第76話 氷の情熱
人生は上手くいかない。
ギプスで固められた足を見ながら、彼女はそう思っていた。
単純な骨折で、後遺症が残るようなものではない。
だがその治療までの時間が、最後のチャンスを奪った。
「それじゃあ、お母さん仕事に行ってくるから」
この数カ月で、急激にやつれたように見える母。
それに対しても、何も言えることはない。
フィギュアスケートは本格的にやるならば、最も金がかかるスポーツの筆頭に挙げられるかもしれない。
とにかく彼女が分かっていたのは、フィギュアスケートが裕福な家庭の子供がするというもの。
そして父の会社が倒産し、普通なら続けていくことなど出来ないこと。
だから最後の全日本でメダルを、出来れば金メダルを取って、その才能を改めて示さなければいけなかった。
少しでもお金がかからないように。
そう思って使っていた靴のブレードが折れて、それが怪我につながった。
自分の骨が、はっきりと折れたと分かった音。
あれは絶望の音であった。
もう氷の上には戻れない。
冷たい氷の上で、頭は冷静なまま、心は燃えるような情熱で。
あの冷たい評価と熱狂の反応がある、フィギュアの世界には。
「君がやってきたことは、無駄にはならない」
見舞いに来たコーチは言っていた。
「もしも無駄になるなら、全ての選手はいずれ、引退するのだから」
それは欺瞞である。
あの冷たい、冷然とした点数が付けられる場所。
どれだけ熱くなっていても、それを許さない氷の舞台。
あまりにも残酷な、一つのミスが全てを否定する世界。
それでも再び、氷の上にさえ乗れるのなら、自分は痛みも苦しみも我慢出来た。
だがあまりにも現実的な理由が、それを不可能としたのだ。
怪我を治して、リハビリをして、来年の全日本に。
それまでに誰にコーチを頼み、どうやって衣装を作ってもらい、振り付けを考えていくのか。
誰かに頼らなければ出来ないと、分かっていたはずだ。
だからスポンサーが必要だったのだ。
せめて怪我をせずに続けていれば、あるいは道があったかもしれない。
自分の軽率さが、氷の世界を遠ざけた。
テレビのリモコンを操作する。
チャンネルを変えていく間にあったのは、動物を扱った画面。
癒されたいと思って、そのチャンネルを見ていた。
『オリンピック候補から、この道に進んだ理由は?』
その画面に映っていたのは、女子体操のジュニアでメダルを得ながらも、競馬学校に入ったという少女。
『よくもったいないとか、どうしてやめたのかとか、そういうことは聞かれます』
彼女はとても強い瞳で、インタビューに答えていた。
『けれど私は元から、騎手を目指して体を作るために体操をしていて、上手く相性が良かったから表彰台に上がったりしただけで、それをもったいないとかどうしてと言われても、困ります』
なんだこの不快な……不快なくせに目を離せない、絶望的に歪で強い生き物は。
氷の上で築き上げた、自分だけの世界。
誰かに支えてもらわなければ、その舞台に立つことすら出来ない世界。
「ジョッキー……」
オリンピックを簡単に捨ててしまって、目指すような価値があるのか。
皮肉にもそれは、その特殊な職業を調べるきっかけになった。
天海優姫。
女性騎手というのはそれだけで、ある程度は注目される。
斤量の優位もあって、一年目から勝っていくことが多い。
一年目の年間50勝というのは女性騎手としては歴代二位。
全体でもトップ10に入る、圧倒的な数字であった。
だが本当に恐ろしいのは、一年目ながら重賞に乗って、その乗った二回だけの重賞を、二つとも勝ってしまったこと。
またその重賞の一つが、GⅠであったことだ。
なにしろ斤量の有利も、重賞では関係ないのだから。
50勝や100勝で、斤量特典は減っていく。
二年目以降に失速するのでは、とも思われた。
しかしクラシックを勝ち、むしろ勝利数を倍以上にする。
年間に三つのGⅠを勝ち、三年目の今年はGⅠ4勝に地方のJpnⅠを2勝。
天才と言うよりも怪物である。
別に恐れをなして逃げたわけでもなかろうが、この週にはJRAからの女性騎手は一人のみの参加。
