第8話 勝利の解像度
弥生賞を週末に控えた栗東トレセン、鳴神厩舎の休憩室。
調教師の千草と、モーダショーを管理する三ツ木調教師、そして優姫がテーブルを囲んでいた。
議題はクラシック戦線における、優姫のローテーションについてだ。
「青葉賞、行きます」
優姫の言葉は短い。だが、その瞳には揺るぎない意志がある。
未勝利、条件戦を連勝したモーダショー。
賞金を稼いだが、これではまだ足りない。
彼がダービーへの切符を掴むには、トライアルであるレースで権利を取るのが確実なルートだ。
平場で三勝目を勝っても、確実とは言えない。
あるいは3歳重賞を2着以内に入っても、充分な収得賞金に届く。
だがダービーを勝ちたいなら、青葉賞で権利を取るのが一番向いているはずだ。
府中の長い直線は、あつらえたような舞台だといえる。
それに何より、青葉賞はこの時期では、例外的に長い距離を走る。
「青葉賞って……トライアルなのに、ダービー勝った馬いないよね」
そんな千草の指摘も正しい。
三ツ木が唸るように言った。
「優姫ちゃんが乗ってくれるのは心強いけど……時期がなあ」
青葉賞の週は、京都でもレースがある。
リーディング上位の優姫には最近、特に下級条件の騎乗依頼は多いのだ。
しかし関東へ遠征するとなると、メインレース一鞍だけ乗って帰ってくるということにもなりかねない。
日本の競馬は、関西(栗東)と関東(美浦)で活動圏が分かれている。
正確にはローカルも加わるが。
関西所属の優姫にとって、週末に関東へ行くことは、関西での「稼ぎ場」である平場のレースを捨てることを意味する。
もちろん青葉賞は土曜日にあるため、そこから日曜は関西に戻ってくることも出来る。出来るのだが……。
「初めてだね」
千草の言葉通りである。
優姫の唯一とも言える弱点は、脂肪を削ったことによるスタミナのなさ。
回復力も微妙なので、移動も出来るだけ避けたい。
関東に乗りに行くというのは、関西の依頼を断ることになるが、重賞に乗るならそれも仕方がないと言えるだろう。
ただ日曜日は戻って来いよ、という話になるのだ。
すると前日の土曜日には、レース後に新幹線で帰って、調整ルームに入らないといけない。
あるいは例外措置を使えなくもないのだが、前のホープフルステークスや、2歳重賞の時には、日曜も少しだが向こうのレースに乗っていた。
今年は本気でリーディングを狙うなら、日曜日は京都に戻ってくるべきだ。
しかしそれは、逆に考えることもできる。
「優姫、あんたはモーダショーで勝ちたい。そしてリーディングも捨てたくない。そうだな?」
「はい」
「強欲でよろしい」
千草はニヤリと笑い、三ツ木に向き直った。
「三ツ木先生、あなたの顔で美浦の連中に声かけてくれないか。優姫を『貸す』から、土日の平場で乗れる馬を用意しろって」
「人使いが荒いなぁ、鳴神先生は」
三ツ木は苦笑しながらも、満更でもない顔で携帯端末を取り出した。
「まあ、今の『天海優姫』なら、乗せたい馬主は山ほどいる。関東の若手には悪いが、枠をいくつか空けさせてもらおうか」
最近の優姫の異名と言うか、去年の冬にはもう言われていたもの。
「未勝利戦の鬼」である。
「お願いします」
優姫は深く頭を下げた。これで、青葉賞への遠征リスクは「勝利への投資」に変わった。
「礼を言うのはまだ早いよ、優姫」
千草が表情を引き締める。
「まずは今週末だ。弥生賞。シュガーで結果を出してきな」
そこで闘志を見せないのが優姫なのだ。
「相手も手強い」
クラシックに向けて既に、有力馬のデータは入っている。
追い切りを終え、シュガーホワイトは一足先に栗東を発つ。
優姫が移動するのは、その翌日の金曜日。
なんなら馬運車に、一緒に乗っていってもよかった。
だがそれは馬はともかく、人間が疲労する。
調教の強度は弱めで、あとはコンディションがどうなるか。
優姫自身は金曜の夜には調整ルームに入る。
女性騎手にとって有利なのは、人数が少ないため静かな環境でコンディションを整えられるということだ。
この開催では前日から、同期の穂乃果が一緒に入っていた。
「久しぶり。弥生賞だよね」
「うん」
無言で頷くのではなく、一言喋るだけでも、慣れた関係だと言える。
土曜日は条件戦に乗ることが決まっている。
優姫がいることで穂乃果とは、ある程度バッティングするのは確かだ。
重賞を既に勝ち、GⅠまで勝ってしまったジョッキー。
それなのに斤量が、若手の1kgと女性の2kgも軽く乗れてしまう。
もっとも穂乃果はさらに、もう1kg軽く乗れるのだが。
