物語になる前
夜の底に、小さな舞台が浮かんでいた。
客席はない。拍手もない。
ただ黒い空間の真ん中に、丸い金色の光だけがぽつんと灯っている。
その上に、ひとりの少女が腰を下ろしていた。
赤い髪は、夕焼けを切り取ってそのまま置いたような色をしている。緑のシャツと青いスカートは、信号機と夏空をこっそり混ぜたような組み合わせだ。けれど不思議とちぐはぐではなく、夢の中の配色としてきちんと成立していた。
少女は、どこか遠くを見ていた。
何かを待っているようにも見えるし、何も待っていないようにも見える。
彼女の名前は、まだ決まっていなかった。
正確に言えば、誰かが描きかけたまま、名前を書き込むのを忘れてしまったのだ。
だから少女は、ずっとここにいた。
黒い背景の中で、光の輪に座り、世界の外側を見上げながら。
ときどき、天井の向こうから鉛筆の音がする。
さらさら。
消しゴムが紙をなでる音。
色を置くクリック。
そのたびに、少女の髪が少し揺れたり、目の色が澄んだり、スカートの影が深くなったりした。
「今日は、どこまで描いてくれるのかな」
少女は小さくつぶやく。
返事はない。
けれど彼女は知っていた。
自分を描いている人が、完璧を目指しているわけではないことを。
少し線がゆれてもいい。
色がはみ出してもいい。
何度でも描き直せばいい。
そのたびに、自分は少しずつ本当の姿になっていく。
少女は膝の上に置いた手を見つめた。
最初はただの線だった。
次に色がついた。
そして今、こうして待つことができる。
あと必要なのは、名前と、物語。
黒い背景の向こうで、またカーソルが動いた気配がした。
少女は顔を上げる。
透き通った青い瞳に、期待の光が揺れる。
「次は、どんな世界に連れて行ってくれるの?」
その問いに答えるように、闇のどこかで新しい一筆が走った。
すると、少女の足元の金色の光がふっと広がり、まるで朝焼けの入口のように輝き始める。
少女はそっと立ち上がった。
まだ名前のない少女。
けれど、もうすぐ誰かの心の中で、たったひとりの存在になる少女。
彼女は振り返り、描き手のいる見えない向こう側に向かって、ほんの少しだけ微笑んだ。
そして、光の中へ一歩を踏み出した。