だがこの日、予定されていた地方の交流競走の前日。
それに乗るために、一人の少女がやってきた。
女性区画は小さい、函館競馬場。
前日の夕方に、調整ルームに入った彼女。
春日井天音。
デビュー一年目にして、既に28勝。
開催日の数が違うと言っても、これは優姫よりも早いペースである。
「天海……優姫さん……」
荷物を持った彼女は、優姫の顔を見ていた。
だがどうしても、服装の方に目がいってしまう。
「中学校のジャージですか?」
「そうだよ。初めまして」
「……初めまして。春日井天音です」
「よろしく」
お互いにぺこりと頭を下げてすれ違う。
「この先分かる? 案内いる?」
「いえ、大丈夫です」
「私は娯楽室にいるから」
これが二人の邂逅であった。
当然ながらすっぴんの童顔で、髪の毛はちょっと撥ねている。
中学校ジャージにサンダル、そして首からタオルをかけたおっさん女子。
天音のイメージしていた虚像が崩壊しかけたのは言うまでもない。
「天海~、今日こそは俺が勝つからな~」
「その言葉は何度聞いただろう?」
そして今日も雀卓に座る優姫。
「地方の天才をどう見た?」
「平均以上ではあると思う」
見ただけで分かるのか、と言われるかもしれない。
ある程度は本当に、見ただけで分かるのだ。
ジョッキーというのは必要な肉体的要素が、確実に決まっている。
体幹の強さやバランス感覚などは、競馬学校の一次試験でも見られるのだ。
そうでなくとも所作などを見れば、ある程度は分かるもの。
器械体操をやっていた頃も、その体つきでおおよそ、他人のキャリアなどは分かった。
「お前とどっちが強いよ」
「麻雀?」
「この文脈でどうして麻雀の腕に……いや、なるか」
雀卓を囲んでいるので、確かにそうだろう。
「レースに乗ったらどうだ?」
「平場ならあちらが勝つと思う」
この意見は別におかしなものではない。
「重賞なら?」
「私」
優姫は2kgの斤量差を、軽視する人間ではなかった。
牌を捌きながら、会話がなされる。
「ルックスでは負けてるな」
「そうなのかな」
優姫には美人が分からない。
不細工なのはなんとなく、目立つ特徴があるので分かるのだが。
おそらくは普通の人間に、馬の区別がつかないのと同じだろう。
フィギュアスケートなどは化粧をして演技をすることが多い。
もちろん競馬の騎手であっても、女性は社交の面もあるので、ナチュラルメイクをする人間はいる。
優姫は全くのすっぴんで、それなりに可愛いと言われるのだから、パーティーなどで化粧をすれば「化けた」と言われるのだ。
現代の女性の化粧技術は、確かに化けたと言われても仕方がない。
「ロン。混一色にドラ二枚で8000」
「早え~よ!」
今日も飛ばしていく優姫であった。
女性騎手が増えたと言っても、絶対数は男性に比べて圧倒的に少ない。
そのため女性用の宿泊エリアや共有エリアは、どうしても小さめのものとなる。
現在はカードキーによって、確実に区画が分かれている。
偶然にも風呂に入る時間が、かち合ってもおかしくはない。
先にいたのは天音であった。
すっぽんぽんで全く隠さず、脱衣所から入ってくる優姫に、まずはぎょっとした。
「やあ」
「……お疲れ様です」
普通に挨拶はしたが、まるで少年のように前も隠さない優姫。
その肉体の鍛えられた美しさは、天音の知っているそれに似ていた。
湯船の中から、髪や体を洗う様子を見つめる。
さっさと洗って、さっさと湯船に。
その素早さは、競馬学校時代を思い出させた。
「は、はふ~ん」
溶けたようなリラックスした顔で、肩まで湯船に浸かる優姫。
「どうして娯楽室に来なかったの?」
その口から洩れた声は、硬質のものであった。
競馬社会は実力社会。
だが同時にある程度は、上下関係がしっかりとしている。
「……天海さんは、行った方がいいと思うんですか?」
「対戦するかもしれない騎手の性格は、出来るだけ把握しておいた方がいい。それと私は優姫で構わない」
優姫が麻雀で相手を飛ばすのは、その絶望的な状況で、どういった表情をするか観察するためだ。
別に麻雀自体が好き、というわけではない。
……本当だよ?
