9 シンジツ
「……今から決行する。手はずどおりに行け。………ああ、最後の仕上げは俺がやってやるよ」
にっと笑って宗は電話を切る。
高揚する気分を押さえようと煙草の煙を吸い込むと、自分でも不思議な程落ち着いているのが分かった。
これから始めようとしていることを考えれば恐ろしいほど落ち着きすぎているが、逆にそれが当然のことのようにも思える。
このために十数年ずっと息を殺し続けたのだ。
覚悟はもう出来ている。
煙草を車の灰皿にねじ込んで帽子を深く被り直した。
清掃業者を装って敷地内に入った。
本来なら真正面から突破するべきだが、さすがにポリタンクを抱えて入るわけにはいかない。どちらにしても受付の女は宗の顔を覚えているだろう。変に警戒されるのも面倒だった。
変装など騒ぎを起こすための一瞬のためのものだ。
それだけの間だませれば上出来だ。
彼は後方のドアを開いて清掃機材の入ったカートを引っ張り出す。普通に業者が使うものだ。それぞれの会社でルールが少し違ってもやっていることは殆ど同じだ。堂々としていれば怪しまれない自信があった。
実際誰も宗に見向きもしない。
ちらりと目をやる者はあっても訝っている様子は見られなかった。
彼は堂々と受け付けホールに入る。
人はそんなに多くない。
今ならばいける。
「……全部、終わらせてやる」
宗はカートの下にかくしてあったポリタンクを掴むと中身を思いっきりまき散らした。
ようやく不思議そうに見る者があったが、その異常性にはまだ気が付いていない。
ライターに火を付けた。
それを零れた液体に向かって投げつける。
まるで映画のワンシーンように一気に炎が燃え上がった。
「きゃああ!!」
劈くような女性の悲鳴。
じりじりと警報の音が鳴り始める。
ようやく宗の異常性に気付いた警備員が彼を捕まえようと書けてくる。
宗はカートを蹴飛ばし炎の中に突っ込ませる。
ドン、と音を立てて炎が激しさを増し、警備員が怯む。隙をついて宗は階段を駆け上がった。
近年多発したこういった事件のために、建物火災の恐怖は誰もが知っていることだろう。
逃げたければ逃げればいい。
捕まえたければ追いかけてくればいい。
だが、誰にも邪魔はさせない。
ドン、と何かが爆発する音が聞こえた。
宗には有信や斎のような超常能力という力はない。だが、智恵と人脈がある。十数年という長い歳月をかけてこの研究所に潜り込ませた宗の、ある意味では「仲間」たち。無論金で雇った者だっている。懇意にしているヤクザ者から借りた人材だっている。
とにかく十数年間黙っていた訳ではない。色々な人脈を造り、あくどいこともしながらも自分の手足となって動ける連中を集めた。
南条斎に対して恨みを持っている人間も集めた。
彼そのものが悪いわけではない。古武玲香、そして「Ain」という狂った研究が彼に多くの敵を作った。
大半は彼の邪眼の力で暗示にかかってはいるものの、動けそうな者は集めて回った。裏切る可能性も考慮しながら、裏切れないように根回しもしながら多くを集めた。
そうしなければいけない理由がある。
今の騒ぎが合図になって潜んだ仲間達が動き始めている。
転がり始めたら止まれない。
階段を上りながら坂道を駆け下りるつもりで走る。
「イッキぃぃぃ!」
叫ぶ。
俺はここだ。
決着を付けよう。
自分の心臓が止まってしまう前に、全ての!
南条斎の部屋に飛び込むと、男は落ち着いた様子で待っていた。
かつての仲間。
おそらく友人関係にあったのだろう。思い出せば懐かしく、淡く思える記憶。
だが、あの日から憎み続けていたのだ。
にやりと笑って宗は黒い塊を懐から取り出す。
黒光りするそれは拳銃だ。
それを男に向かって構え、安全装置を外す。
「……私の命が目的なんですか?」
「違うな。お前の持ってるモン全てだよ」
宗は言う。
困ったように斎が首を振る。
「いくらあれば気が済むんですか?」
「残念だったな。金なら腐るほどある」
「……」
斎の目が険しくなる。
宗は嗤う。
軽い顔面麻痺の残る顔は引きつったような笑みしか浮かばない。その上、元々険のある顔つきなのだ。誰もが宗のことを怯え、誤解をした。
今はもう殆どのことの悪事をこなしているために妙な誤解をされても文句は言えない。
だが、まだ斎と出会った頃はそうではなかったのだ。
確かにあの時は既に服役をした後だったが、悪いことをするつもりでやったわけではない。ただ過失で人を傷つけてしまっただけのこと。
しかし周囲は誤解をし、まるで極悪人のように扱った。顔がこうであるから、外見がそうであるから。決めつけて必要以上に責め、怯えた。
斎もそうだ。
普通にしていても、そう言った経験のある自分には分かる。
斎を責めるわけではない。
全員がそうだったから仕方がないと思う。
ただ、一人、明香を除いて、全員。
「お前が隠し持っている‘Ain’の名簿と関係資料をよこせ」
「あれはあなたが扱っていいものではありません」
「それはお前だって同じだよ、イッキ。俺の妹が死んだことで‘Ain’は計画自体は止まった。だが研究は続いている。お前が、何をしようとしているかくらい俺にはわかる」
「……」
「お前はその邪眼をつかって人の記憶の古武玲香の存在を消し去った。関わった者、殆ど全ての、だ」
初めは分からなかった。
まるでいなかった者にしようとしているように見えたのだ。
だが、今、鈴華という名前の少女を育てている。
彼女は、性格の面はともかくとしてあの顔は恐ろしいほどに古武玲香に似ている。それは兄弟として数年間でも一緒に暮らした宗だから余計に分かる。
親子で瓜二つになることはある。
だが、どんなに似ていても、もう遺伝子を確実に引き継ぐ面差しというものがあるのだ。顕著でないにしても双子のように似てしまうことは本当に少ない。
だが、鈴華は親子というレベルを越えて似ている。
「もう一度聞く、お前の妹は、誰と、誰の子なんだ?」
「っ……!」
彼の顔色が明らかに変わった。
その質問に斎は答えられないだろう。
身体が弱いのは‘Ain’の研究で産まれたために能力が安定しないだけだとは思えない。その能力が目覚めていなければ高確率で普通の人間と変わりなく生活が出来る。
多少何かあったとしても、今この研究所内にある薬だけで普通に生活出来る程度にはなっているはずだろう。
それが何故南条鈴華だけが他の誰よりも弱いのか。何故入退院を繰り返さなければいけないほど身体が弱るのか。
答えは簡単だ。
彼女は自然の法則に明らかに逆らって産まれてきたのだ。
南条鈴華は、
「……南条鈴華は、玲香本人だな?」