『初志』
神父を志したあの日、いつかあんな形で自分の信仰と教義を問われると知っていたなら。
教会の戸など、叩きはしなかった。
俺がはじめて神父というものを見たのは、秋の終わりだった。
村の外れの、川沿いの土道を、黒い服を着た男が歩いているのを、ハト小屋の番をしていたトラヴィックが見かけた。小さい村だ、礼拝前にはもう村のみんながよそ者のことを知っていた。
あの日はたしか風の冷たい日で、木々はほとんど葉を落としていて、空は高く、雲はうすく裂けていた。
村には旅人なんて滅多に来ない。来るとしても、塩や釘を背負った行商人か、山の向こうの親戚を頼るくたびれた連中くらいのものだ。
だから、真っ黒な服に銀の十字架を下げたその男は、最初から場違いだった。
けれどその男は、不思議と怖くは見えなかった。
村の子どもたちは、俺も含めて、畑の脇の石垣にずらっと座って、その男を見ていた。誰も声をかけない。知らない大人というのは、それだけで少しだけ恐ろしい。
けれどその男は、俺たちの前で足を止めると、目線を落として笑った。
「こんにちは」
声がやわらかかった。
偉そうじゃない。怒鳴りもしない。子どもに向かって、ちゃんと子ども向けの声で話している。
その時のことを、俺は妙に鮮明に覚えている。陽が少し西に傾いていて、男の肩越しの光がまぶしかったこと。服の裾に、長旅の土埃がついていたこと。銀の十字架が、思ったよりも小さかったこと。
「この村に、少しだけお世話になってもいいでしょうか」
そう言って、男は村長の家のほうを見た。俺たちじゃ話にならないと分かっているくせに、追い払うでもなく、ちゃんと断りを入れるように訊いた。
そのへんからもう、村の大人たちは少しだけ気を許したんだと思う。
あとで聞いたところによると、その人は山の向こうから来た旅の神父様だった。よその村々を回り、祈りを教え、読み書きを教え、時々は病人の枕元で朝まで付き添うようなこともしているらしかった。
神父様。そんな言葉は、その時まで俺の中にほとんど意味を持っていなかった。
神様の話をする人。祈る人。えらい人。
そのくらいだ。
けれどその人は、村に来て三日もしないうちに、俺の思っていた「えらい人」とはまるで違うものだと分かった。
神父様は、まず村の古い納屋を借りて、そこで子どもたちに字を教え始めた。机も椅子も足りないから、ひっくり返した木箱や、麦袋を畳んだものの上に座る。板切れに炭で字を書いて、俺たちにも真似させる。
「これは、あなたの名前の最初の字です」
そう言って、その人は俺の板にひとつ、ゆっくりと文字を書いた。
俺はその字を見た。たった一本の線でもなく、絵でもない。ただの記号みたいなものだったのに、それが自分を指しているというのが、なんだか不思議でたまらなかった。
「書けますか」
「……やってみる」
「ええ。失敗しても大丈夫です」
そう言われて、俺は少しだけ腹が立った。失敗する前からそう言われると、子ども扱いされている気がしたからだ。
でも実際、最初の線は曲がったし、二画目はひどく短くなった。俺がむっとすると、その人は笑いもせず、ただ言った。
「もう一度やりましょう」
それだけだった。叱りもしないし、上手だと嘘もつかない。ただ、もう一度やろうと言う。
それが、俺にはたまらなく格好よく思えた。
村の男たちは、よく怒鳴った。女たちは忙しくて、優しくするにも限界があった。年寄りは昔話ばかりして、子どもの失敗なんて面白がるものだと思っていた。
でもその人は違った。
泣いた子には目線を合わせた。病気の年寄りには、一晩中、水を替えながらついていた。貧しい家の子には、昼のパンを半分に割って渡した。村の若い衆が喧嘩を始めれば、間に入って止めた。
しかも、ただ怒鳴るんじゃない。ちゃんと両方の話を聞いた上で、どちらにも少しずつ痛いことを言って、最後は納得させてしまう。
何より、あの人は字を知っていた。
字を知っているというだけで、その人は魔法使いのようだった。遠くの誰かが書いた言葉を読める。知らない土地の名前を覚えている。紙に書かれたしるしから、人の気持ちや約束を受け取れる。
俺は毎日、納屋へ通った。
川へ行けと言われても、薪を拾えと言われても、できるだけ早く終わらせて、泥のついた手を拭いてから走った。神父様は大体もう来ていて、板切れや古い紙を並べていた。
夕方、他の子どもたちが帰ったあとも、俺は少しだけ残った。
「神父様」
「はい」
「神父様って、みんな字を知ってるのか」
「知っている人が多いですね」
「じゃあ、神父様ってすごいな」
俺がそう言うと、その人は少しだけ笑った。困ったようでもあるし、嬉しそうでもある、変な笑い方だった。
「字を知っているだけなら、書記も商人もすごいですよ」
「でも、神父様は字を教えてくれる」
「そうですね」
「それに、病人のとこにも行くし、喧嘩も止めるし、怖い大人にもちゃんと話すし」
「怖い大人ですか」
「村長とか」
神父様は吹き出した。初めて聞くような、声を殺しきれていない笑いだった。
「それは、確かに少し怖いですね」
俺はその返しが嬉しくて、何度も思い出した。
その人は神父様だったが、空の上のことばかり話す人ではなかった。祈りはする。聖書も読む。でも、その前にちゃんと腹を空かせた子にパンを渡すし、字の読めない子にはまず名前を書かせる。
神様の話をする人というより、人のそばにいるために神様の話を使っているように見えた。
俺はその人に憧れた。
あんなふうになりたいと思った。
誰かの前で偉そうに立つんじゃなくて、困ってるやつの横にしゃがんで、字を教えて、泣いてるやつには水を渡して、怒鳴るしか能のない大人の前でも、ちゃんと口を利ける人。
神父様って、そういう人なんだと思った。
その人は冬の前に村を出た。
雪が降る前に、次の村へ行かなければならないと言った。みんな名残惜しがった。村長さえ少しだけ寂しそうだった。俺は前の晩から眠れなかった。
朝、村の外れまで見送りに行った時、俺は思い切って訊いた。
「また来る?」
神父様は旅支度の紐を締めながら、俺を見た。
「生きていれば」
その答えは、子どもにはずるい言い方だった。肯定でも否定でもなく、でも本当だ。
俺が黙っていると、その人は少しかがんで、俺の頭を軽く叩いた。
「フェリス、字を忘れないでください」
「忘れない」
「祈りも」
「それは……」
俺は少しだけ言いよどんだ。祈りは字より難しい気がした。見えないし、掴めない。
神父様はそんな俺を見て、またあの困ったような笑い方をした。
「大丈夫です。すぐ上手にはなれません」
「俺、神父様になれるかな」
気づいたら、そんなことを口にしていた。
神父様は目を丸くした。それから、ひどく静かな顔になって言った。
「なれますよ」
即答だった。
その声が、俺は嬉しかった。
神父様は去っていった。黒い背中はだんだん小さくなって、最後には山道の向こうへ消えた。
俺はその場にしばらく立っていた。寒くて、鼻の奥がつんとした。泣きたかったのか、風が冷たかったのか、自分でも分からなかった。
ただ、その日から、俺の中にひとつの形が残った。
神父様。
人に字を教える人。泣く子の前でしゃがめる人。腹を空かせた者の隣に座れる人。
いつか俺も、あんなふうになりたい。
幼い俺の世界で、いちばんまっすぐな憧れだった。




