表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
序章 夢の跡、約束の場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第5話 あるはずのない海

 物心ついた頃から、天海優姫は自分の内側に、もうひとりの自分がいるような感覚を抱えていた。

 それは思考ではない。もっと純粋で、何かを判断するとき、あるはずのない基準が出てくる。

「こうした方が早い」「もっと上を狙える」「それは甘い」

 静かで冷静で、それでいて頑固な意志が、優姫を導くように寄り添っていた。


 小学校で鉄棒が得意すぎる、と褒められた時もそうだった。

 そうなのかと単純に感想を抱くと共に、もう一人が告げる。

 ――おまえは身体の使い方を知っている。昔から、当たり前のように。

 優姫にはそんな過去はない。

 問い返しても、何も反応はなかった。


 違和感ではあったが、不快とまでは思っていなかった。

 そのため誰かに相談したこともない。

 イマジナリーフレンド、という知識がある。

 それに近いのだろうが、その知識はどこから来たのか分からない。


 その「内側の誰か」を他の存在として認識したのは、小学三年の冬だった。


 日曜の夕方前に、偶然テレビのチャンネルを変えた。

 その時に競馬中継が映った。

 カメラが映すのはゲートに向かう、美しいサラブレッドたち。

 有馬記念だ。

 瞬間、優姫の体は勝手に震えた。

 映像の向こうの馬の呼吸音が、胸の奥底でも響いた気がした。


 ――知っていた。

 ――その場所を、ずっと知っていた。

 優姫はモニターを凝視し、完全に動きを止める。

 その姿勢がまさに、モンキー乗りであった。


 周囲の音が消え、映像だけが網膜に焼きつく。

 ゲートが開き、馬群が一斉に飛び出す。

 そのフォーム、反動、重心移動。

 知るはずのない細かい身体操作が、優姫の脳内から肉体に伝わる。


 それは「知識」ではなかった。

 記憶していた「体験」であった。

 ――これはわたしのものじゃない。

 ――わたしの記憶だ。

 ……記憶?


 ここではないどこか、今ではないいつか、自分ではない誰か。

『……年ぶりの三冠馬だ! ……年ぶりの三冠馬だ!』

『……最後の競馬! 日本最後のゴールイン!』

『……一着! ……一着! スーパーホースです! ……です!』

『奇跡の復活! ……ぶりのレースを制しました!』

『……人気のジンクスは崩れる!』

『なんと! なんと! ……年ぶりの夢かなう!』

 ……なんだこれは?


 胸が痛むほどの既視感。

 見たことがないはずの、見たことがある競馬場。

 見たことのある、そして乗ったことのあるレース。

 自分はかつてそこにいたのだ。

「……そうか」

 思わず口から漏れた時には、レースは終わっていた。


 優姫は思い出したのではない。理解したのだ。

 自分が存在する理由、なすべきことを。

 そう……最強の馬を作るということ。

 馬の血脈を、つないでいくということ。


 優姫の心は奇妙なほど穏やかだった。

 そして冷徹に、人生のレールを考え始める

 馬に乗り、馬を知り、馬と生きる。

 生まれ変わっても、また馬の傍で。

「……分かった」

 この日、ホースマン天海優姫が生まれた。




 それから優姫の行動は効率的になった。

 学校の休み時間には、鉄棒や跳び箱で体の可動域を確認し、筋肉の使い方を調べた。

 学童の活動として、器械体操を始めた。

 それまでも賢いとか、運動神経がいいとか、そういうことは言われていた。

 だが「覚醒」した優姫はまさに、神童とでも呼ばれるものであった。


 指導者側も、彼女こそまさに天才では、と思った。

 努力とか楽しいとかではなく、必要だから頑張る。

 そういった心の持ち方自体が、既に才能なのだ。

「もっと正確に」「それでは甘い」と修正してくれる。

 優姫はその自らの一部を、完全に信頼していた。


 中学校でも進路については、担任の教師と話し合った。

「天海、進路のことなんだけど……本気なのか? 競馬学校って、受験者のほとんどが乗馬経験者だぞ」

「……乗馬体験には行きました」

 優姫の進路は、公立の進学校にすべきだろうと、担任は思ったのだ。


 父親のいない母子家庭で、姉と三人の家族という環境。

 姉が進学したいのなら、自分はしない方がいい。

 そのために新聞配達もしてきたのだ。

 現在の競馬学校は、自分の知識にあったものと違い、食費以外は全額無料。

 少しでも自分で負担するために、唯一出来るアルバイトをした。

 優姫は絶対に譲らない。

 不合格であったら公立校を目指す、という条件での受験。

 しかし受けてしまえば、合格するのは分かっていた。




 競馬学校と厩舎実習の三年間。

 いずれはライバルとなる、友人たちが出来た。

 そして優姫は知った。

(このラインが切れてる……)

