『信仰と鉄』
それから幾年か経って村を出た。
声は少し低くなり、背は伸び、手は荒れた。畑仕事の傍ら読み書きを覚え、やがて町の聖堂へ入り、学び、祈り、教えを受けるようになった。
最初のうちは、何もかもが眩しかった。
石造りの大きな聖堂。高い天井。朝夕に響く鐘の音。村で見たどんな建物よりも大きな書庫。
蝋燭の匂い。祈りの声、床を磨く音、修道士たちの靴音。
何より、そこには“神父様になるための道”があった。
幼い頃に憧れたあの人が歩いたかもしれない道だと思うだけで、胸が熱くなった。
もちろん、現実はそんなに綺麗なものばかりじゃなかった。
朝は早いし、雑用は多いし学ぶべきことは山ほどある。祈祷文の暗記、聖典の読解、教会法、地域ごとの慣習、信徒への応対。掃除もするし、洗濯もするし、年長者に呼ばれれば使い走りだってやる。
だんだんと「俺」を隠すことが上手くなり、いつの間にか「僕」としての振る舞いが自然になっていた。
自分を変えていくことは苦ではなかった。
いや、苦は苦だったが、それでも耐えられた。
ここにいれば、いつか神父様になれるかもしれない。あの人のように、人に字を教え、人のそばにいる役目に就けるかもしれない。その考えが、だいたいの不満を黙らせた。
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見習いとして数年を過ごし、ようやく正式な配属が決まる頃には、僕はもう、村を出たばかりの子どもではなくなっていた。
拝命の日、見習いたちは朝からそわそわしていた。
礼拝が終わると、監督役の司祭が一人ずつ名前を呼び、今後の配置を告げていく。
書庫、会計補、巡回補助、写本室、病舎付き、鐘楼管理。ひとつ名前が呼ばれるたび、周囲の空気が少しずつ動く。嬉しそうな顔もあれば、露骨に落胆する顔もある。
僕はといえば、内心かなり浮き足立っていたくせに、それを顔に出さないようにするので手一杯だった。
できることなら、地方巡回の補助がよかった。あるいは信徒学校。病舎でも悪くない。とにかく、人に近い仕事がしたかった。
祈りと教えを、そのまま人へ渡すような役目がどうしてもあの人と重なるからだ。
名前を呼ばれたのは、ずいぶん後のことだった。
「フェリス・アルディーニ」
「はい」
立ち上がる。心臓の音がうるさい。
司祭は紙を見下ろし、淡々と言った。
「機械工房付き」
僕は一拍、聞き取れなかった。
「……え?」
その声が思ったより間抜けだったらしく、近くにいた見習いが少しだけ吹き出した。司祭の視線が刺さり、僕は慌てて背筋を伸ばす。
「機械工房付きだ。何か問題があるか」
「い、いえ」
ないわけではなかった。いや、かなりある。
機械工房。
聖堂の外れ、鐘楼の裏手にある煉瓦造りの建物。あまり表へ出てこない職人上がりの聖職者や、屈強な鍛冶屋たちが出入りしている場所。油と鉄の匂いがして、妙な音が昼夜を問わず響いてくる、静謐が良しとされる教会では少し、いやかなり異質な場所。
正直に言えば、もっとも神父様から遠い場所と思っていた。
説教台に立つでもなく、子どもに字を教えるでもなく、病人の枕元で祈るわけでもない。金属と道具に囲まれて、ひたすら何かを作ったり直したりしている教会の組織でありながら、全く別の団体。
そんな印象だった。
あからさまに肩を落とすわけにはいかなかったが、心の中ではかなり動揺していた。
礼拝堂を出ると、同輩の一人が気の毒そうな顔で近寄ってきた。
「工房かあ」
「……そうみたいだね」
「まあ、でも、聖職は聖職だろ」
慰めになっているような、いないような言い方だった。
別の見習いは、少し意地悪く笑った。
「油まみれで説教でもするのか、君は」
「うるさい」
反射で返してしまってから、僕は少しだけ驚いた。村を出てから、そういう言い方を表へ出すことは減っていたからだ。どうやら落ち込んでいたらしい。
その日の午後、僕は自分の荷物を抱えて工房へ向かった。
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鐘楼の裏手は、本堂のきっちりした空気とは少し違っていた。石畳には煤の跡があり、壁には何かを運び入れた傷がついている。窓は高いが、いくつかは開け放たれていて、そこから油と熱の匂いが流れてきた。
扉を開けると、まず音が飛び込んできた。
金属を打つ音。歯車の噛み合う音。何かが回転する、低い駆動音。誰かの怒鳴り声。返事。軋み。祈祷文の唱和。まるで工房全体がひとつの大きな機械みたいだった。
「失礼します」
声をかけても、最初は誰もこちらを見なかった。
広い室内だった。机の上には工具と部材が散らばり、壁には義手や義足が吊るされている。木箱に入った金属板、革の留め具、骨組みのようなフレーム、歯車、導線。奥には大きな炉まである。
しかも、その一角では、ただの鍛冶場ならありえない光景が広がっていた。
作りかけの義手の内側に、聖句がびっしり刻まれている。
指の一本一本、関節のひとつひとつに、細い文字が刻印され、銀とも鉄ともつかない線材がそれらを繋いでいた。祈りと機械が、目の前で混ざっていた。
「見習いか」
低い声で呼ばれ、僕は我に返った。
工房の中央にいたのは、袖を肘までまくり上げた壮年の司祭だった。髪よりも腕の毛のほうが印象に残る姿で、司祭というより鍛冶職人に見える。胸元に下がった十字架がなければ、物語のドワーフだと言われても信じてしまうような、屈強な方だった。
