第6話 我思う、ゆえに馬あり
ホープフルステークスを勝った直後の数日間、優姫の周りは騒がしかった。
鳴神厩舎の前には記者が並び、特に競馬関連以外のマスコミが目立った。
取材申し込みの電話は鳴り止まない。史上最年少女性騎手のGⅠ初制覇は、それだけインパクトのあることだった。
シュガーホワイトが芦毛、というのも理由の一つであったろう。
だが本人はマイペース。
まだ急激に騎乗依頼が増えたわけでもない。
「……ん。よしよし」
厩務員の仕事を取って、馬を洗ったりしている。
「ええのんか~、ここがええのんか~」
棒読みの声で語りかけるがやはり無表情で、それが妙に微笑ましい。
馬と戯れる姿。
それを見て、美奈は呆れたように笑った。
「優姫ちゃん、ほんとブレないよね……GⅠジョッキーになったのにねえ」
「……それは馬には関係ない」
「……うん、そうなんだけどね」
全てが馬基準であるらしい。
美奈も馬を最後まで洗い、また会話を続ける。
「次はクラシックだねぇ。本番は先だけど、ステップは……」
「乗れるレースは全部乗る」
優姫の声は相変わらず淡泊だが、その内容には強い熱がある。
もちろん騎手である以上、乗るのは一頭だけではない。
斤量特典が残る優姫に、重賞以外の依頼が増えるのは分かっていた。
「姫、日曜の京都七レース頼めるかな? 52キロでお願いしたい」
「姫、阪神のダート1400、減量込みで乗ってくれない?」
「姫、土曜はメイン以外は空いてる?」
どの依頼も、どうせなら乗ってもらいたい、というものばかりである。
しかしいつから姫になった?
千草は苦笑していたが、分かりやすい呼び名だ。
ともあれレースに乗れば乗るほど、馬の癖を読む勘は磨かれ、反応は鋭くなる。
100回の調教より一度のレース、というのは馬に限ったことではないのだ。
優姫も自分が強くなるために、必要なことだと理解していた。
そしてそんな中、年明け早々に優姫に一本の騎乗依頼が届いた。
騎手が落馬負傷したため、代わりに乗ってくれ、という形であったが。
「シンザン記念(※1)の騎乗依頼? いいところから来たじゃない」
どれどれ、と千草が確認する。
「馬名はグランジェッテ、3戦2勝。父スプラッシュヒット、母アークリヴァーの母父ガンランナー」
「スプラッシュヒット産駒……」
アメリカから輸入された種牡馬で、既に実績を残している。
あちらのダートでも少しは走ったが、日本に持ち込まれた馬は、芝でかなり勝っている馬だ。
そのため日本軽種馬協会が購入したのだ。
それよりは母父ガンランナーという方が目立つかもしれないが。
元は、日本で走ったが種牡馬成績が微妙だった馬を、アメリカで余生を過ごさせようと、あちらに持っていったのがスプラッシュヒットの父。
その時点でも種牡馬登録自体はしていた。
そしてなぜかアメリカのダートで、活躍する産駒が続出した。
また母父としても有能で、日本に戻してくれとも言われたが、今更もう遅い。
スプラッシュヒットは、ケンタッキーダービーを含むGⅠ4勝の名馬である。
早期故障があったとはいえ、輸入できたのはかなり幸運と言われた。
「乗る」
「即答かい。まあ断る理由はないか。うちの馬じゃないから、調教はあっちの厩舎でやってもらうことになるけど……」
「乗れるなら、全部乗りたい」
このあたり貪欲である。
「そろそろ代理人(※2)を作った方がいいかもね」
千草の言葉に、優姫も沈黙しながら考える。
ジョッキーは数に乗ってこそ。
だが体は一つなので、どういう日程で乗っていくのか、それが重要となる。
これまでの優姫は依頼が多くはなかったが、シュガーホワイト以外でも重賞の結果を出していけば、日程調整が難しくなっていくであろう。
すぐに必要なわけではないが、頭の隅には入れておくべきことだ。
有力馬で重賞に乗るということで、しっかりと挨拶にも行く。
その帰りに、優姫は呼び止められた。
「優姫ちゃんよ、うちの馬に乗ってくれんか」
赤ら顔に千鳥足は、明らかに酔っぱらっている。
うだつの上がらないように見えるが、これでも調教師。
「どのレースですか?」
「未勝利なんだがな」
それにもほいほいとついていく優姫である。
栗東トレセンには、およそ2000頭以上の馬が常時滞在している。
外部にいる馬もいるので、実数はさらに増える。
そして入れ替えもどんどんと行われていく。
毎年1000頭以上の馬が、新たに入ってくる。
そして出ていく馬も、同じような数であるのだ。
優姫が訪れたのは、三ツ木航厩舎。
かつてはそれなりにリーディング上位にいたのだが、最近の成績は年間数勝というものである。
もっとも調教技術が劣っているとか、そういう問題ではない。
制度の変化に、付いていけなかった、というのが正しい。
預かる客筋などを見ていると、そういうこともある、と言うしかない。
初めて見た栗毛だが、これは明けて三歳になったばかり。
(うん?)