優姫はこの週末、弥生賞を含めて7鞍に乗る。
未勝利戦が多いのは、それだけの実績を残しているからだ。
現在の優姫の勝率は、20%を超えている。
未勝利戦をメインの舞台としているなら、これは異常な勝率とも言える。
「いい馬回してもらえるようになった?」
「そうでもない」
これは事実であるのだ。
シュガーホワイトでGⅠを含む重賞を勝ったのは、世間的なインパクトは巨大であった。
だが関係者の冷静な目からすると、それはまだ馬がものすごく強いだけでは、という想像を否定することが出来ない。
もちろん斤量特典があるとはいえ、条件戦で相当に勝っているのも確かだ。
しかし最後には実績のある男の騎手を使う。
女性騎手は、平場で有効な軽体重と斤量特典が、重賞では筋肉量の不足という構造的な不利に変わる。
そのためトップ陣営から勝負どころの絶対的なパワーを期待されにくい
重賞では勝てる可能性が高い馬の騎乗依頼が男性トップジョッキーに集中する傾向がある。
自分が馬主や調教師でもそうするな、と考える優姫だ。
優姫には三つの幸運と、一つの必然が存在する。
最初に女性調教師である、千景の厩舎に所属になったこと。
次にシュガーホワイトという、女性にしか気を許さない馬を見つけたこと。
そして最後にそのオーナーが、女性騎手を乗せる酔狂を許したことだ。
一つの必然は、優姫に実力があったことである。
重要なのはシュガーホワイトではない。
グランジェッテをちゃんと2着に持ってきて、シュガーホワイトが強いだけ、という印象を払拭したのだ。
そしてモーダショーの存在。
未勝利から連勝し、次は青葉賞へ出る。
偶然とんでもなく強い馬に乗っただけ、ではないことの証明である。
「この間はいなかった人もいるし、紹介するよ」
「うん」
娯楽室に共に歩みながら、相変わらずの無表情だな、と穂乃果は苦笑していた。
調整ルームは外部と、ほぼ完全に遮断されている。
施設の職員を通して、問題ないという情報や、緊急事態などは伝えられるのだ。
しかし競馬がギャンブルであるため、その公正性を保つために、少なくとも個人の連絡手段は存在しない。
そこでの過ごし方は自由だ。
自室にこもって本を読んだり、あるいはゲームをしたり。
ただコネクションの弱い優姫は、あまり得意ではない顔つなぎをする必要がある。
競馬は男社会と言われるが、JRAに最初の女性ジョッキーが誕生してから、もう軽く四半世紀が過ぎている。
それに優姫はある意味、こういった男たちには慣れていた。
「ロン、8000」
「ぎゃー! 飛んだー!」
優姫はベテランの男どもと、麻雀卓を囲んでいた。
テンピン(※1)なので負ければ、それなりに痛い。
「話には聞いていたけど……」
穂乃果はルールを知らないので見ているだけだが、優姫はおそらくジョッキーの中では、一番麻雀が強いのではないか。
「面白い子だね」
「五十嵐さん……」
五十嵐拓也。関東でこの数年リーディングを取っているトップジョッキー。
彼は自分では麻雀はやらないが、他人がやるのを見ているのは好きだ。
ギャンブルは人間性が出る。
だからそれを見ていれば、競馬でもどういう動きをするのか、参考になるのだ。
(攻撃と防御のバランスがいいのか)
おそらく期待値を高速で計算している。
しかしそれだけでもないだろう。
(上手く下ろさせてるんだな)
運の関係するレクリエーションとしては、麻雀はかなりバランスがいいゲームだろう。
彼もまた弥生賞に騎乗する。
当然ながら有力馬で、クラシックを狙っていくのだ。
この時期は既に、スプリンターからマイラーではないか、という判断をされている馬もいる。
だが本当の適性は、実際に走ってみなければ分からない。
短い距離が最近は、高い地位を占めつつある。
しかし王道のクラシックディスタンスは、2400mなのである。
つまりダービーだ。
優姫は何人かのジョッキーを箱下にした。
なんでこんなに強いんだ、と思われたかもしれない。
夜更かしなどはせず、さっさと個室に戻る。
そして風呂に入るのだが、穂乃果としては気になっていた。
「なんだか、ユッキー筋肉増えてない? 体重大丈夫?」
ジョッキ―というのはずっと、体重制限との闘いである。
調整ルームの施設は当然だが、風呂場などは男女別に分かれている。
絶対数の少ない女子は、他に先輩騎手が一人しか、今日はここにいない。
「なかった胸が、さらになくなってるような」
超失礼である。
「絞ってるから」
「え? 絞る必要なんか全然……」
絞っているのに、筋肉が増えて見える。
いや、絞っているから、筋肉が増えて見えるのか?
