第89話 公正と平等
神戸新聞杯を2着とし、また菊花賞に乗る馬を確保した優姫。
ただ3000mは、ネバークライ産駒のワカフリートには、ちょっと長いかなと思わないでもない。
そもそも長距離に挑戦する馬が減っているのも確かだ。
だがネバークライ産駒は、下はスプリント戦で走る馬もいるが、上は2400mまでという認識になっている。
これ以上長い重賞が、そもそも少ないのは置いておいて。
騎手の持っている技術というのは、色々なものがある。
あまり走る気のない馬を、走らせるというのもその一つ。
逆に走る気のありすぎる馬を、抑えて折り合いをつけるのもその一つ。
優姫はその両方が得意であるが、どちらかというと折り合いを付ける方が得意と言える。
モーダショーのやる気が出てきているので、それは幸いなことだ。
重賞が関西であれば、ほとんど乗っている優姫。
ただ今年の秋は、関東で乗ることも多くなる。
去年はモーダショーで挑んだ菊花賞からその先の秋。
あれだけ走ったのに、モーダショーは本当に頑丈だな、ということに驚く。
精神的にもタフだからこそ、海外遠征を選択したのだが。
まずは京都の前に、関東へ。
挑むのはダート三冠レースの最後、ジャパンダートクラシック。
平日の夜に行われる、大井のナイターレースである。
地方競馬場の調整ルームにやってきた優姫。
ソウルハンターは既に、こちらの出張馬房に入ってきている。
ここで勝てば、ダート三冠となる。
ただ牡馬クラシック三冠と比べて、難しさはさほどでもない。
もちろん体調を整えたりと、簡単であると言うには語弊があるが。
だが距離適性に関して、明らかに中央の芝三冠の方が難しい。
距離適性を考えると、やはり本場イギリスの三冠競走は、とんでもなく難しいのだと分かる。
1600mから3000mまで、1400mの違いがあるのだ。
比べれば日本の場合はまだしも、2000mから3000mまで。
牝馬ならさらに簡単で、1600mから2400mまで。
アメリカは500mの範囲内だが、あちらはあちらでレースの間隔が短く、短期決戦の要素が強い。
それに比べればダート三冠は、200mの範囲内で、同じ大井のコースを使うので、実力差がそのまま出やすいのだ。
ただ、ここまで中央の馬に、二冠を許している。
なんとしても阻止してやる、というのが他の陣営の心情であろう。
(アシュレイリンクへのマークまで、こちらが全部引き受けてる)
札幌記念をレコードで勝った馬を、軽視しているのではないか。
そうも思うが芝実績よりは、ダートで既に二冠を達成している、ソウルハンターを危険視するのは当然だろう。
大井競馬場にも女性騎手はいる。
南関の女性騎手はおおよそが、親も競馬関係者であることが多い。
これはデビューするにおいて、厩舎に所属しなければいけない、地方の競馬事情による。
地方の養成センターを卒業しても、所属する厩舎がないといけない。
だから最初から、その当てがある生徒が、合格する確率が高いのも当たり前。
まさに人脈の世界である。
優姫が中央の競馬学校に入学し、しっかりと監督者となる厩舎も見つけ、いきなり重賞まで勝っていること。
これは異常な事態なのである。
シュガーホワイトという、三冠レベルの馬に騎乗できたこと。
そのクセの強さゆえに、優姫だけが乗れたことが、後につながっている。
そしてシュガーホワイトが故障する前に、他の馬でも重賞を勝てたこと。
全てが上手くいっている、と言えるレベルの優姫である。
モーダショーを未勝利から勝たせ、既にGⅠを二つ取った。
特に長距離というのは、ジョッキーの腕がものを言う。
モーダショーの場合、折り合いをつけるというか、巡行速度で走るのはそのまま、最後の直線だけ追えばいいのであるが。
大井に来るのは三度目だが、視線はどんどんと厳しくなる。
その中に天音の姿を見つけた。
「Good evening, Amane. Have you found some time for your English today?」
いきなりの英語に天音は驚いたようであったが、それでもしっかりと返してくる。
「Yes, it's coming along nicely. You're quite fluent in English, aren't you?」
「Well, just for casual conversation like this」
フィギュアスケートというのは日本のトップレベルであると、当然ながら海外遠征もある。
そしてそこで意思疎通が出来ないというのは、その時点で不利になるのだ。
地方から中央への騎手の移籍。
その試験は難しいものだが、特に英語があるというのが、なんともいやらしい。
「お前ら、すげーな」
そう声をかけてきたのは、園田競馬所属の曽我天馬。
久しぶりの顔合わせだが、彼が相棒と共に参戦することは、優姫はもちろん知っていた。
「海外遠征のためか?」