 それまでも調べていて、確信はしていたのだ。

 自分の中の記憶と、現実の歴史が違うことに。

 そうでなくとも競馬に関係しない、一般家庭の出身。

 これは「弱くてニューゲーム」であったのだろう。


 毎日馬に触れて、そして乗っていく喜び。

 しかし競馬学校では、話す相手が相手だけに、会話で齟齬が生じることがある。

 現実と記憶が異なるのは、優姫の過去がこの歴史では、存在しなかったから。

 だから活躍する馬が、何頭も生まれていない。

 そしてわずか一頭の馬の不在が、血統図を大きく変えてしまうのは、競馬の世界では当たり前のこと。

 過去の経験は確実ではないし、まして未来が見れるわけでもない。

 それでも優姫が、歩みを止める理由にはならない。


 優姫が乗れば、サラブレッドが気を抜くように耳を倒す。

 誰よりも柔らかく乗る騎乗技術。

 荒ぶる馬であっても、最後の直線にまで、ずっと折り合って乗ることが出来る。

 そしておっとりした馬が、先頭でスタートを切っていくのだ。


 座学では常にトップで、ほぼ満点。

 しかし一部では常識が古いものであったりと、何を教材に学んだのか、と不思議がられることはあった。

「ユッキーってどうしてそんなに乗れるの?」

 同期の女子に尋ねられたが、そんなものは伝えられるものでもない。

 ただひたすら乗っていればいい。

 乗れば乗るほど、優姫の中の違和感は消えていく。

 自分が生まれる前から、ずっとそうしてきたように。




 厩舎実習も終えて白井に戻ると、いよいよ模擬レースが始まる。

 それぞれ実力もバラバラな馬で、六人がレースをする。

 入学時に八人だった同期は、既に二人が脱落していた。

 仕方がないことだと、特に男子は思っていた。

 男子なら本来この時期に、一気に身長が伸びることがある。

 ジョッキーは現役である限り、ずっと体重制限と戦うことになる。

 そのため親の体格次第では、入学することすら出来ない場合もあるのだ。


 このレースでは優姫が必ず勝てるわけではない。

 しかし優姫の乗った馬が五着だった場合、他の誰かが乗ったとしたら、五着以上に持ってくることはほとんどなかった。

 全体的な成績として、優姫はその年の卒業生で、トップの成績となった。

 これが少しでも、将来の役に立つのか。

 全く役に立たないわけではない、という程度だと優姫は知っている。


 厩舎実習中には、栗東のトレセンでいくつかのコースを乗っていた。

 また日高の育成牧場では、馴致の過程も学んでいる。

 優姫にとってそれは、学ぶものではなく懐かしいもの。

 このレースを繰り返して、最後には卒業の間近に、模擬レースを本物の競馬場で行うことになる。

 模擬レースでは優姫は、勝っていない。

 馬の力が違えば、勝てなくても当たり前なのだ。


 馬を育てるということは、変わらないようで変わっていく。

 しかし変わっていくようで、実は変わっていないところもある。

 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そういうものであるのだ。

 メソッドとして確立されるものではなく、個人の保有技術として通じる。

 そういうものはいくらでもあるのだから。




 やがてデビューする頃には、内なる声はなくなっていた。

 しかし自分にはまだ「最強の馬を作る」という目標がある。

 そのために走り続ける。果てはない。

 最初の大きな仕事は、シュガーホワイトの調教であった。

 専任騎手はもちろん優姫であり、調教でも優姫だけが乗ることとなった。


 夏の新馬戦で使って、追い込んで2着。

 すぐに未勝利戦を使って、こちらは中団から抜け出し、余裕の勝利であった。

 1勝して条件戦も勝利し、その後に選んだのが東京への遠征。

 この時期から将来、重賞で遠征することを考慮し、東京スポーツ杯2歳ステークスへ挑戦し勝利。

 間違いなくダービー候補、と言われ始めたのはこのあたりからである。


 府中のコースを使ったのは、東京に住む白雪が見やすいように。

 また3歳の目標とするダービーは、このコースの2400mで行われる。

 そして年末の、ホープフルステークスで優勝。

 徐々に距離も伸ばしていき、その適性を調べていた。

「母親は2000までしか勝ってないけど、ホワイトウイングが2400を勝ってるしね」

「母系にいるモンジューやリファレンスポイントも、スタミナはあります」

「むしろリファレンスポイントは重すぎる(※)気もするね」

「キャンディライドでかなり、軽くなってますけど」

 優姫は基本的に無口だが、血統論議だと多弁になる。

  

