第66話 最長距離GⅠ
昭和の時代のホースマンであれば、ダービーと並んで取りに行くのが天皇賞だ。
長距離レースで勝ってこそ、本当に強い馬という証明。
確かに距離が長いほど、運による紛れも少なくなるのだろう。
秋の天皇賞が2000mに短縮された今、春の天皇賞は国内のGⅠで最長の距離を誇る。
国際的に見ても権威と賞金が揃っているという点では、他にメルボルンカップぐらいしかないだろう。
そのメルボルンカップにしても、なんとハンデ競走である。
本当の実力世界一を決めるならば、春の天皇賞が最高と言ってもいいのではないか。
一応ヨーロッパには4000mのGⅠ競走などもある。
だが競馬のスピード偏重に伴って、重視されなくなってきた。
賞金は一桁違い、また勝っても種牡馬価値を高めることにならない。
そう考えると春の天皇賞が、いかに実力が反映されやすいか、よく分かるというものだろう。
京都競馬場、淀の3200m。
考えてみればモーダショーは、京都の重賞は二度走ってどちらも連対。
菊花賞に勝ったことを考えれば、やはりモーダショーがここでは最有力。
前走も3000mの阪神大賞典を1着。
2番人気はやはり前年の勝ち馬ロイヤルガード。
そして3番人気がボーンクラッシャーとなっていた。
去年は一度だけのものとして乗って勝ったユニコーンSが、土曜日の京都では行われている。
今年はそれの乗鞍はなかった。
なにしろ優姫はもう、ソウルハンターという砂の相棒がいる。
羽田盃を勝ったことにより、次の東京ダービーの出走権も手に入れている。
もちろんただ目の前の勝利と、出走権を手に入れるためならば、優姫に頼むのもありなのだろうが。
優姫の勝ち鞍などを見ると、実はダートも芝も半々ぐらいである。
だが重賞で乗っている回数は、明らかに芝が多い。
重賞のレースはそもそも芝が多い、という指摘もあるだろうが。
なのでダートはパワーのある、男性騎手に頼む、という認知の歪みがまだ正されていない。
ただ優姫としてもここは、天皇賞で乗るために、体力は温存しておきたかった。
なにしろ3200mは、優姫にとっても未知の領域。
もっと長い重賞はあるので、そちらで乗る機会があれば、よかったのかもしれないが。
10レースに乗って3勝と、また勝ち鞍を増やした。
条件戦においては、斤量の有利で鬼のような強さ。
JRAもひょっとしたら困っていたかもしれない。
だが優姫の活躍をもって、女性騎手の優遇をやめれば、普通にまた勝率などは落ちていくであろう。
しかしこの斤量優遇により、優姫はリーディングジョッキーとなっても、本当の意味ではそうではない、と言われてしまうかもしれない。
もっとも競馬においては、牝馬には斤量の有利があるのだ。
人間にあってもおかしくはないだろう。
それでいて優姫の場合、むしろ重賞の方が、しっかりと結果を出している。
複勝圏に入ってくる重賞が、どれだけ多いことであるか。
あとは少し時間さえあれば、重賞への騎乗依頼もさらに増えるだろう。
そして日曜日、いよいよ天皇賞の朝。
もう五月に入ってくると、早くも夏の気配を感じる。
このまま温暖化がさらに進めば、サラブレッドは暑さに弱いため、また競争能力以外の部分での、評価もされていくかもしれない。
今のサラブレッドは、一度走ることにばかり特化しすぎた。
夏場の厩舎においては、空調があるところがほとんどである。
だがまだ五月の初めは、そこまでの気温ではない。
湿度も高くはなっておらず、むしろ一番走りやすいのではないか。
馬は寒さに強い生き物だが、寒いのが好きかというとそうでもない。
だから馬の温泉、などと呼ばれるものも存在するのだ。
天皇賞において世間の1番人気はモーダショーに集まっている。
また馬の強さも、モーダショーがおそらく一番であるのだろう。
ただし、とジョッキーたちは考える。
乗っている優姫にとっては、初めての距離である。
かなり似ている菊花賞で、確かに勝っている。
だがわずか200mのこの違いが、果たしてどのように影響するか。
直前に阪神大賞典を走っている。
昔と違い今は、GⅠとGⅡの賞金差が大きい。
大阪杯を使った方が、3着でも阪神大賞典の1着よりも稼げるのだ。
もちろん大阪杯2000mは、中距離ということもあって、適性の向いた馬は層が厚い。
その中でどうしてステイヤーとはいえ、阪神大賞典を選んだのか。
もちろん優姫にはちゃんと、根拠があってのことなのである。
京都競馬場が、他の主要4場と違うところは何か。
簡単に言ってしまえば、最後の直線に坂がないのだ。
阪神大賞典で、最後に坂のあるコースで勝たせたこと。
さすがにスタミナの限界近くで、さらに最後まで走らなければいけない。