もっさりとした体型であるが、それほど悪くはないのではとも思わせる。
(典型的なノーザンダンサー体型だけど……)
優姫を見てものんびりとした感じのまま。
しかし血統が分かりにくいな、とは思った。
こういう体型はあまり、長い距離は得意ではないはず。
ダートに適性がありそうかな、と初見では思ってしまう。
「ほいこれ、血統表」
それを見た優姫は、さすがに少し驚いた。
名前はモーダショー。
スプラッシュヒット産駒である。
スプラッシュヒットは日高の軽種牡馬協会が輸入した種牡馬のため、さほど高くない種付け料で種付け出来る。
GⅠ馬を含む重賞馬を多数出していて、人気の種牡馬であるのだが、産駒の評価の幅が広い理由はそれだ。
それでも種牡馬の種付けできる数は、限度というものがある。
だから牧場が付けるとしたら、その牧場の竈馬(※3)に付ける。
ただその繁殖牝馬の血統が面白かった。
スプラッシュヒット自身は父は日本産馬だが、アメリカの牝馬に種付けされて生まれたため、アメリカ血統が濃くなっている。
それで薄められたので日本の繁殖には付けやすく、母方には古くからの名馬が血統表に並んでいた。
母父モーリスというのは、短距離から中距離で走りそうに思える。
実際に姿を見ても、スプリントからマイルぐらいか、という印象を受ける。
だが母系をたどっていけば、マンハッタンカフェ、トウショウボーイ、シンザンなどが入っている。
およそステイヤーの血統と言ってもいいのではないか。
母方からスタミナを、父方からはスピードをというのは、血統論の中の一つである。
だが体格からだけでは、長距離適性は分かりにくい。
「触っていいですか?」
「まあのんびりしてるから、大丈夫やで」
優姫はゆっくり手を伸ばして、首筋に触れていった。
指先から伝わってくるもの。
それは心臓の鼓動であり、優姫はゆっくりとそれを数える。
(遅い……)
確かなことは言えないが、この感覚は確かにステイヤーだ。
あとは気性の問題となる。
「サンデーが三本……」
父方はサンデーサイレンスの直系であり、母はサンデーサイレンスの4×3というクロスを持っている。
言うまでもなくサンデーサイレンスは、気性難と紙一重の特徴を産駒に伝えた。
特に激しい気性であったというステイゴールド。
その直系であるが、血は薄まってスプラッシュヒットは温厚と言われる。
実際のところ気性が悪ければ、アメリカなら騙馬にしてしまっていたかもしれない。
日本と違ってアメリカやオーストラリアは、生産もしているのにあっさりと、生殖機能を失わせてしまう。
新馬戦が7頭立ての5着、未勝利戦が9頭立ての4着。
あまり期待は出来ないな、と普通なら想像するだろう。
だがこの時期ならばまだ分からない。
特にステイヤーであれば、晩成でも構わないだろう。
シンザン記念の後にある、京都での未勝利戦。
それに乗ることになって、優姫は調教もつけることとなった。
シュガーホワイトに関しては、育成牧場の方に行って、自分で鍛えていく。
牧場には女性の乗り役もいるのだが、彼はそれ以外にも気ままなところがある。
優姫でなければいけない、というあたり好みが激しい。
このあたりはやはり、祖父に似ていると言えるだろう。
「曾祖父さんに似てるねえ」
優姫にそう言われても、知らんぷりのシュガーホワイトであった。
一月第二週の日曜日。
京都開催のシンザン記念までに、優姫が調教で乗れるのは追い切り一度のみ。
なので曳き運動などもして、個性を把握する。
普通ならもっとベテランに頼むところだが、それをして勝たれてしまうと、そちらのお手馬(※4)になってしまうこともある。
「57……」
これ限りとなるのは仕方ないが、優姫が気になっているのはそこではない。
57kgの斤量。
牡馬の場合はこれが指定されている。
現在の優姫の体重は47kgと、余裕がありすぎる。
するとあちこちに重りをつけて、合わせることになるのだ。
男性騎手に50kgが多いのは、その体重ならばおおよそ、どのレースにも乗れるため。
しかし女性騎手は、48kgまでに制限しておく必要がある。
さらに優姫は101勝に届くまで、まだ1kg落としておかないといけない。
別に減量は苦ではない。