「メルボルンカップ」
「あ、はい、そうですか」
「ついでに香港も行く」
「え、そんなローテ組んでんの?」
今年の秋競馬、どのみち優姫の体は一つしかない。
ならばある程度路線が被る有力馬は、海外遠征をするのもおかしくはない。
地方から中央への騎手の移籍は、色々と制度が変わっている。
一時期はかなり軽くなったりもしたが、今ではまた少し難しくなっている。
それでもトップクラスのジョッキーなら、一定の試験は免除される。
だが新人の天音が移籍するなら、全ての障壁を突破する必要があるわけだ。
もっとも養成センターを出たばかりだと、法規などの知識は忘れていない。
ジョッキーをやっていると毎日が、体で覚えたこととなる。
その中で間違えはしないが、具体的な答えは忘れる、ということが普通にある。
純粋な知識と考えるならば、若手の方が頭も柔らかいし、勉強には有利ということはある。
ちなみに天音の場合、純粋に頭も良かったりする。
国内のみならず、海外への大会参加。
また練習時間にしても、都合よく取れるわけではない。
学校を休んでまでも、身に着けた身体能力。
だが英語学習と授業の遅れには、家庭教師を雇ってもらったものだ。
優姫の場合は完全にチートである。
これはあの、あるはずのない記憶から、身に付いたもの。
あの自分、あるいは自分ではない何かは、海外にも積極的に行っていた。
英語力が継承されているというのは、かなりラッキーなこと。
ただ言葉というのは、時と共に変化する。
また場所によっては同じ英語でも、色々と違うものなのだ。
前世のような並行世界のような、あのあるはずのない記憶。
これを処理するためにか、優姫の脳は活性化したのだ。
結局それは勉強の出来る頭の良さだけではなく、脳全体の処理能力を上げることになった。
体のコントロールが重要な器械体操に、その制御能力は役に立ったのだ。
地方競馬は中央より、はるかに海外には遠い。
言うなれば地元密着、という形で成り立っているのが地方競馬なのだ。
その中のレースに優姫のような、海外遠征を予定しているジョッキーがいるというこの状況。
別にそれ自体は、過去にも例がなかったわけではない。
特にダート路線は、地方が主戦場であったりした。
だがそれにしても若すぎる、というのは確かなのだ。
時代が変わる時には、とんでもない才能が現れる。
優姫はそんな存在だ、と認識されてきている。
今年の勝った重賞の数は、既に10個を超えている。
過去のレジェンドと比べても、ほぼ見劣りしない数字だ。
しかもまだ秋競馬が残っているのだ。
地方から来た怪物、というのが今の競馬界の話題。
これと対決するのが、優姫の乗る馬である。
伝説的な馬は、ライバルがいてこそ成立する。
日本人はただ強くて勝つだけでは、満足できない民族なのだ。
ジャパンダートクラシックは、正確にはGⅠ競走ではない。
近いうちにGⅠ昇格を狙ってはいるが、海外のダート馬の参戦が少ないのだ。
しかし三冠競争の中でも、一番GⅠに近いレーティングを持っているレース。
それがジャパンダートクラシックである。
天音はレースの数が少ないので、その間に勉強をしている。
中央競馬は海外遠征のノウハウを、かなり蓄積している。
今の競馬にて種牡馬価値を高めるのは、香港と中東のレースに勝つこと。
ヨーロッパは馬場が特殊すぎて、あまり参考にならない。
牡馬のスピードは、アメリカ血統が強い。
中東の中でもドバイ、そして香港の競争で、マイルから中距離を勝つこと。
これが一番種牡馬選定に影響する、とも言われている。
アシュレイリンクの適性は、果たして芝とダートどちらかなのか。
それを考えた上で、選択をしないといけない。
二月にあるフェブラリーステークス。
ここで勝つことは、ドバイの中でもワールドカップに出られる可能性を高める。
本気でダート路線も目指すなら、砂と土の違いはあっても、東京大賞典を目指すべきでもあるのだ。
だが日本と海外のダートは、全くの別物。
それは日本の芝と欧州の芝が、全くの別物に似ている。
全てとは言わないが、アメリカの年度代表馬であっても、日本のダートなら勝てない可能性は高い。
それぞれの違いというのは、サンデーサイレンスの実績にも出ている。
アメリカではダート馬であったが、産駒は芝の勝利が圧倒的に多かった。
もちろんスピードの絶対値、というものはどちらにも共通。
またアメリカのレースが、圧倒的に前残り有利というのは確かだ。
日本から中東のダートに行く場合、まず性質の違う日本のダートでも結果を残さないといけない。
そのあたりどちらのタイプのダートもこなせる、万能性が重要になる。
日本馬でも欧州の大レースで実績を残したエルコンドルパサーとタイキシャトル。
この2頭は高いレベルではないが、日本のダートのレースでも、しっかり勝っているというのが共通した部分である。
アシュレイリンクは少なくとも、レベルの高い道営のダートでもこなした。