そういう展開を学んでおくことで、京都の200mの延長を、どうにかこなせるのではないか。
とことんスタミナを考えた、レース選択なのである。
大阪杯で上位になった馬は、ほとんどが天皇賞には出てこない。
2000mの競馬をした後に、五割増しを走るというのが、そもそも難しいことなのだ。
実際に秋の古馬三冠馬と違って、まだ春の古馬三冠馬は出てきていない。
もっとも大阪杯の時期は、海外のレースに出走する馬も多い。
そのためある程度の層は、抜けてしまうと言える。
実際にブラッドブレイカーは、今年もドバイを制しに行った。
ヨーロッパにすると時期的に、平地競走のシーズンの前。
そこで招待レースに出るということなので、箔付けには選ばれる。
もっとも最近はどんどんと、地元馬と日本馬、そして香港馬の勝利が圧倒的になってきている。
ヨーロッパの場合は本当の実績持ちは、3歳で引退させてしまうからだ。
遠征敗北による、種牡馬価値の下落を、恐れているのだ。
出走したとしたら、騙馬か牝馬であったりするのが、最近のヨーロッパ。
香港はそもそも、99%が騙馬なので、それとはまた別である。
ドバイの場合は完全に招待競走で、芝のレースも1800mと2400mがある。
なんならドバイのダートには、かなり日本の芝馬も適性があるのだ。
招待されるような馬は、ドバイを第一目的とする。
そのため大阪杯のレベルは、3歳でチャンピオンクラスになった馬は、なかなか出にくい。
ブラッドブレイカーも、ダービー、秋天、有馬を3歳で勝ったチャンピオンホース。
同じクラシック馬といっても、モーダショーとは格が違う。
シュガーホワイトが無事に走れば、それ以上だったろうなというのが優姫の感想であるが。
死んだ子は皆、可愛いものに思えるのと同じ心理かもしれない。
モーダショーは12月デビュー。
今の基準であると、やや晩成と言えるだろう。
もっともこれは育成環境が、五代や北海道の有名育成牧場とは違ったこともある。
また単純に、走らせるのが難しい馬でもあるのだ。
肉体的にもそうだが、精神的なものも大きい。
優姫以外が乗っても、ある程度は走るようになってきた。
それでも速いタイムを出そうとすると、やる気を失ってしまうことが多いのだが。
レースが好きになってきている。
この精神的な成長と言うか、変化が大きいものなのだ。
馬は結局、闘争心で走る。
それをどれだけ上手く、引き出すことが出来るか。
モーダショーはこの日、京都競馬場の大歓声の中に立つ。
しかしのんびりしているのが、モーダショーという馬。
優姫としてはそこで、どうやってゴーサインを送るかが、問題となってくるであろう。
栗毛の馬体が輝くようである。
普段はもっさりとしたモーダショーだが、さすがに厩務員の小田川も、しっかりと磨き上げてきた。
厩務員などという人間は、馬が好きでたまらないと、務まらないものである。
走らない馬は走らないなりに、残念で悔しく思ったりもする。
しかしこのパドックで、GⅠ馬を曳いている自分。
この舞台に連れてきてくれた馬を、特別と思わないわけもない。
3強対決になるだろう、と言われていた。
だが小田川は優姫から、おそらくボーンクラッシャーとのマッチレースになるのではないか、とも言われている。
その競り合いが中盤などに起こってしまえば、あるいは両者共倒れとなるか。
モーダショーののんびりした気性を、逆に信じたいものだ。
優姫の前のジョッキーたちは、闘争心がないなどと言って、あっさりと負けさせていたが。
母系が在来牝系だけに、扱いを間違えていたのか。
父スプラッシュヒットは、確かにモーダショー以外、2400m以上でのGⅠを勝っていない。
待機線で待っている優姫も、その仕上がりぶりを見ている。
阪神大賞典が終わってすぐは、少しの間外厩で休ませた。
だがまた早めにトレセンに戻して、ずっと優姫が乗ってきたのだ。
(あとはボーンクラッシャーか)
鞍上松川も、ここで勝つと考えているだろう。
3歳時は怪我に泣かされ、そして4歳で重賞勝利。
菊花賞2着というのが、モーダショーとの直接対決であった。
4歳になってから本格化したな、と優姫も見ている。
そもそも松川が手放さなかったのだから、勝てる馬なのは間違いない。
それもオープン程度ではなく、GⅠを勝てる馬。
優姫の目から見ても、現在の4歳世代の牡馬では、おそらくトップ3に入る。
展開と距離にもよるが、モーダショーより優れた部分は多いだろう。
だが競馬に絶対はない。
長距離は騎手で買え、とも言われる。
これまでに既に、春の天皇賞を5勝もしているのが松川だ。
春の盾男、と言ってもいいだろう。
(血統的には本当は、あっちの方が人気になるんだろうけど)
実績では3000の重賞を二つ勝っている、モーダショーが上ということだろう。