 血統による適性距離とは確かに存在するが、血統よりも気性で決まる場合もあるのだ。

 サクラバクシンオーなどは、血統的にはむしろ中距離向き。

 だがその勝ち鞍はスプリントまでに集中している。

 これが母の父となって生まれた代表産駒が、キタサンブラックである。

 菊花賞に加え、春の天皇賞二回という、3000mを超えるGⅠレースを三勝。

 さらに2400mの距離でも、実績を残したステイヤーであった。


「乗ってみてどれぐらい走れそう?」

「春天(※1)でも勝てるかな」

 母親のスタークラフトは、2000mまでしか勝っていないと言った。

 だがそもそもアメリカのレースが、大レースはほとんど2000mまでなのだ。

 これが芝であれば、もう少し長い距離も増える。

 しかし実績はダートのみ。


 父からはアメリカのスピード、母からはヨーロッパのパワーにスタミナ。

 そこから生まれたのがスタークラフトだ。

 血統的におそらく、クラシックディスタンス(※2)で走る。

 長い距離であれば、菊花賞の3000mがある。

 長距離は騎手で買う。そういう格言が競馬ではある。

 スタートの上手さ、道中での折り合い、そして仕掛けるポイント。

 それは生涯に走ることも少ない、馬には分からないことだ。

 何度もレースに乗る騎手がいて、それが馬を制御していかないといけない。




 千景と話し合う間に、優姫は関西のレースで勝ちまくった。

 鳴神厩舎のオープン馬は、他の有力騎手のお手馬。

 優姫が乗ったのは主に、なかなか未勝利を脱出出来ないか、条件戦でくすぶっている馬。

 重賞に乗ったのは、シュガーホワイトが初めてである。

 新馬戦から乗っていたので乗り替わりもなかったのだが、そもそも女性騎手しか乗せないのだから、ほとんど選択肢はない。


 王道のクラシック路線を目指す。

 血統的に長い方がいいだろう、とも思われたのだ。

 最後の直線に賭けるのではなく、スタミナですり潰していくタイプであろう。

 そうも思ったが絶対能力の差で、後ろから追っていって勝つことも出来た。


 ホープフルステークスを勝ったことにより、シュガーホワイトはクラシックに出るだけの、賞金はもう稼いだ。

 だからここからは出走ではなく、勝つことを目的としていく。

「ステップレースをどうするか……」

「府中も中山も走ったから、弥生賞かスプリングステークス」

 目標はやはりダービーである。

 しかし皐月賞を、無視するという選択もない。


 皐月賞、ダービー、そして菊花賞。

 この三つのクラシックを勝った馬に与えらえる、クラシック三冠という栄誉。

 ホープフルステークスとは別路線から、それに挑んでくる馬もいる。

 また一月からのレースで、賞金を増やして出場の範囲に入る。

 そういった競争を考えると、経験を増やすという意味でも、ステップレースは使っていった方がいいだろう。


「オーナーは?」

「こちらに任せるってさ」

 ただしあちらも仕事があるので、早めに決めろとだけは言われている。

 優姫も考えていかないといけない。

 それは体重の増量である。

 勝利数が51勝になるので、重りが減って1kg分の筋肉が増やせるようになった。

 どのみち重賞に乗る場合には、減量の特典がなくなる。


 女だから、と減らしてもらっている負担斤量の措置。

 重賞に乗るようになれば、これがむしろ邪魔。

 優姫が完全に、男と同じ重量で勝てるようになれば、騎乗依頼も回ってくるだろう。

 しかしまだ今のところは、条件戦がほとんどなのだ。


 数少ない乗れる重賞で、確実に結果を出していかないといけない。

 GⅠを不利な条件で制してもなお、優姫の乗鞍が劇的に増えてはいない。

「大口の馬主さんを捕まえられればね」

「テキは心当たりは?」

「もう知ってるところは全部当たったけど……」

 だがそれは、まだ優姫が結果を出す前のことだ。


 シュガーホワイトが強いだけ、という見方もあるだろう。

 実際に優姫の勝利した重賞は、シュガーホワイトによるもののみである。

 新馬戦や未勝利戦、条件戦で勝ち星を稼いだ。

「それこそオーナーに紹介してもらうか、けれどあちらは美浦に近いし」

 鳴神厩舎がもっと強ければ、それこそ千草もプッシュしていけたのだが。

 だが競馬の世界というのは、道楽オーナーがいるものだ。

 新たな出会いに関しては、それこそ運がいる。

(普通はこんなに大変なんだ)

 大記録を作ってなお、優姫は乗鞍を確保するのに、まだまだ苦労していた。


 ※1 重すぎる

 馬の血統や特徴を表現する言葉。日本の場合は馬場が「軽い」のであまり肯定的には使われない。スピードに欠けているという意味も持っている。

 ただパワーやスタミナを備えていたり、欧州の馬場に合っているというニュアンスを含んでいたりもする。


 ※2 クラシックディスタンス

 2400メートルの芝の距離を指す。日本ダービーやエプソムのダービーの距離であり、凱旋門賞やジャパンカップの距離でもある。

 しかしアメリカでは通じない。2000mが一番重要な距離である。


 ※3 春天

 春の天皇賞の略称。3200mのレース。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