「フェリス・アルディーニです。本日付で配属を……」
「聞いてる。こっちだ」
ずいぶん愛想がない。同じ司祭でも今までの教官たちとはまるで違う。
その司祭に案内されて、僕は工房の奥へ進んだ。途中、義足の調整を受けている男が見えた。膝から下を失ったらしく、木と金属で組まれた仮義足を着けている。傍らには修道士が一人つき、何かを唱えながら留め具を締めていた。
「右足に重心を」
「無茶言うなって、神父殿」
「無茶ではありません。先ほどより角度が出ています」
「さっきは転ばなかっただけだ」
「では前進です」
男は盛大に顔をしかめたが、それでもゆっくり体重をかけた。義足の内部で何かがかちりと鳴る。すると、木でできたはずの足首が、ごく自然に前へ折れた。
僕は目を見開いた。
「……動いた」
思わず口に出た。
司祭が鼻で笑う。
「そりゃ動くように作ってるからな」
「でも、木と鉄で……」
「木と鉄と、祈りと、聖句と、あと装着者の根性だ」
雑な説明だった。
けれど、それでも十分だった。僕はしばらく目が離せなかった。
司祭は壁際の作業台に手をついて言った。
「ここは傷病兵のための義肢を作る場所だ。戦で腕や脚を失った者、事故で欠損した者、鉱山や工事場で潰れた者、そういう人間をもう一度立たせる」
その言葉に、僕は少し姿勢を正した。
司祭は続ける。
「ただ木をくっつけるだけじゃ使い物にならん。人の意志に反応し、動きに追随し、時には負荷を逃がし、時には力を補う。そのために、聖句を刻む」
作業台の上に置かれた義手を持ち上げ、見せる。
「これは腕の外郭だ。内側に刻む文句と、関節部の祈祷線で使用者の意志と連動する。簡単に言えば、信徒の身体に残った“動こうとする意志”を、聖句が機構へ橋渡しする」
僕は、ほとんど息をするのも忘れて聞いていた。
ただの職人仕事じゃない。神の加護を祈るだけでもない。人の身体の欠けたところへ、祈りを通して機械を繋ぐ。それは奇跡と技術の中間みたいな営みだった。
司祭は義手を置いた。
「お前、がっかりして来た顔してるな」
あまりにも的確で、僕は言葉に詰まった。
「……そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすい。神父見習いってのは大体そうだ。ここへ来ると、説教台から遠ざかった気がする」
図星だった。
僕は少し迷ってから、正直に言った。
「……はい。少し」
司祭は意外にも怒らなかった。ただ顎を撫でながら、ふん、と息を吐いた。
「まあ、分からんでもない。だが覚えておけ。説教を聞いて立ち直る人間もいれば、脚を作らなきゃ立てない人間もいる」
その一言で、僕は黙った。
「祈りだけじゃ足りん時がある。逆に、技術だけでも足りん。ここはその間をやる場所だ」
工房の奥で、別の修道士が誰かを怒鳴っていた。
「だから刻印の位置を逆にするなと言っただろうが!」
「でもこのほうが肘の可動域が……」
「人の腕が逆側に九十度も曲がるのか! えぇ?」
怒鳴られた若い技術修道士がしょんぼりしている。場違いなほど俗っぽい光景だった。
司祭はそちらを一瞥し、また僕に向き直った。
「お前は字が綺麗だと聞いてる」
「……はい。聖句の書き取りを欠かしたことはありません」
「なら使えるな」
そう言って渡されたのは、薄い金属板だった。内側に細かな刻印を入れるための下書き用らしい。
「まずは写経みたいなもんだ。聖句を間違えるな。一本線がずれれば、関節が噛まなくなる」
「そんなに……」
「そんなにだ。祝福の文言一つで動作の癖が変わることもある」
僕は金属板を受け取りながら、胸の奥にじわじわと熱が広がるのを感じていた。
想像していた神父様の仕事とは違う。確かに違う。
だが、これは決して“神から遠い仕事”ではなかった。
むしろ、人の欠けたところへ、祈りと技術を通して手を差し込む仕事だ。こんなにも露骨に、人の役に立つ聖職があるのかとすら思った。
その時だった。
司祭が何気なく付け足した。
「ついでに言っとくと、お前らみたいに工房を軽く見る連中は多いがな」
「はい」
「昔、うちにいた優秀な男も工房上がりだ」
僕は顔を上げた。
「優秀な男、ですか」
「地方巡回で評判の神父だよ。子どもに字を教えるのが上手くて、妙に人の懐へ入るのがうまかった」
僕の喉がかすかに鳴った。
「名前は」
司祭は少しだけ考え、口にした。
その名を聞いた瞬間、僕の背筋にぞわっとしたものが走った。
聞き覚えがあった。
いや、忘れるはずがなかった。
幼い日の村で、秋の終わりにやってきて、字を教え、パンを割り、また来るかと聞いた僕に「生きていれば」と笑った、あの神父様。
「……あの人が」
声が勝手に漏れた。
司祭は眉を上げた。
「知ってるのか」
「たぶん、僕の村に来たことがある人です」
それだけ言うので精一杯だった。
胸の奥で何かが一気に繋がった。
憧れた神父様も、ここにいた。
ここで鉄と祈りを学んで、それから人のそばへ行った。
だったら、この工房は神父様から遠い場所なんかじゃない。あの人へ続く道の途中だ。
そう思った瞬間、さっきまでの失望が、ひどく恥ずかしいものに思えた。
僕は思わず笑ってしまった。
「何だ」
司祭が胡散臭そうに見る。
「いえ」
僕は金属板を握りしめた。
「ちょっと、嬉しくなっただけです」
司祭は変なやつを見る顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
その日から、僕は技術修道士になった。




