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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
一章 三冠の幻影

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9/29

第9話 汝、自身を知れ

 日曜日、中山競馬場。

 弥生賞のパドックは、春のクラシックを占う重要な一戦を見ようとする観衆で埋め尽くされていた。

 優姫はシュガーホワイトの背に揺られながら、周回するライバルたちを観察する。

 ホープフルSで競り合った馬たちも成長している。

 だが優姫の視線が吸い寄せられたのは、別路線から無敗の三連勝で駒を進めてきた黒鹿毛馬フォーリアナイトだった。

 鞍上は五十嵐拓也ということもあり、今日の一番人気。

(……関節の可動域が広い。筋肉の質も……)

 シュガーホワイトは二番人気である。GⅠを勝ってるのに、なぜなのか。

 

 優姫の目は体操選手時代に培った感覚で、相手の運動能力を数値化するように分析する。

 レース映像は見ていたが、フォーリアナイトが京成杯で見せたあの末脚。

 この面子の中では、シュガーホワイトにとって最大の脅威。

(わざわざ弥生賞に出てきた)

 最近は収得賞金が足りれば、トライアルになど出ないことが多い。

 もっともそれを言うなら、中山の2000mを既に経験し、GⅠも勝ったシュガーホワイトこそが、どうしてわざわざ出てきたのか、という話になるが。


 馬の理由もあれば人の理由もある。

 シュガーホワイトは頭がいいので、レースに乗るたびに成長している。

 より強い相手と戦う方が、能力を伸ばしやすいタイプだ。

 また皐月賞もダービーも関東の開催。

 輸送に慣らしたい、というのも間違いのない事実である。


 あとは人の問題だ。

 優姫は関東の乗り役に関しては、まだ情報が少ない。

 だから卓を囲んで麻雀をして、それぞれのジョッキーの特徴を掴んだ。

 一流ジョッキーは関西で何度か見たことはある。

 それでもまだ経験が足りない、という優姫の問題だ。

 

 フォーリアナイトの他にも、重賞で好走している馬が多数。

(シュガー、無理をしなくてもいいよ)

 公正競馬の精神には真っ向から反しているが、勝利を目指しているわけではない。

 重要なのは相手の手の内を見ること。

 ただシュガーホワイトは優姫を背に乗せると真面目になってしまうので、下手に邪魔をするわけにもいかない。 

 男の子は女の子に、いいところを見せようと必死なのだ。




 五十嵐もまたシュガーホワイトを見ている。

(本質はステイヤーじゃないのか?)

 ロングスパートが得意なのは分かっている。

 そのくせコーナリングも上手いのは、中山の2000mのレースを見ていたので知っている。

 ホワイトウィング産駒ではあるが、体型は母系似ではないのか。

 母父キャンディライドは、アメリカのリーディングでも上位に入った種牡馬だ。

 またその産駒は主にマイルから中距離を得意としているが、繁殖牝馬の特徴に影響され、長い距離を走れる産駒も出ている。

(母の母の父がモンジューっていうのがまた)

 かなりスタミナ寄りのヨーロッパ血統の肌馬に、アメリカのスピードを付けたといったところか。

(この血統ならスタミナで粘り、なおかつ一瞬の脚も持つ──嫌なタイプだな)

 キャンディライドは生涯無敗で、なんとなくマルゼンスキー(※1)に似ている。


 長年の経験から、馬の力を測ろうとする。

 しかしジョッキ―というのは、乗ってこその存在だ。

 見ただけで分かるというのは、むしろ相馬眼と呼ばれるものだ。

 優姫に関しては、全力で警戒している。

 むしろ今日は収得賞金が充分なので、シュガーホワイトと優姫を観察したい気分さえある。


 去年の夏場から、話は聞いていたのだ。

 未勝利戦を勝ちまくっている、新人の女性騎手がいたことを。

 多くの馬にとってはまず、勝ち上がらないと次の道が開けない。

 だがそのたったの一勝が、実はとんでもなく難しい。

 日本史上最高と呼ばれたサンデーサイレンスにしても、勝ち上がれなかった産駒はいくらでもいるのだ。


 それも四半世紀以上昔の話。

 今は絶対的な種牡馬というものがいない。

 逆に言うと日本競馬全体が、高いレベルに到達したとも言える。

 香港や中東の、招待競馬においては、日本馬の活躍も著しい。

(ヤネ(※2)はまだ子供だが、馬の方は強い)

 優姫の年齢とほぼ同じ時間、ジョッキーとしての経験を持つ五十嵐。

 リーディングを取れるのはそれだけ、油断などをしないからだ。


 パドックから返し馬へ。

 それぞれの馬の様子を、しっかりと確認していく。

 ここで重要なのは、自分の視線が他の馬に、必要以上に向かわないこと。

 それをすると馬にも伝わってしまって、不安を感じることがある。

 まだ3レースしか走っていない、若い馬であるのだから。


 ゲートに入って、内枠からのスタート。

 飛び出すのが一番早かったのは、シュガーホワイトであった。

(賢い馬ではあるな)

 既にこの同じコースの同じ距離を、勝っている馬であるのだ。

 だがどこまで本気で取りに来ているのか、そこは分からない。

 単純に皐月賞に出るだけならば、弥生賞に出走するまでもなく、賞金は充分に獲得しているはずなのだから。


 シュガーホワイトは5戦4勝。

 GⅠを含む重賞二連勝である。

 輸送してまで走らせる理由は、おそらく輸送慣れを考えてのことか。

 だがそれは府中に中山と、既に二度の輸送を経験させている。

(あるいはジョッキーが、この中山に慣れたかったのか?)

