第47話 暴虐の開放
12月の第3週に、朝日杯は行われる。
2歳GⅠは現在ではもう一つ、ホープフルSがGⅠとなったために、距離適性で選択肢が分かれる。
あるいはコース適性で分けてもいいだろう。
シュガーホワイトは性格の素直さや、体型から見てもステイヤー。
なのでクラシック参戦を前提に、中山にまで運んでホープフルステークスに勝利した。
対してヴァリアントロアはどうであろうか。
体型を見る限りにおいては、マイルからクラシックディスタンスぐらいが適性で、長距離も行けるのではないかと思われる。
だが肉体と精神が、そのまま適性が合っていない馬が、それなりにいるのは間違いないことであるのだ。
ここまで新馬から、2歳重賞を勝っているヴァリアントロア。
朝日杯への出走を決めている馬は、ほぼほぼ2勝以上であるか、重賞2着以上を経験している。
かつてはフルゲートになることが多かったが、それは2歳馬最強決定戦であったから。
ホープフルSとの棲み分けで、昨今はフルゲートにならないことが多い。
あるいは無理に2歳の重賞を勝たない、という陣営も多いのだ。
考えてみれば日本史上最強馬候補のディープインパクトも、2歳時にはデビュー戦を走っているのみである。
海外の競馬はだいたいが、早熟で3歳の結果を残す短距離馬が中心。
特にオーストラリアでは、その傾向が極めて強い。
そんな中で強くても、5歳まで走らせることが多い日本競馬は、かなり特殊なものである。
去勢した馬が普通に、7歳や8歳まで頂点に立ち続ける、オーストラリアや香港も特殊なのであろうが。
結局人間の都合次第。
走っている姿を長くたくさん見たいというのも、人間の都合。
馬柱が汚れるのを嫌って、さっさと引退させるのも人間の都合。
3歳ですぐに引退させる、海外のことを批判しても仕方がない。
だがそうやって種牡馬ビジネスだけをしていても、先細りになるのは決まっているが。
大衆化されている日本の競馬は、庶民に愛されてはいる。
しかしそれすらも馬の立場からすれば、幸福であるかどうかは分からない。
サラブレッドは既に、人間の協力なしでは、繁殖も行えない生物であるのは確かだが。
サラブレッドは極めて人工的な生物ではある。
だがその本能は、どんどんと一つのことに集約していった。
走る能力と、走ることが好きということ。
たまに好き勝手に走りたい、という本能が出てしまう、黄金血統の一族もいるが。
ジョッキーを荷物としか思っていない馬も、確かにいるのだ。
あちこちのレースで勝ち上がってきた、日本の優俊たち。
遅生まれで素質はありそうだが、晩成の馬などに関しては、このレースを避けることもある。
馬という生き物は繊細なので、一度負けたら負け癖がつく、という馬もいる。
もちろんほとんどの馬は、レースにおいて負けてしまう。
しかしちゃんと勝たせる経験を積ませれば、秋には一気に花開くことが多いのだ。
ヴァリアントロアはどうであろうか。
阪神の1400mの新馬戦、ものすごく強い勝ち方をした。
そして京都の1600mもかなり底が見えない勝ち方をしている。
調整ルームに入る前、優姫は千草と話し合っていた。
これに勝てば次は、距離を伸ばした重賞に挑戦すると。
クラシックにこだわるのは優姫である。
千草はなんなら、NHKマイルカップでもいいかな、と思っていたのだが。
ただ賞金に関しては、やはりクラシックの方が高い。
八大競走に加えてジャパンカップあたりは、特に権威が高いのだ。
もっとも種牡馬になった時には、マイルのGⅠを勝っていることが、アピールポイントになるかもしれないが。
最近は馬主も、2歳からどんどん走らせる、という人間が多くなってきた。
ゆっくりと一頭の馬を楽しむ、という道楽ではなくなってきたのだろう。
これを市場原理の浸透と考えるべきであるのか。
あるいは趣味の世界に無粋なものをと考えるのか。
本来の発祥からしたら、やはり貴族の道楽であるので、ゆったりと楽しむべきものなのであろう。
だが道楽というのは、本気でやってこそ面白いものだ。
優姫のリーディング順位は、現時点で3位まで上がっている。
栗東の松川と、美浦の五十嵐の次の順位である。
もっとも今年の松川は、ブラッドブレイカーと共に、世界を転戦している。
その中で全体の2位というリーディングであるのだから、やはり恐ろしい存在だ。
この朝日杯には、松川の乗る馬も出ている。
彼らのレベルになると、お手馬にクラシック候補が何頭もいるものだ。
対して優姫は、手持ちのカードが少ない中で、勝っていかなければいけない。
ヴァリアントロアは皐月賞までは、クラシック路線で行けると思うのだ。
ただその前にはどうしても、1800mか2000mを確かめておく必要があるだろう。
気性で走ると言っても、その気性にタイプが存在する。
