9 理由と秘密
久住明弥が発見されたのは繁華街から離れたバスの停留所だった。待合室のベンチにもたれ掛かって気を失っているところを警察官が発見したという。
マスコミが狼か野犬かと騒ぎ立てる中、その獣に襲われた少年は病院に運び込まれた。どこからかぎつけたのか報道関係の記者達が渦中の少年にインタビューを取ろうと院内をうろついていたが彼の病室に辿り着くことは無かった。
「小児病棟か。中津さんの指示だろ。さすがだな」
勇気は病院のロビーで紙コップのコーヒーを飲みながらほっとしたように息を吐いた。
まだ人の多い待合室のテレビの中では街に突然現れた獣に付いての報道がされていた。さすがに獣の姿のVTRは無かったが目撃者の証言から作ったイラストやイメージ映像が流されていた。一部の報道では監視カメラの映像が流れていたが、あまり鮮明とはいえなかった。
「そうですね、マスコミもこちらには入りにくいですからね」
並べられた長椅子に腰を下ろしながら伊東が同意するように頷いてみせた。
彼を小児病棟の方に入れろと言ったのは中津刑事だった。ちょうど現場に立ち合った彼はこれが普通に野犬や狼に襲われただけの事件ではないと感づいたのだろう。報道管制を強いるにはまだ情報が足りないが、久住明弥をマスコミに晒すのは得策ではないと判断したのだ。彼が発見されたという報せを受けて真っ先にそう指示を出した。
患者も見舞客も様々な一般病棟よりも小児病棟の方が外からの侵入者に敏感だ。特にここは原則的に身内か入院患者の学校関係者と一緒でなければ中に入れない仕組みになっている。近年増えてきた不審者の侵入が原因で出来たシステムだがこんなところで役立つとはまさか思ってもみなかった。
勇気の母親の愛には「頭が鉛で出来ている」と言われるような刑事だったが、その点はさすがに判断が速い。
「勇気くんは彼と面識があるんでしたよね」
勇気は頷く。
「入試の時の一度きりだけど」
「印象は?」
「大人しくて、トロそうで、真面目。いじめやカツアゲの被害者になりそうなタイプ」
率直に言うと伊東は軽く吹き出した。
彼は少し不機嫌に伊東を睨んだ。
「伊東さんも似たような感想なんだろ?」
「ええ、確かに概ねはそうですけど……」
「けど?」
「いじめの部分だけは同意できませんね。彼はいじめられるタイプじゃありません」
勇気は眉をひそめる。
ぱっと顔を見ればイジメの対象に成り得るか否かはすぐにわかるだろう。久住明弥は明らかに前者だ。勇気に久住明弥をいじめたいという衝動はないが、イジメる側の人間は目を付けるだろう。現に既に入試の時に絡まれている。
だが、伊東に「いじめられない」と断言されると奇妙な気がした。
「理由は?」
「色々とありますが、一番は彼をいじめてもつまらないと言うことですよ。話してみれば解りますが、どうします?」
勇気は警察の協力者であるものの、関係者ではない。事件関連の捜査目的ではなく友人として彼と会うか否かを問われているのだ。
少し迷ったが勇気は首を振る。
どうせ彼とは四月から嫌でも顔を合わせることになる。先刻もその理由から彼と会うのを止めると決めたばかりだ。
「やめとく」
「そうですか」
彼は頷いてコーヒーを飲んだ。
伊東はまだ中学生の勇気に対しても丁寧な言葉を使う。刑事という職業柄、誰に対しても丁寧に接する癖のようなものが付いているのだ。勇気が上司の息子だから特別というわけではない。
勇気が伊東に対してぞんざいな口を聞くのは幼い頃から見知った間柄だからだろう。年上の刑事に対してのしゃべり方ではないと思っていたが、今更口調を改めるのも他人行儀な気がして嫌だった。咎められれば治す努力はするが、伊東自身が気にしていないのだから今は必要無いだろうと思う。
「それよりも伊東さん、彼について詳しく調べた方がいい」
「では今回の件、無関係ではないと?」
「入試時のこともあるから、無関係とは言いにくい。……それに、途中から記憶がないなんて、とても信じられない」
突然獣が襲ってきた。彼が偶然あの場所に居合わせただけだとしても、車に連れ去られてから発見されるまでの間の記憶が無いなんて言われて納得が出来るはずがない。今は記憶が混乱して思い出せないとしても、車に乗り込んで、気が付いたら病院にいたという証言はお粗末すぎる。
その間に何かあり、それを隠しているとしか思えなかった。
おそらく警察に知られるとまずい事情がある。
それが「こんな事を話しても、信じてもらえないだろうし、頭がおかしいのかと疑われる」という事情ならばいい。だがもし車の人物を庇う行為なら、彼自身が何か法に触れる様なことをして言い出せないのならば問題は変わる。
入試の時に感じたように彼の能力が勇気の思っている通りなら、自覚していてもしていなくても厄介なことに変わりない。
この世界は人の持つ特殊な力に関してあまりにも無知なのだ。
勇気は自分自身がそう言った能力を持っているために、この世界に科学で証明されていない超常能力というものが存在することを知っている。
その勇気から見ても、彼の存在は異質だった。
このところ頻発している「その類」の事件にも彼が関連している可能性もある。初めから全て疑って掛かるわけではないが、可能性がある以上彼のことをこのまま放置してはいけないと思った。
「解りました。調べてみましょう」
伊東はそう言って手を出した。
勇気は空になった紙コップを伊東に渡す。
「俺も爺さんに色々聞いてみる。俺より詳しいから」
「お願いします。アパートまで送りますよ。どちらにしても、愛さんの荷物を届けなきゃいけませんし」
うん、と勇気は頷く。
がやがやとロビーが騒がしくなったのはその時だった。
救急を知らせるサイレンを鳴らし、病院の前に救急車が飛び込んでくる。救急隊員が通路を確保し、なだれ込むように次々とストレッチャーで患者が運び込まれて来る。
伊東は視線だけで何が起こったのかを聞いてくると合図を送った。
それに頷いて見送る。
不意に酷く嫌な感じがした。
叫ぶように医師に容態を伝える救急隊員の声の中に、火事という単語と十三人という言葉が混じる。勇気は慌てて待合室のテレビに視線を向ける。
先刻まで謎の獣に関して報道していた番組は緊急報道に切り替わっている。
大規模な爆発事故が起こったと、テレビで報道されている。
それはこの病院からさして遠くない距離。運び込まれた患者が爆発事故に巻き込まれた人達であると嫌でも解る。
タイミングが、良すぎる。
(これじゃあ、まるで……)
まるで、久住明弥が関連したこの件を報道させないようにするために爆発事故が起きたかのようだ。犠牲者が久住明弥だけの事件と、犠牲者が十人を超えた爆発事故ならば、報道は間違いなくこちらの事件を報道したがるだろう。
(誰かが)
久住明弥を助けたという車の人物か、現れた獣に関連している人物か。あるいは、久住明弥本人か。
(何のために?)
自分を守るため、人を守るため、それとも利益を得るため?
何かが起こっている。
街の何処かで何かが浸蝕し始めている。
胸が酷くざわめいた。
嫌な予感がする。
こんなにも嫌な気分になったのは四年前。小学生の頃だ。街が死の蝶に冒され人が死んだ。そして一人行方不明になったまま今も見つかっていない。
あの時と似た何かが、今この街に巣くっている。
何かが。