だが付けられる筋肉が、少なくなるのが痛い。
女性はただでさえ、胸の重さで体重が重くなる。
またどうしても生物的に、皮下脂肪が多くなる傾向になっている。
つまりその分まで、筋肉量が男性とは変わる。
優姫の場合は皮下脂肪を減らし、筋肉量をふやし、腹筋が六つに割れていたりするが。
細マッチョと呼ばれる優姫。
だが根本的に、男性には筋力でかなわない。
(騎乗馬さえ集めることが出来れば、昔の方が楽だったな)
女性騎手の斤量特典がなかった時代。
筋肉2kg増しで、重賞に乗れたのだから。
制度を変えるのは無理なので、優姫はトレーニングをしながら同時に、減量もしていく。
極度にフラットな胸は、まるで少年のよう。
脂肪の塊などいらない。
その分ワイは筋肉が欲しい。
やはり実績を積んで、女性特典がなくても、優姫ならば勝てると思わせるぐらいにならなければいけない。
2kgの筋肉の差は、馬を追うのにかなりの違いとなる。
シンザン記念は京都の1600mレース。
グランジェッテの鞍上で、優姫はモーダショーの血統を思い出す。
五代血統表の奥深くに眠るシンザンの血。
(懐かしい……)
彼の背中を知っていたのは、懐かしいと感じるのは誰なのか。
今のレースを考える。
グランジェッテの能力は、追い切りを走って分かっている。
ゲートが開いてすぐ、優姫はポンと飛び出す。
しかし逃げるほどにはハナを切ることもなく、先団の中に入る。
京都のコースは最後に、どこで仕掛けるかが難しい。
前から三番目、四番目に、入っておく。
芝の状態は今日、二つ前のレースで確認している。
時期的にあまり、内ラチに寄りすぎるのはよくない。
(マイルか……)
流れに乗って、無理をさせない。
折り合いにだけ気を付けて、馬の様子に注意していく。
掛かってしまった馬が、先頭を走っていた。
だがさほどラップは早くなってもいない。
(京都の坂は……)
優姫はこのコースが好きだ。
第3コーナーから坂を上がっていく。
ここで下手にスタミナを使うことなく、スピードが上がらないようにする。
そして下りに入る。
最後の4コーナー、ゆっくりと下っていくところ。
だが優姫はあえて抑えず、そのまま勢いを乗せていく。
4コーナーを終えたところで、先頭に立っていた。
どうもスプラッシュヒット産駒は、ロングスパートが得意な傾向にある。
もちろんいくらでも例外はいるだろうが、少なくともグランジェッテはそうだ。
先団の馬たちは、抜けたグランジェッテには追いつけない。
あとは後ろから、どの馬がやってくるか。
(来た)
黒鹿毛の馬が、大外を回してやってくる。
こいつもおそらくは、4コーナーで勢いをつけてきたのだ。
上り坂のない最後のストレート。
残り1ハロンでもまだ、グランジェッテ先頭。
しかし最後の一息、待ちきれなかった。
クビ差でわずかに、1着を逃した。
1着は優姫も注意していたスカイグライダー。
(やっぱりディープインパクトに似てる)
それでも2着で収得賞金を増やし、最低限の仕事はした優姫であった。
※1 シンザン記念
様々な異名を持つ、史上二頭目の三冠馬であるシンザンを記念して出来た。
シンザンの戦績は18戦14勝2着4回で、日本馬の連対記録としては、半世紀以上破られていない。
クラシック三冠に天皇賞、有馬記念、当時は少し格下であった宝塚記念を勝っている。
※2 代理人
正確には騎乗依頼仲介者。
主に騎手が調教師や馬主からレースへの騎乗依頼を受ける際に、騎手本人に代わってその受付、交渉、承諾といった事務的な業務を行う者のこと。
エージェントの多くは競馬新聞のトラックマン(記者)などが務める。
※3 竈馬
その牧場を支えるような繁殖成績のいい繁殖牝馬のこと。
血統的に優れていて、産駒が期待される場合もある。
台所の竈を支えてくれる、生産者を食わせてくれる、ありがたい馬という認識である。
最近はあまり使われてないらしい。
※4 お手馬
主に騎手が使用する言葉で、自身が継続的に騎乗を任されている、または過去に何度も騎乗してその馬の癖や能力を深く理解している競走馬を指す。
今回の場合は負傷により優姫に臨時の出番が回ってきたが、重賞などを勝ってしまった場合、そのまま騎手が交代することもある。