 そう考えながらも、鞍上での姿勢は崩さない。

 中段やや後方から、シュガーホワイトを見つめていた。




 皐月賞トライアルの弥生賞は、3着までに皐月賞の優先出走権が与えられる。

 だが実質は一頭だけだろうな、と参戦していた多くのジョッキーは思っていた。

 シュガーホワイトもだが、フォーリアナイトもパフォーマンスは充分。

 鞍上の五十嵐のことも考えると、この二頭で勝ち負けとは考えられた。

 ありうるとしたらシュガーホワイトの、鞍上の騎乗ミス。

 まだ二年目であり、重賞に乗った経験自体がこれで四度目。

 逃げる以外の戦法ならば、どこかで前が詰まることも考えられた。


 しかしレースは平均ペースながら、しっかりと前めについている。

 おそらく抜け出すことも出来るだろう、というような位置取りだ。

(ハナには行かない)

 優姫は事前に、おおよその作戦は立てていた。

 ホープフルSは逃げ切りだったが、今回はマークがきつい。

 スタートこそ先頭であったが、外から押してくる先行勢を確認すると、優姫は手綱を抑え、シュガーホワイトをなだめる。

 馬は一瞬行きたがったが、優姫の重心移動を感じ取り、すぐに折り合った。


 隊列が決まる。 

 シュガーホワイトは3番手の最内。前には逃げ馬がいるが、極端なレースにはなっていない。

(ポジションはここでいい)

 だが優姫は背中の目で後ろを見ていた。

 背後の集団の中に、フォーリアナイトがいる。

(……動かないで。まだ)

 様々な想定していた展開の中から、今のところは勝てるものになっている。


 3コーナーから4コーナー、曲がりながら位置取りが変わってくる。

 外から各馬が仕掛け始める。 優姫はまだ動かない。

(この年齢のレースならあそこが)

 4コーナーを回りきる前に、内ラチ沿いのわずかなスペースが開いた。


 直線、入り口。

 ここでは前の馬がわずかに外へ膨らむのだ。

(そこ)

 優姫の手綱が反応するよりも早く、シュガーホワイトが隙間に飛び込んだ。 『行った! 天海優姫とシュガーホワイト、内から抜けた!』

 実況が叫び、大歓声が待っている。


 残り200mで、シュガーホワイトは先頭。

 優姫はステッキを入れることなく、ずっと追っていく。

 反応はいい。坂を駆け上がり、完全に独走状態になる。

 勝ちパターンだ。誰もがそう思った。

 しかし、優姫の耳には聞こえていた。芝を削り取る、重低音のような足音。


 大外から、一頭だけ次元の違う脚色で突っ込んでくる影。 フォーリアナイトだ。

(速い……)

 その速さは想定していたものより、わずかに速いものであろう。

(ぎりぎり?)