あれは短距離ばかりであるが、それが逆に素晴らしい。
短距離でパワーのいる馬場を、しっかりと勝っている。
そして芝の中距離も、レベルの高いGⅡを勝っているのだ。
(今の世界のレベル、去年のジャパンカップは微妙だった)
この冬の香港で、ある程度は確かめておきたい。
2400mの距離は、欧州のステイヤーが集まってくる。
ただレベルの高さで言うならば、スプリントなどの方が高い。
それでも欧州のシーズンオフということもあり、日本、欧州、中東の強豪が争うレースとなっている。
もっとも強い日本馬は、国内の秋古馬三冠を狙った方が、レーティングも高くなったりする。
ジャパンカップに勝てるなら、およそこれにも勝てるというレーティング。
ただコースとの相性は必ずあるのだ。
モーダショーなら勝てる、と優姫は見込んでいた。
もちろん欧州馬の動向次第で、攻略難易度は完全に変わってくる。
調整ルームに電子機器を持って入ることは出来ない。
なので天音は紙の教科書を使い、必死で勉強をしている。
養成センターで習ったことが、そのまま出ていることも多い。
だが内容はさらに深くなっている。
「これだけ勉強しても、受かるのは難しくない?」
弱音を吐いてくる天音に対して、優姫は現実的である。
「今年は無理だけど、来年の基準は少し変わる」
「そうなの?」
「変えてくれるようにした」
「え?」
そのあたりは世俗的な理由がある。
JRAは公正な組織である。
だが平等な組織ではない。
ギャンブルによる収入が巨大なため、レースの公正性にはとても厳しい。
しかし同時に競馬を盛り上げるためには、かなり柔軟な運営もするのだ。
オグリキャップ条項などは、その代表的な例だ。
強い馬が外国産でもないのに、クラシックに出られないことを理不尽と考えたのが当時の声。
オグリキャップに関してはそれが逆に、怪物としての神秘性を高めることになったが。
同じことが二度起こったらむしろ興ざめなので、クラシックの追加登録制度は作られた、と言ってもいいかもしれない。
今のJRAは、新たなスターを求めている。
その需要に応えるように、アシュレイリンクと天音が現れた。
「貴女がリンクに乗ることを、世間は望んでいる。だから貴女が合格しやすいように、少しだけ基準が変化する」
「それってずるじゃない?」
「違う。他のジョッキーに対しても、同じ条件にはなるから」
相対的に座学の知識が新鮮な、天音に有利にはなるが。
調教師免許にしてもそうだ。
スタージョッキーが調教師に転身する場合、その年の出題傾向が変化するのは、基準の範囲内なら普通に行われる。
「そもそも競馬学校に合格している時点で、私と貴女は女であることと、他の競技での実績で贔屓は受けている」
「……私は私の実力で受かったよ」
「言葉の使い方を間違えたかな。他の競技での実績は、実力に含まれる」
優姫はいちいち正しそうなことを言う。
だがそれで相手を怒らせていては、人間関係が難しいだろう。
天音からすると逆に、こんなタイプでもJRAの競馬学校は合格するのか、という不思議さがある。
そういう視点から考えれば、JRAが逆に公正な興行団体だとも言える。
金まみれになっているオリンピックより、よほど健全であるのかもしれない。
もちろんいくら利権になっていようと、そこに参加する選手に罪はないのだが。
「今回のレースについても、重要になる」
優姫はそのあたり、非情なまでに現実的だ。
「私にマークが集中するだろうから、貴女がその隙を突けばいい」
「……これって八百長の相談?」
「違う。盤外戦術。なんのために調整ルームには、電子機器が持ち込めないようになってると思ってるの」
そういう見方もあるのか。
優姫はアシュレイリンクの勝利を望んでいる。
だがそれ以外が勝利するぐらいなら、自分が勝ちに行くのだ。
「私にマークが集中した場合、次善の結果としてはリンクが勝つこと」
あくまでも1着は目指すのだ。
しかしマークが最大になるのも間違いではない。
「リンクがダートの2000mをこなせないなら、それはそれで話は別」
またスターホースの演出を、色々と考えなければいけない。
次に期待するのは、悲劇の名馬シュガーホワイトの産駒。
色々とそれっぽいことを、この競馬の世界で作り上げなければいけない。
優姫の視点はもう、天音とは全く違うところにあるのだ。
今回の英会話において。
「ちゃんと時間を作って勉強をしてる?」
「ええ、なんとか。あなたも英語が上手いのね」
「この程度の日常会話をする程度にはね」
だいたいこんな感じの会話をしています。
また制度変更や試験内容の偏りなどは、あくまでもフィクションの演出であります。
JRAの公正性などは間違いなく厳格なものです。
なんだか当てはまりそうな人間がいても、それは錯覚です。
暴力団員と乱闘を起こしても、ちゃんと誠実に勤めていれば、評価をしてもらえるのがこの世界です。




