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物語になる前

作者: 塩ペンギン
掲載日:2026/05/13

 夜の底に、小さな舞台が浮かんでいた。

 客席はない。拍手もない。

 ただ黒い空間の真ん中に、丸い金色の光だけがぽつんと灯っている。

 その上に、ひとりの少女が腰を下ろしていた。

 赤い髪は、夕焼けを切り取ってそのまま置いたような色をしている。緑のシャツと青いスカートは、信号機と夏空をこっそり混ぜたような組み合わせだ。けれど不思議とちぐはぐではなく、夢の中の配色としてきちんと成立していた。

 少女は、どこか遠くを見ていた。

 何かを待っているようにも見えるし、何も待っていないようにも見える。

 彼女の名前は、まだ決まっていなかった。

 正確に言えば、誰かが描きかけたまま、名前を書き込むのを忘れてしまったのだ。

 だから少女は、ずっとここにいた。

 黒い背景の中で、光の輪に座り、世界の外側を見上げながら。

 ときどき、天井の向こうから鉛筆の音がする。

 さらさら。

 消しゴムが紙をなでる音。

 色を置くクリック。

 そのたびに、少女の髪が少し揺れたり、目の色が澄んだり、スカートの影が深くなったりした。

「今日は、どこまで描いてくれるのかな」

 少女は小さくつぶやく。

 返事はない。

 けれど彼女は知っていた。

 自分を描いている人が、完璧を目指しているわけではないことを。

 少し線がゆれてもいい。

 色がはみ出してもいい。

 何度でも描き直せばいい。

 そのたびに、自分は少しずつ本当の姿になっていく。

 少女は膝の上に置いた手を見つめた。

 最初はただの線だった。

 次に色がついた。

 そして今、こうして待つことができる。

 あと必要なのは、名前と、物語。

 黒い背景の向こうで、またカーソルが動いた気配がした。

 少女は顔を上げる。

 透き通った青い瞳に、期待の光が揺れる。


「次は、どんな世界に連れて行ってくれるの?」


 その問いに答えるように、闇のどこかで新しい一筆が走った。

 すると、少女の足元の金色の光がふっと広がり、まるで朝焼けの入口のように輝き始める。

 少女はそっと立ち上がった。

 まだ名前のない少女。

 けれど、もうすぐ誰かの心の中で、たったひとりの存在になる少女。

 彼女は振り返り、描き手のいる見えない向こう側に向かって、ほんの少しだけ微笑んだ。

 そして、光の中へ一歩を踏み出した。

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