 優姫は最後までムチは使わない。

 シュガーホワイトがもうひと伸びする。

 コースロスのなさと、早めのスパート。それが功を奏した。


 フォーリアナイトの猛追を振り切り、シュガーホワイトがゴール板を駆け抜ける。

 着差は半馬身。写真判定の必要もない、明確な勝利だった。

 そして3着には5馬身以上の差をつけていたのだ。




 検量室前。下馬した優姫の表情は、重賞を勝ったジョッキーのそれとは程遠い、冷徹なものだった。

 体重はやはり、300gほど減っていた。わずか2分ほどの間に。

「お疲れ、優姫。ナイス騎乗だ」

 駆け寄った千草が声をかけるが、優姫は首を小さく横に振った。

 勝ったが納得していない、このややこしい優姫の感情。

 オーナーの白雪がいる前、また他のジョッキーがいる前では、口に出来ないことがある。


 彼女がやっと説明をしたのは、全レースが終了し、競馬場を後にしてからのことであった。

 今日の間に栗東へ戻ろうと、新幹線の中で隣に座る。

「で?」

「内枠のアドバンテージ、最短距離のコース取り、完璧なタイミングでの抜け出し。これ以上ない条件が揃って、半馬身しか離していない」

 千草は黙って聞く。優姫の分析癖が始まった。

 こういう時は多弁になるのは、ちょっと可愛い。

「フォーリアナイトは外を回して距離ロスはおそらく2馬身分以上。それでいて、上がり3ハロンのタイムは向こうの方が0.5秒速かった」

 これは後から確認してのものである。


 フォーリアナイトは強かったが、勝った馬が強いのだ。

 そう言えるのは無責任な人間だけで、目標が先にある限りは、ジョッキーや調教師は冷静に分析する必要がある。

「でも少しは余裕残しだったろ?」

「あちらもそれはそう」

 賞金は充分に足りているのに、弥生賞に出てきた理由。

 五十嵐とフォーリアナイト陣営も、シュガーホワイトを見たかったのだ。


 優姫は、自分の勝利が「物理的なコース取りの差」によるものであることが分かっていた。

 もちろんそういうレースを、しっかり出来たのはジョッキーの腕なのだが。

「皐月賞は多頭数になる。もっと馬群が密集し、内が開かない可能性が高い。つまり枠で勝負が決まるかもしれない」

 なるほど、と千草も納得する。

 つまり次も運が良くないと、勝てないということか。

 まして皐月賞は、対戦相手がさらに厳しくなる。


 だが千草としては、別のことも考える。

「多頭数だったホープフルSは勝ったし、フォーリアナイトも次はマークを受けるんじゃないか?」

 優姫の表情は能面のようだが、頭はしっかりと考えているのだ。

「あちらも完全には仕上げてなかった。……今日のレース、負けた方が楽になったかも」

「おいおい」

 建前として競馬は全て、勝利を目指していかないといけない。

 もっともレースの前から、調教師サイドは出走権を取れたら、などという程度のコメントはするが。


 優姫の考えていることは分かった。

「相変わらず可愛げのない分析だ。……で、どうする?」

 優姫は新幹線の車窓から、夜に沈んでいく風景を見つめる。

 おそらくその先には、想定したレースが展開されているのだろう。

「……勝ち方を変える」

 難しいことを、と千草は思った。



 

 優姫の瞳には、既に次のレースのシミュレーションが走っている。

 シュガーホワイトの武器である操作性とスタートダッシュの先行力を、別のアプローチで活かす方法。

 皐月賞はメンバーが、今日よりもさらに多く強くなる。

「あとは青葉賞も忘れるなよ」

 千草はそう言ったが、もちろん自厩舎のクラシックが、一番の優先である。

 日程的にも青葉賞の方が後なのだ。


 優姫の考える、中山でシュガーホワイトが勝つ方法。

 今のままでもある程度は勝算はあるのだが、競馬には絶対はない。

 なので勝算を大きくするため、もっと情報がいる。

「桜花賞の週、関東遠征……」

「うん?」

「いや、阪神で見た方がいい」

 独り言が外に出ている時は、優姫の思考が暴走している時だ。


 少し千草も、フォーリアナイトの力を考える。

 レースで勝つのは優姫の役目だが、仕上げていくのは本来、千草の役目なのである。

「大阪杯に桜花賞……」

 優姫は自分の乗鞍のないレースを呟く。

「遠い目標だ」

 千草はそう言ったが、そもそもシュガーホワイトがGⅠを初めて勝ってくれたのだ。

 距離的には来年、大阪杯には出ても不思議ではない。


「テキ、阪神のレース、出来るだけ確保してほしい。出てくるジョッキーの特徴を知りたい」

 そちらの方なのか、と千草は思った。

 馬ではなく、人を見て考えるのか。

「ああ、任せときな。……三ツ木先生にも頼んでみるし」

 実際に三ツ木は、キャリアが長いだけあって、千草よりもはるかに顔は広いのだ。


 そこそこ変更がなされる、競馬の年間スケジュール。

 優姫がモーダショーを青葉賞に走らせる理由。

 それはもちろんダービーの出走権を取りにいくため。

 だがジョッキーの特徴も把握しないといけない。

(昔に比べると少なくなった)

 あるはずのない記憶を、またも思い出している。

 わずかずつジョッキーの総数は減り、しかし女性騎手は多くなっている。


 不思議な時代に生まれたな、と何かを基準に考える。

 日本の馬がブリーダーズカップを優勝してしまったぐらいだ。

 賞金の多さが格と考えれば、中東のレースは存在感が大きくなっている。 

(ヨーロッパがここまで衰退しているなんて)

 それでも最悪の時に比べれば、復活しているのも確かなのだ。


 おそらく今日のレースで、シュガーホワイトは皐月賞の最有力候補となる。

 それによって他馬のマークを受けることは必至。

(約一か月後の皐月賞に、その後はダービー)

 去年は全く縁がなかった、クラシックの大舞台。

 そこに騎乗する自分の姿を、優姫は想像しているのであった。



 ※1 マルゼンスキー

 幻の最強馬と言われる馬の中の一頭。

 外国からの持ち込み馬であったため、クラシックには出ていない。

 そのクラシックも含め当時の八大競争には有馬記念以外出走の権利がなかったが、生涯無敗である。

 

 ※2 ヤネ

 サラブレッドに乗る騎手のことを指す。

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