第4話 芦毛の選択
あの日の中山競馬場の興奮は、年が明けてもまだ冷めることがない。
シュガーホワイトの白さが、一際輝いていたあの日。
美奈が千草厩舎の厩務員として、初めて担当したオープン馬(※1)。
正確には「担当馬」ではないかもしれない。
真にシュガーホワイトを理解しているのは、調教師の鳴神千草であり、そしてあの天才美少女騎手、天海優姫だったからだ。
……いや、美少女っていつから言われるようになった?
よく見れば確かに整っているのだが、それ以上に無機質さを感じさせるのが優姫であった。
美奈はシュガーホワイトの栄光の瞬間を、誰よりも近くで見ていた。
何かを叫んでいたはずだが、何を叫んでいたのかは忘れてしまった。
優姫がゴールした時、美奈は涙で視界が滲んでいた。
史上最年少でのJRA女性騎手によるGⅠ初制覇。あるいは唯一の、GⅠ初騎乗で初優勝。
報道陣のカメラの音の中で、優姫はどこか茫洋としていたと思う。
レース後シュガーホワイトは、そのまま栗東近辺の育成牧場へと放牧に出た。
春のクラシックに向けた英気を養うためだ。すると厩舎は一時的に静かになり、美奈もどこか気が抜けたような日々を送っていた。
思い出すのは、シュガーホワイトと出会った日。
だがあの時はまだ、その名前でも呼ばれていなかった。
それはある夏の日、北海道へ出張していた千草から、美奈を指名で連絡が入った。
『美奈、日高に来られる? ちょっと確認したいことがある』
電話口の千草の声は、いつも通り落ち着いていた。
それでも何かを感じるぐらいには、美奈は千草に慣れてきていたが。
「行けますけど、何かあったんですか?」
『詳しくは着いてから話すけど、うちに入厩するかもしれない馬に関わることだよ』
そう言われては当然、行かないわけにもいかない。
厩舎の作業については、他の厩務員に頼まなければいけない。
だがそれは普段の話で、今ならば優姫がいる。
間もなくまた競馬学校に戻るが、数日なら問題ない。
「じゃあお願いね」
言われた優姫は無言で、ただ頷く。この無口さにも慣れてきた。
翌朝、美奈は新千歳空港に降り立ち、レンタカーで日高へと向かったのだった。
千草に指定されたのは、日高地方にある育成牧場だった。
調教師は夏場など、管理馬を北海道の競馬場で使うため、ついでに牧場を回っていくことがある。
そして見初めた馬がいれば、それを馬主に紹介して買ってもらう。
手付金としていくらか、先に置いて行ったりもする。
だが買ってくれる馬主を探すのも、大変なことではあるのだ。
美奈が訪れた時、千草は牧場主と話し込んでいた。
一頭の仔馬に視線をやっていて、そこで美奈に気づいた。
「美奈、あの仔を見て。どう思う?」
千草が示した放牧場にいたのは、一際目を引く芦毛馬だった。
まだ幼いのに既に、白銀の光を纏っているかのように見えた。
本当に走る馬など、美奈は分からない。
だが何かを感じさせるものはあったのだ。
「……綺麗ですね」
そんなつまらないことを言ってしまった。
父は内国産馬ホワイトウイング。母馬はアメリカからの輸入馬。
聞けば動きからも素質は申し分ない。体幹が素晴らしく、バネもある。
順調にいけば、クラシックを目指せる逸材。
なおこの時期にクラシックを目指す逸材と言われる馬は、100頭ではきかない。
ただそのまま入厩させる、というわけにはいかない。
「だけどこの仔、問題がある」
美奈は首を傾げた。その仔馬は、他の仔馬たちから少し離れたところで、静かに草を食んでいる。
落ち着いた様子で、むしろ大人しく見える。
ならば気性ではなく、馬体の問題なのか。
「この仔、生まれつき女性ばかりに囲まれて育ってね」
説明する千草は少し呆れたような声をしていた。
「牧場主の娘さん、そして女性スタッフが担当した。そのせいか……男性に対して、とにかく当たりが強い」
生まれた時に虚弱で、これはダメかと見放されかけたからだという。
今も馴致において、女性厩務員しか触らせない。
牧場長が苦笑いを浮かべながら、話を続けた。
「男性スタッフには一切近づけさせない。噛みついて振り回すし、この評判が広まっちゃって、セリでもなかなか買い手がね」
ああ、と美奈は納得する。
つまりこの馬は女性に対しては友好的で、男性に対しては敵対的。
女好きというのとは、また違うものであろうが。
人の好みの激しい馬は、確かによくいるものだ。