モーダショーが菊花賞を勝ったのは、実は馬産地では相当な影響が出ている。
これまでは長距離GⅠには、ダービー2着が最高であったスプラッシュヒット。
しかし配合によっては、長距離も走れると出たのだ。
もっともここまでの在来牝系など、むしろ日高の中小馬産にこそ残っているのかもしれないが。
ただこれまでもそういった肌馬にはある程度付けてきた。
モーダショーだけが、突然変異なのかもしれない。
いよいよ騎乗である。
調教師の三ツ木と共に、オーナーもやってきていた。
「会長さんは来てない?」
「来たがってたけど、どうしても外せない用事があってな」
天皇賞に対するこだわりは、社長よりも会長の方が上であったはずだが。
競馬事業の他には、一つの事業を見ているだけの社長より、会長はとにかく忙しいのは確かだろう。
「それでも中継は見ているはずだけど」
優姫の知っている時代に比べると、本当に便利になったものだ。
三ツ木は特にもう、何かを言うこともない。
モーダショーに関しては、優姫が一番よく分かっているはずだ。
相手も強い、と優姫には分かっている。
だが勝てるかどうかは、それとはまた別の話である。
(五分五分かな)
長距離は途中のミスを、ジョッキーの腕で挽回しやすい。
しかし相手の鞍上を見ても、こちらが上だなどとは言えない。
パドックから返し馬へ。
もう明るくなっている、ターフの緑色がはっきりと目に入る。
駆けていく感じを見ても、モーダショーの気分がよくなっているのは分かる。
(スタンド前を二回……)
歓声を浴びても、特に委縮などはしないモーダショー。
ただ4歳馬の中には、折り合いが付かずに自滅する馬もいるはずだ。
その中でやはり要注意なのはボーンクラッシャー。
鞍上の長距離適性は、とんでもなく高い。
優姫と同じく、淀を得意とする松川。
去年の覇者ロイヤルガードにしても、最近はやや調子を落としている。
それでも3番人気なのは、やはり実績があるからなのか。
古馬になってから強い、という馬が優姫は好きである。
だが馬主業をビジネスとして考えた場合、3歳で結果を出すことが望ましい。
シュガーホワイトは2歳の時点で、あっさりと購買金額を上回って賞金を稼いでくれた。
さらに皐月賞とシンジケートと、白雪はかなりの大金を手にした。
本人にとってみれば、さほどの意味もない収入。
それよりはまだ、ターフでの活躍を見たかったな、というのが正直なところであろう。
ダービーを勝つ。
ジョッキーであれば誰もが、夢見る最高の栄誉。
またオーナーとしても、どれだけ強い馬を持っても、一度きりしか挑戦させることは出来ない。
シュガーホワイトの産駒で、ダービーを勝つ。
優姫がひそかに思っていることだが、果たして種牡馬として成功するのかどうか。
輪乗りからゲートイン。
そしてゲートが開いて、いよいよスタート。
モーダショーは特に遅れることもなく、比較的楽な手ごたえで先行集団へ。
目標とするボーンクラッシャーも、同じように位置取りをしている。
(内は少し荒れてるけど)
モーダショーは包まれるのも承知で、やや内ラチから外に出る。
コーナリング能力を考えると、やはり内側は通らなくてもいいだろう。
そう考えていると、逆にやや内に寄ってきたボーンクラッシャーが、ほぼ隣にいる。
松川もちょっと驚いて、こちらを見ていた。
そして優姫と松川、二人の意思が馬に伝わってしまう。
まだ一周目であるというのに、2頭は少しずつペースを上げていく。
これを無理に抑えようとは、優姫も松川も思わない。
1周目のスタンド前。
逃げ馬1頭が前にいるが、先行集団の先頭に、この人気の2頭がやってきた。
優姫も松川も、抜群の体内時計を持っている。
ペースとしては意外と、速すぎることはない。
このままでもいいが、お互いが意識し合ってしまっている今、本当にそれでもいいのか。
動くべきか、動かざるべきか。
優姫は相手を見てから動こうと思った。
そして松川は、自分から動いていった。
少しだがペースを上げて、逃げ馬を捕まえにかかる。
(ペースとしてはぎりぎり)
ロングスパート能力ならば、おそらくモーダショーの方が上であろう。
だがそこに至る前に、充分な差をつけられてしまったらどうなのか。
賭けに出なければいけない場面なのか。
それともここは我慢の場面なのか。
(動く!)
わずかな手綱の絞りから、ハミを噛んでモーダショーは動いていく。
スタンド前を通過して、二周目の向こう正面。
そこでモーダショーも逃げ馬をかわし、ボーンクラッシャーを追いかける二番手へ。
モーダショーを半馬身差抑えて、ボーンクラッシャーは先頭に立つ。
本命2頭の、マッチレースの展開となってきたのであった。




