第40話 無事是名馬
池元康彦は名伯楽とも言われた調教師である。
年間最多勝利、年度代表馬の輩出、旧体制下での騎手の育成(※1)、八大競走(※2)だけに限っても12勝という実績を残し、GⅠを含めれば20勝している。
元騎手から調教師になったという、かつて当たり前であった時代の人間。
ただ馬産地に生まれて、ずっと馬と共にいたという点では、古き良き時代を知っている人間とも言える。
定年後にはクラブ馬主法人の顧問などにもなっていたが、エージェントなどをするようなタイプではない。
昔気質の馬好きとしか言えない、そんな人間なのだ。
(どういうルートでエージェントに?)
そう千草が思ったとしてもおかしくない、大物と言うのもおかしな大物である。
「みやこSは試験やからな」
どうやらそう簡単な話でもないらしい。
対人関係は不器用だが、馬との関係は上手くいくのが優姫である。
みやこSは京都競馬場で行われる、ダートの1800mレース。
それだけを聞くとユニコーンSに似ているかもしれないが、こちらは出走条件が3歳以上のGⅢ競走となっている。
田丸厩舎はこれまで、優姫との接点はなかった。
だがこの年に優姫が、ダートの重賞を勝っているのは知っているし、また乗れる騎手だとは分かっている。
GⅠ1勝だけならば、まぐれや馬の力もあるだろう。
だが中でも選ばれた優駿が出走するクラシック。
それに一年の間に、違う馬で2勝というのは、めったにないことである。
シュガーホワイトは強かったし、ダービーもあのままなら勝っていた。
しかしモーダショーは、いいところのない敗北から、馬が変わったような勝利を遂げさせた。
菊花賞馬というのはかなり、出世が遅かった馬も多い。
その中でちゃんと青葉賞にも出走しているのだから、充分に力はあったのだろう。
夏の札幌から、京都での使い方というのは、ちょっと今の競馬ではないものだ。
だがそこから結果を出したのだから、ジョッキーの腕に間違いはない。
育成牧場でも、馬にやる気がない、とまで言われていたモーダショー。
それをその気にさせたのだから、これはもうジョッキーの技術と言うには、何か違うものがあるのではないか。
(おもろい馬になったもんや)
池元は馬産地のみならず、色々な育成牧場を巡っている。
そしておおよその馬の、強そうなところを見るわけだ。
その中でモーダショーは、特に悪いところは見えないが、スプリントやマイルに強いのでは、と思える体型であった。
これが体型ではなく心肺能力で菊花賞を勝つ、今の日本の競馬であるのだ。
田丸厩舎は栗東の中では、ダートに強い厩舎と言われている。
少し前まではダートとなると、芝の二線級というイメージがあったものだ。
それが完全になくなったのは、やはりダート馬が年度代表馬になった、歴史的な年からであろう。
今でも地方のダートから、世界へ挑戦していくという流れが出来ている。
また地方のダート三冠も、しっかりと機能するようになったのだ。
2歳から3歳の春にかけて、中央のダートのオープン戦も増えた。
昔のように芝が絶対、ダートは地方という考えが、かなりなくなってきている。
それでも国内のダートレースだけを考えるなら、もう地方に預けてしまった方がいい。
単純に預託料が、中央と地方では違うからだ。
地方の競馬場になど、中央にもいないような、職人的な厩務員がいたりする。
それこそ一人で装蹄までしてしまうような、獣医顔負けの処置をする調教師や厩務員がいるのだ。
何より定年がないところまである。
中央競馬で調教師を定年までやって、地方で厩務員をするという人間が、実はそれなりにいるのだ。
そんなわけでほいほいとやってきた優姫だが、ダートの馬はクジプラズマ。
冠名の付いている馬であるが、大馬主の持ち馬というわけではない。
だが重賞2着を拾って、立派にオープン入りしている。
その後もかなり好走するのだが、重賞での勝ち鞍はないのだ。
どこかで聞いたような話だが、一般的なオープン馬としては、ごく普通にあるものである。
競馬村という閉鎖社会において、目上の人間というのは、師匠筋(※3)であったりする。
もっとも最近は随分と、ドライな関係も多くなってきた。
だが結局は最後は、人間関係で選ばれるものなのだ。
その点では優姫は、かなり例外中の例外である。
「今日は馬なりで、回ってきてくれたらええから」
田丸はそう言ってきたが、微妙な表情をしているのはさすがに分かった。
優姫は人間の心が分からない、というわけではないのだ。
分かってもあまり気にしないだけなので、なんとも性質が悪い。
ダートコースを使った調教。
乗った感じは確かに、オープン馬の背中である。
だが少し走っただけで、問題点は分かった。
(足元が弱いのか……)
厩舎に向かう間に、ちゃんと競走成績は調べたのだ。
芝でデビューしてから、3戦目にダートに転向して初勝利。
そこからはダート一直線であるが、本来の血統的にはダートも走れそうな芝馬、というものであるはずなのだ。
池元は試験だと言っていた。
(つまりみやこSに勝つことが、条件?)