もしも中山の2000mが限界としたら、そこからは路線変更した方がいい。
3歳で安田記念を目指すのだ。
さすがに皐月賞からNHKマイルCでは、疲労が大きいという判断がある。
安田記念ならば斤量の有利が圧倒的なので、3歳であっても勝てるかもしれない。
だがそういったことはまず、目の前のレースに勝ってからだ。
パドックを歩く姿も、やや入れ込んでいる気配がある。
GⅠレースとなって、注目度が高いのも確かなのだ。
(やる気にはなってるな)
待機線で他の馬も見ていると、いい馬ばかりが揃っている。
賞金が足りるから、という理由で出走しているような馬は、まずいないであろう。
事前のレース映像で、どういう馬かは分かっている。
(後ろから行くと、展開次第になるからなあ)
そこは優姫も心配しているところなのだ。
パドックから騎乗して、ターフに向かっていく。
返し馬に入るのだが、ふんすと鼻息が荒い。
「気合を入れるのはいいけれど、ゆっくりと行かないとだめだよ」
優姫は穏やかに語り掛ける。
鞍上がリラックスしていれば、馬にもそれが伝わるものだ。
ヴァリアントロアはあまり、そういうタイプでもないようだが。
結局はわがままなのであろうか。
気性難にもタイプがあるが、とりあえずベテラン厩務員の北川は、どうにかコミュニケーションが取れている。
昔から気性難を扱うには定評がある、などと言われていたものだ。
ちゃんとパドックを歩いていたあたり、気合は入っているのだ。
輪乗りになってからも、周囲にはガンを飛ばしている。
調教では何度も乗っているが、レースはまだ3走目。
どういう馬であるのかは、まだ優姫には分かっていない。
ここまで無敗の馬が、他に3頭もいる。
だからといって強いかどうかは、また別の話。
フルゲートではないので、条件戦を2勝していれば、普通に出走できるのだ。
そして後の名馬であっても、新馬戦はレースを失敗することは多い。
シュガーホワイトからして、そうだったではないか。
王道の強さというのは、やはり先行集団に入ること。
そして折り合いをつけて、最後にそっと差すのだ。
もちろん直線一気、というのはド派手な勝ち方ではある。
しかし最後の直線が長いと言っても、これまでのレースとは対戦相手のレベルが違う。
「最後の直線まで、ゆっくりと行くからね」
ヴァリアントロアの耳元で囁く優姫を、周囲は異様な目で見ていた。
また彼女は、魔法を使うのかと。
天海の重賞は見逃すな。
今やほぼ格言になりつつある。
調べてみたらほぼ同時に、何人かが気づいたのだ。
優姫は二年目になって重賞に、かなり乗れるようになった。
その中で競争中止になったダービー以外は、全て3着以内に入っているのである。
マイルCSでは10番人気さえ、3着にまで持ってきた。
ダービーの出走権が取れなかった青葉賞でも、モーダショーを3着に持って来ている。
正確には4着入線で、3着に繰り上げであるが。
ここまで2連勝しているヴァリアントロア。
血統的にはちょっと、古いものを感じるであろう。
種牡馬としては微妙だ、とも言える血統が入っている。
だがそもそもの血統を見るのならば、ヴァリアントロアはダート馬であるのだ。
実際に調教では、ダートでも走っていた。
本当の適性がなかなか分からない。
あるいは適性距離が広がっていった、というのはある。
マイルで無敵を誇っていたら、次は中距離に挑戦するのが当たり前。
競馬というのは2400mを走ってこそ、と考えるホースマンはまだ多いのだ。
だがアメリカを中心に考えたら、2000mまでで充分になってしまうが。
ヴァリアントロアの能力自体は、相当に抜けている。
だがその能力を、レースの中で発揮できるかどうか
気性のままにスプリント戦にでも出たら、今度はダッシュが足りない。
必ずカーブがあって、ある程度は息を入れるコースでないと、さすがにもたないと思うのだ。
(距離の壁か……)
基本的にサラブレッドは、全てスプリンターなどと言われたりもする。
それはさすがに言い過ぎであるが、走るために生まれてきたサラブレッドは、人間よりもはるかに速く、長く走ることが出来るのだ。
輪乗りからゲートに入っていく。
阪神の1600mは、基本的にあまり枠によって、極端な有利不利がないコースだ。
優姫が引いた枠は、4枠の8番。
ほぼ真ん中あたりであり、いい場所と言えるであろう。
(ゆっくりスタートするよ)
後ろから行っても、充分に届くであろう。
あとは包まれてしまわないか、それが心配だ。
ゲートが開いて、ヴァリアントロアはそっと出る。
スタートの遅れた馬が、他に内枠で1頭いた。
前にいる13頭は、上手く壁になってくれるかどうか。
向こう正面に入ったレースは、優姫は横目で状況を確認する。