優姫はタオルを頭に乗せて「あ゛~」と声を洩らす。
「優姫さんは、そういうタイプなんですか」
「そういうタイプがどうか知らないけど、何千頭もいる馬をマークするより、ジョッキーをマークした方がいい」
インタビューの時にも、なんだか本音を言いすぎるような、そういうタイプが優姫だと思っていた。
クールビューティー。
それが外側から見た、優姫の感想である。
だがここでの優姫は間違いなく、おっさん臭さがある。
イメージがあまりにも違う。
なので天音も、素直に疑問を投げかけることが出来た。
「優姫さんは以前、体操のオリンピック強化選手だったんですよね」
「正確にはジュニア強化選手」
「どうして、それをやめたんですか」
「その質問、何度もされてる」
「すみません」
だが何度もされているので、答えるのもスムーズだ。
「私はずっとジョッキーになると決めていた。だけどすぐ近くに乗馬が出来る環境になかった。だから代わりになる身体操作の競技を探していて、それが体操だった」
棒読みで説明されて、天音は聞き入ってしまう。
「一生懸命練習していたら、勝手に周りが盛り上がっていった。おかげでいいトレーニング環境は作れたから、それは良かった」
「それまでの期待とか、投資とか、してくれた人に申し訳ないとは」
「私にとっての手段を、目的と考えた人が勘違いした。何度か訂正したのだけど、伝わらなかった」
それはこんな言い方をされていては、理解もしがたいだろう。
いや、理解したくないと思ったのか。
天音も理解できない。
「そんな、メダルを期待されるほど育ててもらって、怪我をしたわけでもないのに、何も保証されていない世界に」
「でも結果は出た」
そう言われてしまえば、黙るしかないのだ。
「けれど、周りの人に悪いとは、本当に思わなかったんですか」
「なぜ? 私がオリンピックでメダルを取れるかは微妙だと思ったし、私がいなくても代わりはいる」
「そんな……」
会話は出来ているのに、話が通じない。
化け物と話をしている。
天音はそう思ったかもしれない。
「自分がメダルを取らないと、意味がない」
「そういう人もいる。私はそうじゃなく、過程での訓練が目的だったと言っている。誰に言ってもなかなか理解してもらえない」
それは当たり前のことだろう。
「経済的な理由とかは」
「それもある。競馬学校は食費以外は無料で、体操は金銭を全部負担してもらうにしても、母にかかる負担が大きかった。姉を大学に行かせるのも大事だったのに、私の世話に母がかかりきりになるのはおかしかった」
それならば天音も、なんとか理解出来るのだ。
自分の分かりやすい物語にする。
人間にはどうしても、そういうところがある。
「お姉さんのために、体操をやめた?」
「それは違う。むしろ体操をやめるいい理由になってくれてありがたかった」
言っていることの意味は、一応は分かる。
だが理解できない。
「私は……フィギュアスケートをやっていました」
「知ってる」
「フィギュアスケートって、すごくお金がかかるんです。あの頃は東京に住んでいて。母にも送り迎えとか、あとは金銭的にも父が力になってくれました」
「いい家族だね」
「けれど……金銭的に続けられなくなって、どうしてもスポンサーが必要になって、それなのに最後の大会の前に、骨折をしてしまって……」
「そう」
優姫にとってそれは、同情のポイントではない。
「けれどその経験が活かせてるなら、それまでの練習は無駄になってない」
コーチと同じようなことを、優姫は言った。
天音は優姫を憎みたいのだ。
そうでなくとも一つの目標として、自分の進む道にいてほしい。