巨大な実績を残す元調教師がエージェント。
ちょっと聞いたことがないが、元騎手や元厩務員なら、普通にやっていることだ。
(でもこの馬だと……)
1着にまで持ってくるのは、難しいのではないか。
もちろん仕上げ次第で、不可能とまでは言わないが。
「どうや?」
担当厩務員に手綱を渡して、優姫は首を傾げる。
無表情と言われるのがあまりに多かったので、顔以外のところで伝えようという努力である。
「勝ち負けは苦しそう」
「まあそやな」
正直すぎる優姫の言葉にも、怒ったりはしない厩務員。
馬の首を撫でる手には、長く馬に接してきた、深い皺が刻まれている。
重賞を勝つのはGⅢでも難しい。
だがここまで勝ち上がって、しっかりと賞金は稼いできたのだ。
地方のレースへ出走させたことも、何度かあるという実績。
5歳になっても二ヶ月に一度以上は、レースに走らせるようにしている。
(もう20戦目か)
厩務員と話しながらも、馬の様子を確認する。
今回はダートでもかなり、苦しいのではないか。
勝ち鞍や好走は、マイルまでに絞られている。
GⅠクラスでも勝ち負け出来る、ライガースラッシュとは同じオープン馬でも、やはり地力が違うと思えた。
だがこういう馬もいないと、競馬というものは成立しない。
厩舎に戻ってきて、田丸の元に向かう。
「どうやった?」
「……勝ち負けは出来ないかと」
「まあ、そやろなあ」
それは田丸も分かっているのだ。
「馬主さんは月に一度ぐらい、この子のレースを見にくるんや。そんで惜しかったレースを見て、また次も楽しめるようにするんやで」
「……最初から負ける前提で、見せ場だけを作る?」
「その上で5着以内に入ったら、それはええやろうけどな」
なるほど、という納得の理由である。
サラブレッドは高い買い物だ。
だが購入した代金以上に、ランニングコストがかかっていく。
とりあえずレースに出ただけでも、出走手当は入ってくる。
重賞であればその金額も多くなるし、重賞の賞金があれば、馬主に預託料の、無茶な出費をさせずに済む。
ただ愛馬が重賞を勝つところを、見たいと思うのも自然なことだろう。
「無理をさせれば、勝てなくもない」
「無理をしてオープン馬壊したら、どうしようもないやろ」
この場合重要なのは、勝つことではない。
もちろんあっさり勝てるならばともかく、それよりは愛馬の走るところを見せるのが役割なのだ。
そういう馬もいる。
何も全ての馬が、馬券の対象になるような、大物ばかりではないのだ。
下級条件戦にはそれなりの、面白いギャンブルがある。
競馬というのは馬の変化に、鞍上の変化まで見ていく。
だから面白いのが、競馬であるのだ。
鳴神厩舎に戻ってみれば、もう池元は帰っていた。
どういうつもりであの馬を選んだのか、またどんな結果を求めているのか。
「大変だね」
「今はこちらが大変だけど」
ヴァリアントロアの調教には、神経を使わなければいけない。
気性難が出て当たり前、という血筋。
だが新馬戦でものすごく強い勝ち方をした。
あのキレのある脚が、果たしてどれだけ使えるのだろうか。
本来なら後方で脚をためて、一気に直線で解き放つ。
そういうレースをしたならば、間違いなく強いとは言えるのだろうが。
だが気性的に後方待機、というものが向いていない。
基本的には前に壁を作って、大外に持ち出して一気、というのが必勝パターンになるのだろうが。
