……)
あの時明弥が見た鈴華は鈴華ではない気がした。
大人びた穏やかな表情が明らかに変わっていた訳ではない。いつもとかわらないくらい穏やかに見えた。だが、崩れた天井に飲まれる一瞬前、明弥の目に映ったのは空虚な笑みを浮かべる少女。
明弥の知らない酷く冷たい笑いを浮かべる誰か。
思い出すと恐ろしくてならなかった。
「明弥君」
呼びかけられて明弥は顔を上げる。
「斎さん……」
どういう顔をすれば良いのか判らず明弥は視線をそらせた。トモミのせいで鈴華が巻き込まれたのだ。自分が謝るのもおかしい。だからどういう顔で彼女の兄と接すれば良いのかが判らなかった。
ふわりと笑った気配がした。
「話は聞いています。貴方が気を病むことではないんですよ」
「でも……」
「私はこうなることを予測していました」
「え?」
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。
斎は普段と変わらない優しい顔で笑う。
「少し、お話をしましょう」
促すように示され、明弥は近くのベンチに腰を下ろす。
斎もまたその隣に腰を下ろした。
日も傾き始めた夕刻。院内を歩く人の姿はまばらになりつつある。もう少しすれば仕事帰りの見舞客が増えてくるだろう。外来の方はまだ少しざわついている。
ベンチに座り明弥は優しい顔の彼を見る。
今の明弥の心境と温度差がありすぎて少し寒気がした。
「予測していたって……どういう意味ですか?」
明弥は尋ねる。
嫌な感じがした。
「そのままの意味です。私はトモミさんにインパクトの兆候はないと言いましたよね」
「はい。そう聞きました」
「嘘ですよ」
「え?」
さらりと言う。
まるで悪意などないと言うように、冗談を言って驚かせたあと、ほっとさせるために「嘘だよ」と言って笑わせるような口調。
けれどそれは冗談では澄まされない事。
「彼女には明弥君とは少し種類が違うけれど、確実にインパクトの兆候はありました。このところ頻繁に起こっていた火災の大半は彼女が無意識に引き起こした物です。火事は、あなた達兄妹には特別な意味がありますからね」
瞬く。
彼の言葉が意味することが分からない。
火事が特別であるのは分かる。
二人にとって父親を象徴するものだ。
不意に、彼女の言葉を思い出す。
いつだったか言わなかっただろうか。火事が起きるたびに父親ではないかと思った。起きないと繋がりが断たれた気がして不安になると。
あれは、そう言う意味だったのだろうか。
「けれど、ないと言いました。彼女にはまだ自分の能力を自覚して欲しく無かったんです」
「……どうして」
「暴走させるためです」
全身が粟立った。
言葉が理解出来なかった。
暴走させるため?
この人は一体何を言っているのだろう。
「彼女の力は明弥君の能力よりも周りに与える影響は少ないですがタガが外れやすい。刺激を与えれば貴方よりも簡単に暴走することなど分かっていました。そして明弥君はトモミさんの影響を受けやすい。……ここまでは分かりますね?」
頷くことも出来なかった。
表情を全く変えずに言う斎。
全身が何かで押さえつけられるように動かない。
自分は今何を言われているのだろうか。
「彼女の能力を暴走させれば非常に高い確率で明弥君の能力も一緒に暴走します。そのためには最悪の状態で彼女に自覚してもらう必要があった。少し細工をさせて頂きました」
笑った彼は自分の瞳を示す。
邪眼、凶眼と言っただろうか。人を惑わす瞳なのだと聞く。
穏やかな色を浮かべる瞳の奥は冷たい氷をちりばめたようだった。
「彼女の担任教師は彼女と相性が悪い。……それを少し利用しました。彼女が一瞬でも担任を殺してしまいたいと思うような言葉を言って頂いたんです」
言葉が出ない。
どうしてこの人はこんな穏やかな顔をして言っているのだろう。
どうしてこんな切り裂くような言葉を平気な顔で言っているのだろう。
言葉が、出てこなかった。
「案の定、トモミさんは力で担任を傷つけました。それを自覚して優しいトモミさんが自分を責めない訳がないですよね。その状況で、今の鈴華が近付けばどんな状況になるか私には予測が付きました。……予測通りでしたよ」
「……どうして……」
声が震える。
「それが‘Ain’の最終段階です。暴走したインパクトで様々な人間の特殊能力をたたき起こすんです。あなた達は私たちの研究が完成するために犠牲になって頂いただけなんです。だから、これから何が起ころうとも貴方が気を病むことは無いんです」
「そんなことのためにっ!」
明弥は立ち上がる。
背が寒い。
全身にざわめくように広がった鳥肌がおさまる気配すらみせなかった。
「そんなことの為に、貴方は……!」
未だかつて、これほどまでに怒ったことはない。
人を憎んだこともない。
淡々と話し笑う男を、明弥はいつものように笑って許すことも出来ない。
吐き出したは呪いの言葉のように淀み、そして鋭い刃のように彼に斬りつけた。
「僕は、貴方のことを絶対に許さない!」
涙が、零れた。
溢れ出るように頬を伝った一筋は凍えるほど冷たかった。
男はそれを受け止めていつも以上に穏やかな表情で微笑んで見せた。
「貴方に、赦される必要なんてないんですよ」