やはりマイルであると、逃げる馬が強くなるのか。
短距離はテンからのスピードが重要になる。
なんなら心肺機能で、消耗戦に持ち込む。
それはアメリカの競馬に多いことで、タフなレースであることは間違いない。
本当に強い馬は逃げる、とも言われる。
だからアメリカのジョッキーは、とにかく最後まで追う腕力が必要、とも言われるのだ。
もちろんラップをしっかり、刻んでいくのも重要なのだが。
スタートしてからコーナーまでに、微妙なポジション争いがある。
馬主席から見えるのは、実際のコースと様々な角度からのカメラ映像。
「また後ろからかあ」
オーナー夫人の言葉に、千草としても安心はしていられない。
「かかっていないので、大丈夫だと思います」
前の2走と同じだが、他の馬を壁にして、物理的に前に出ないようにする。
もっともそうしても、突っ込んでしまうのがヴァリアントロアだが。
京都は下り坂から平坦なゴールとなるので、あのまま駆け抜けることが出来た。
しかし阪神のゴールは、坂の先にある。
普通に走るのと、坂を走るのでは、負荷が全く違う。
最後まで脚が止まらず、ゴールすることが出来るのか。
(けれど本当に、気性難の馬に縁がある子だなあ)
女以外には触らせない、とにかく本気で走りたくない、単純に狂暴、ステイゴールド系は本当に、気性難の見世物市である。
ステイヤー体型なのに、走らせるとスプリンターな感じもする。
スタートにしても優姫がわざと遅くしなければ、自分でさっさとダッシュをつけてしまうだろう。
(秋にはマイルCSを使った方がいいのかな)
なんだかんだ言いながら、日本人は2400を走れる馬が好きなのだ。
ただしハイセイコーは除く。
そのハイセイコーにしても、有馬記念では充分に好走しているのだ。
ヴァリアントロアはコーナーに入ったあたりから、後方集団の中に入っていく。
だがややその位置取りは、外に膨らんでいるであろうか。
(80mほどの間に、2m弱の急勾配。これを勝てないなら皐月賞の中山は勝てない)
千草としてもNHKマイルCよりは、皐月賞に勝ってくれる方がいい。
なにしろ賞金の額が、一億円も違う。
勝った時に厩舎に入ってくる金も、その10%なので大きく違うのだ。
馬に関わって生きていく。
定年までやったとして、もしも優姫が望むなら、厩舎を譲ってもいいと思ったほどだ。
ただ優姫の将来の目的は、生産に関わることであるという。
(一度馬を知ってしまうと、もうその世界から去ることは出来ない)
千草も牧場から厩舎にやってきて、そのあたりを理解している。
(あの子はどうするんだろう)
優姫自身が今の、日本の競馬を動かす人間となっている。
一年目と二年目の勢いを、三年目にまで持っていけるのか。
最後の直線、坂の終わったところで、ヴァリアントロアは先頭に立った。
パワーもあるこの馬は、坂をしっかりと上り切ったのである。
だが真の意味でのスタミナは、あまり備わっていないと言えるのか。
わずかな差を付けていた二番手以降が、またも抜かそうとしてくる。
(ここからは、力こそパワー!)
体全部を使って、ヴァリアントロアを追っていく。
首を強引に動かすことで、まだ脚を動かすのだ。
やや外寄りでありながらも、大外ではなかったことが幸いした。
後方から抜き返そうとする馬に、ヴァリアントロアは闘争心を発揮する。
サラブレッドの本能が、他の馬に勝つことだとするならば、ヴァリアントロアはモーダショーはもちろん、シュガーホワイトよりもさらに、サラブレッド的な存在なのかもしれない。
優姫はムチを一発叩いたが、あとは手綱を大きく動かす。
これによって平坦な直線の残りを、二の脚を使って差し返していく。
古馬と併走させると、一度は抜いていくのがヴァリアントロア。
その場合はもう一度抜き返しても、平然としているのだ。
しかしこのレースにおいては、まるでゴールがまだ先だと分かっているようであった。
抜いて抜き返すという、デッドヒートが行われる。
(このスプラッシュヒット産駒!)
中距離までのスプラッシュヒット産駒は、本当に強い馬が多い。
モーダショーは本当に、例外中の例外のステイヤーだ。
もっとも体型的にはモーダショーも、短い距離向けに見えるのだが。
ゴール板を通過したのはハナ差。
どちらが勝ったのかも、優姫には分からない。
だがゴール板を通過してしばらくして、ヴァリアントロアは息切れしてずるずると速度を落としていった。
(どっちだろ……)
関東からの遠征馬は、ウイニングランに入ることはない。
どちらが勝ったのかは、向こうも分かっていないようであった。
現在の賞金はまだ、皐月賞とNHKマイルCの間にそこまでの差はない。
だがこの数年を見ると、それぐらいの賞金の差が出てもおかしくはないだろう。