直線で追いつけないアドバンテージを取られたり、多頭数で前を塞がれたら、どうにもならないかもしれない。
重賞もGⅠになってくると、かなりフルゲートが多くなってくる。
だが2歳の重賞であると、まだ埋まらないことがある。
それでも以前に比べると、頭数が集まらず条件も似たようなレースは、ダート重賞と入れ替わってきた。
2歳からもっとダートの重賞を、という声は前からあったのだ。
おそらくは12頭前後が出走してくる。
その数ならばまだ、京都の1600mならば、特に問題はないであろう。
「まだまだ成長してるし」
そして調教に乗る優姫。
相変わらず気性の悪いところは見せるが、走ること自体は嫌いではないのだ。
(時々ソラを使うところが)
追い出しのタイミングが悪ければ、後ろから来た馬に抜かれてしまうかもしれない。
調教が終わると、やはりクジプラズマのことを考える。
勝つべきか、勝たざるべきか、それが問題だ。
「素直に田丸先生に聞いてみたら?」
一緒に食卓を囲む千草とは、そんな会話をする。
「聞いていいのかな」
「あ~、まあ本音と建て前はあるからね」
そこが問題なのだ。
競馬というのは公正性を最大限に重視する。
だから八百長騒動に関しては、とても厳しい罰則が存在する。
全ての出走馬が、勝ちにいくというのが建前。
トライアル競争に限って言えば、着を拾いにいくのも許されるが。
そんな中で勝つつもりはない、とは言ってはいけないのだ。
実際はそうであったとしても。
八百長などではない。
だが優姫はコメントを求められると、オブラートに包むのが苦手ではあるのだ。
追い切りについてもあまり、速い時計をだすということはない。
そして重賞だけに、競馬新聞の記者などはやってくる。
「実力が上の馬はいるし、勝てるとは言わないけれど、競馬には絶対はないから」
このような発言はするのだが、これが馬主の耳に入ったりすると、機嫌を悪くしてしまう者もいる。
池元はおそらく、既に存在するラインか、あるいは新しいラインに、優姫を入れることを考えているのではないか。
だが今のところは自分の営業で、どうにか勝ってきている。
エージェントも重視しないような、そんな馬で未勝利や1勝クラスを勝っていくということ。
そして数少ない重賞では、好走がとんでもなく多いのが優姫である。
勝てる馬を確保しないと勝てない、というのはどんなジョッキーにも言えるはずのことである。
だが優姫は勝てそうにない馬を、ちょっと勝たせてしまう。
クラスが上がってしまうと、なかなか掲示板に乗るのも、今度は難しくなってしまう。
だがやはり口取りをしてこそ、競馬というものではないのか。
「ジョッキーは1着を狙ってしまうもんだがね」
田丸はそのように語る。
「経営という面を考えると、上手く着を拾っていくのが、厩舎としてもオーナーとしても、長く楽しめるものだと思うよ」
それは優姫にも分かる。
オーナーブリーダーなどは、そのあたりのことも色々と考える。
とりあえず1勝がほしいというのは、そちらでも同じであろうが。
母や兄弟が重賞馬であれば、繁殖牝馬の価値は一気に上がる。
そうでなくとも産駒の勝ち上がり数が高ければ、種牡馬を抱えている牧場としては、成功と言えるであろう。
種牡馬を抱えているとなると、巨大な牧場に限られているが。
いざ本番のみやこSである。
優姫はダートと芝であると、芝の方がやや成績はいい。