優姫は珍しくも、ここでちゃんと説明をする。
「弥生賞の負担重量は57kgで、結構重い」
「それはそうだね」
重賞に縁のない穂乃果には、分からないことだろう。
「本来の私の体重だと、10kgも重りを付けないといけなくなる。
「鞍とかも含めてだよね」
頷く優姫である。
この週末に乗るレースは、千草たちが探してくれたものだ。
優姫は軽い体重で、他のレースに乗る。
しかし弥生賞の場合は、女性騎手の斤量特典がないのだ。
「だからここでしっかり水抜きして、明日のレースに乗る。それから弥生賞までには体重を少し戻しておきたい」
まだ言葉足らずだが、おおよそは分かった。
多くの格闘技と同じことなのだ。
他のレースでは53kgなどで乗るために、体重は軽く維持しておく。
しかし弥生賞は、57kgが許される。
エネルギーやミネラル、そして充分な水分などを摂取すれば、レースの前検量までに1kgは増やせるだろう。
そもそも1レース乗るごとに、500gぐらいはやせてしまう、と言われるのが競馬であるのだ。
優姫は今回、シュガーホワイトのために関東に来ている。
だからそのレースを、全力で追わなければいけない。
そのためには少しでも筋肉が必要。
しかし他のレースのためには、軽い体重でいる必要がある。
「それって、大丈夫なの?」
「昔の方が楽だった」
「え?」
「……昔のルールなら、女性騎手の斤量特典はなかったから、減量とその反動も2kgの負担はなかった」
女性騎手の斤量特典が出来たのは、2019年のこと。
優姫が知っているレースはそれ以前、2001年までと2010年までの二つ。
実感として持っているのは2001年までだ。
女性騎手は客寄せパンダだ。
優姫はそう思っているし、場所によっては口にもしている。
デビューの時ではなく、競馬学校に入った時も、優姫のことは話題になった。
体操で実績を残していたから、というのもあるが。
もっとも優姫にとってあれは、トレーニングの一つであった。
競馬場に親子連れや、女性ファンが増えた時代。
優姫はそれを知っている。
そして今は男性のファンも、違う形で呼び込もうとしている。
女性騎手だけではなく、競争馬の擬人化というものもあった。
さすがJRAは商売が上手いと思ったが、そこまで積極的に協力しているわけではないと知って、むしろ驚いたが。
翌日の土曜日、優姫は乗鞍が四つある。
「52kg……」
前検量の段階で、優姫の重さは鞍なども含め、40g足りなかった。
「惜しい」
水をちょっと飲んで、無事にパスする。
この日は1着が一つ、そして3着が二つ。
残りも5着に入って、全て掲示板に乗ることが出来た。
競馬は1着になってこそ、と思っている人間は多いだろう。
だが馬主にとっては正直、ほどほどに走って活躍してくれれば、それを見るのが楽しいという人間もいるのだ。
賞金が出る着順にまで、しっかりと食い込むこと。
出来れば3着以内(※2)で、馬券の範囲内に入ることが、生産牧場にもいいことだと知っている。
その夜、優姫の食事量は多かった。
金曜の夜には麻雀をしていたが、今日は将棋を指している。
「つえー!」
またベテランジョッキーを負かしているが、全くこのあたり忖度がない。
今日の優姫は少し、早く娯楽室を後にした。
翌日の弥生賞に向けて、何度か体重計にも乗っている。
鞍が鐙も含めて、おおよそ5kgといったところ。
また勝負服とブーツにヘルメットを合わせて、1kgといったところ。
弥生賞は57kgで乗るレース。
つまり51kgまでは増やしていいのだが、そんな単純な話でもない。
増やしてもそれは、筋肉の急速な増加にはならない。
格闘技の水抜きとは違うのだ。
日曜日にも優姫は、条件戦で乗るレースが二つある。
それは54kgであり、つまりここから6kgを落とした場合、48kgとなる。
優姫の普段の体重は47kgで、1kgを増やしてもいい。
しかし他のジョッキーはおおよそ、50kgまでで体重を保っている。
優姫よりも2kgも、筋肉が多い計算となる。
レースごとに発汗などで、500gほどは軽くなってしまう。
そういう場合はスポーツドリンクで、必ず体重を戻しておくのだ。
一日ごとに体重の変化を考える。
(やっぱり重賞で勝つなら、斤量特典は邪魔)
何度も体重計に乗って、調整していく優姫。
まずは100勝に到達し、見習い特典を終了させる。
それが今年の、リーディングにおける目標であった。
※1 テンピン
麻雀のレートのこと1000円で100円。
よいこの皆はギャンブルなんかしたらダメだぞ!
※2 3着以内
賞金以外に生産牧場にも奨励金などが入る。