だがどこか憎めなく、超然としていて、それでも苛立たせる。
「本当に、体操を捨てたことに、後悔はないんですか?」
「何度も言っているが、その質問は前提が間違っている。けれどそこまで言うなら、あなたはフィギュアを続けたかったの?」
「……それは……」
そうだ、と言ってしまってもいいのだろうか。
「金銭的なことなら、ジョッキーである程度稼いでから、復帰というのは無理なのかな?」
「出来るわけないでしょう……」
優姫のように稼ぐにしても、三年はかかる。
その間にブランクが出来て、さらに競技者としてのピークは終わってしまう。
「そんなにスケートが好きなら、他の関わり方でもいいのに。コーチを目指すとか、トレーナーを目指すとか」
「優姫さんは、ジョッキーじゃなくても良かったんですか?」
「これもまだ、目標への過程だから」
ぱちぱちと目をしばたたかせる天音に、優姫は説明をする。
「私は将来的には、馬を作っていきたい。だから今は、こうやってお金を稼いで、コネクションを作っておく」
「ジョッキーでさえも、過程?」
「これはこれで、目標はあるけど」
人生色々だな、と優姫は思った。
「本当に好きなら、なんとしてでもその世界から離れなければよかったのに、難しいのかな?」
「そんな何年もブランクがあっても、どうにかなる世界じゃないです。野球の佐藤選手みたいなことは出来ない」
「体操もそうかな」
ピーク年齢は確かにある。
それに比べるとジョッキーは、不惑を過ぎてもまだ、現役の騎手はいるのだ。
ありふれた不幸、あるいは不運だ。
優姫としても体操の世界で、怪我で運悪くオリンピックを逃す、という選手は見た。
故障をしない努力さえ、必要であること。
さすがに故障する方が悪い、とまでは言わないが。
どれだけ過去に栄光があっても、この世界を選んだのは自分自身だ。
「JRAじゃなく地方を選んだのも、経済的な理由?」
「それも、なくはないです」
食費にしても今は、デビュー後にローンのように払っていく制度もある。
なるほど、と優姫は納得できないわけではない。
天音が失った道を、優姫は捨てたように見えた。
それがこの詰問のような、対話につながっているのか。
「選手として勝ちたかったんだね」
単純に滑るだけなら、趣味でやればいい。
だが優姫にしても、金を稼ぐためにジョッキーになったのだ。
「あなたがフィギュアの世界にいられなくなったのは、私に原因があるわけではない」
このあたり優姫は、とてつもなく冷徹だ。
「次にこの世界を選んだのも、あなたの意思だ」
いくら影響を与えようと、それは間違いのない事実である。
「個人的には乗れる女性ジョッキーが増えるのは、競馬界全体を見ればいいことだと思うけど」
「私があなたの地位を脅かしても?」
これはさすがに、烏滸がましい言い分であるかもしれない。
優姫はこういった質問に、ちゃんと答えを持っている。
「勘違いしてるみたいだけど、競馬の主人公は馬だよ」
ジョッキーはあくまでも、黒子の存在であるべきだ。
どれだけ優れたジョッキーであっても、馬がいなければレースには出られない。
「私たちは全力で、馬の手助けをするだけ」
モーダショーやヴァリアントロアは、さすがにジョッキーの手腕も大きいと思うが。
緩んだ表情のまま、優姫は湯船から上がる。
「のぼせないようにね」
去っていく背中に、天音の視線が突き刺さっていた。
実際は地方の馬で中央に乗りに来た場合、他の馬に乗るには短期免許が必要になる。
この小説の中では道営の北海道参加の場合のみ、それが必要ないというフィクションで通している。