ならばいいではないかと思われるかもしれないのは、日本の競馬の大きい重賞は、芝が多いという視点からである。
ところが実際のところ、未勝利戦などに限ると、ダートの方がやや多いのだ。
特に関西では阪神競馬場はダートの方が多く、京都はほぼ一緒。
これは芝の養生のために、どうしてもダートのレースが必要になるからだ。
大レースをいい芝の状態でやるためにも、条件戦などはダートのレースを多くする。
言われてみればそうか、と納得するものである。
そしてダートのレースとなると、ジョッキーには物理的なパワーが必要になってくる。
馬を追うのに使う筋力が、全く違うものとなるのだ。
それこそ女性騎手の斤量のため、少し軽めの体重を維持している優姫。
この少し少ない筋肉が、ダートの戦績に反映されている。
だが下手なわけではない。
このレースもハナを切って、逃げる態勢に持ち込んだ。
3馬身ほどはずっと保って、最後の直線もしっかりと追う。
ゴールの手前でかわされたものの、それでも3着には残した。
馬は抜かれると一気に気を抜いてしまうことが多いため、この最後の抜かれてからを維持するのは、かなり大変なのである。
重賞の勝利がなければ、中央の重賞の斤量は変わらない。
ただダートのため地方に遠征することを考えると、いまだに収得賞金ベースのレースはあるし、クラスも上になっていく。
今の賞金体系であると、ダートで楽しむなら重賞1着は取らず、着を拾っていくのが基本。
ただ地方にも遠征することを考えると、場所によっては収得賞金ではなく、全体の賞金でクラス分けを行う。
するとやはり斤量は重くなるが、それをどう考えていくべきか。
「あと少し足りませんでした」
「いやいや、惜しいところまで持って来てくれたよ」
馬主は夫妻で見に来ていたが、残り50mまで先頭を走っていたため、かなり興奮したらしい。
心臓に悪いレースになってしまいそうだが。
これでも喜んでいるのだから、おそらくこれで正しかったのだろう。
池元の考えていた正解が、何であったのかは分からない。
しかし優姫は自ら納得して、この結果を選んだ。
「3着なら充分や」
田丸としても、心の底からそう言ってくれる。
ダートのレースはやはり、パワーが必要になる。
そう思う優姫としては、女性騎手の斤量特典が、やはり邪魔になってくるのだ。
(昔のままの方が良かったのに)
ただでさえ女性騎手は、パワーで男性に劣る。
だが日本の芝であれば、充分に男にも対抗できると、考えている優姫。
重賞の掲示板以内記録は、シュガーホワイトの競走中止からこちら、またずっと続けているのであった。
※1 騎手の育成
昔は競馬学校を卒業すれば、必ず厩舎に所属してそこで下積みをした。
今は実情はどうであれ、制度的には全ての騎手はフリーである。
※2 八大競走(あるいは旧八大競走)
牡馬クラシック三冠、牝馬の桜花賞とオークス、天皇賞の春秋、有馬記念を特にこう呼ぶ。
格付けから言えば歴史は比較的浅いが、ジャパンカップは古馬ダービーとも言えるぐらいにレベルは高い。
※3 師匠筋
騎手として厩舎に所属したり、調教助手や厩務員として厩舎にいて、そこから調教師になった場合、所属していた厩舎の調教師が師匠筋ということになる。
負担斤量については現在のJRAでは、重賞勝ちの実績が+1kgや+2kgとなってくる。
しかし地方競馬では場所によって、これまでに稼いだ賞金、全てが負担斤量の違いになってくることも多い。