人間の女が好きというのは、ちょっと珍しいとも思うが。
ここまで言われれば美奈にも分かる。
調教師はほぼ男性であるし、厩務員も大半がそうだ。ジョッキーにしてもそうなので、このままではレースにも出られない。
「だからうちの厩舎に?」
「ええ」
そこで案内の従業員が口を挟んだ。
「素質は良さそうだったんでね。そんな時にほら、育成牧場に実習に来てる、騎手過程の女の子が来てさ」
美奈はすぐに、それが優姫だと察した。
二月には騎手過程の生徒は、日高の育成牧場で短期間の実習を行った。
そこで目を付けたなら、優姫は相馬眼にも優れているのか。
「あの子がこの芦毛の話を、私に連絡をしてきたのよ。タイミングよく」
この時期の競馬は地方開催が多い。
そこで千草は足を伸ばして、この仔を見に来たというわけか。
優姫が厩舎に来るなら、女性ジョッキーも用意される。
「あとはわたしが、あの仔に気に入られるか、ですね」
「……頑張って」
どこか不安そうな千草だったが、それは幸い杞憂に終わる。
この時点ではシロと呼ばれていたシュガーホワイトは、頭のいい人懐こい馬であった。
もっともそれは女性に対してだけで、男性に対しては牙をむく。
馬に牙はないだろうから、それぐらいの勢いの比喩なのだろう。
美奈の被っていた帽子を取って、放牧地の向こうに駆けていく。
「あ~、待って~」
その様子を見て、またほんの少し不安になる千草であったが。
シロの感触としては、それで良かったらしい。
頭が良くて人懐こくて、そしてそれ以上にいたずら好き。
帽子に興味を持つ馬は、古今東西それなりにいる。
美奈を接近させては、そこからまた駆けていく。
「……お疲れ様」
この先のことも考えて、千草は小さく呟いていた。
調教師の仕事というのは、馬を鍛えることだけではない。
むしろ今の時代は、管理面が主なものとなっている。
現実として千草の場合、調教技術は一般的なレベルでしかない。
それにも増して必要なのが、営業活動である。
調教師というのは、厩舎という中小企業の社長のようなもの。
この社会では伝手やコネが、重要なものとなってくる。
担当厩務員を決めた千草は、次に何をするべきか。
それは馬主を探すことだ。
厩舎に馬はいるが、それは調教師の所有物ではない。
あくまでも馬のオーナーがいて、それを預かっているというもの。
千草はそれなりに、オーナーとのつながり自体はある。
だがそれと、馬を預けてくれるかどうかは、また別の問題だ。
競走馬というのは高い。
値段も高いが、ランニングコストがかかるのだ。
一頭の馬をJRAの厩舎に預けるなら、年間に1000万は見ておくべきである。
馬主の資格には、年間2000万円の収入と、資産一億円が必要という規定がある。
これをクリアして、しかも千草に預けるような、モノ好きは少ない。
だが今回は、それについては心配していなかった。
氷川白雪。
日本のポップミュージックでは著名な、シンガーソングライターであり、バンドリーダーでもある。
馬主資格を持ち、年に一頭は買うことが多い彼女。
だがその嗜好はかなり偏っていた。
「セツさん、好きでしょう?」
「いいね」
あっさりと頷いてくれた。
白雪は自身のイメージカラーが白。
そのためもあってか、白い芦毛の馬を好んで買っている。
シロはこの時点で既に、体毛が白毛に近い。
芦毛の中でもかなり、珍しい部類に入るだろう。
「やっぱり白いのはいいよね」
「綺麗ですね」
正直なところ千草はそこまで、芦毛が好きというわけではないのだが。
「で、走りそうなの?」
「かなり期待できます」
ここで走らない、などという調教師はいない。
千草は走りそうにない馬は、それなりに見抜ける。体の構造が向いていない馬はいるからだ。
だが走るかどうかは、本当に走らせてみないと分からない。
現在でも最強馬の一角と言われるシンザンなどは、調教では手を抜いて走っていたため、関係者を困らせていたという。
しかしシロに関しては、肉体的な問題はなさそうだ。
あとは血統を見て、ある程度は推測する。
ホワイトウイングはマイル(※2)からクラシックディスタンス(※3)まで、広い距離で勝った種牡馬だ。
既に中距離のGⅠ馬を出している。
5代血統を見れば、少し驚くかもしれない。
ステイゴールドのライン以外、サンデーサイレンスが入っていないのだ。
(次の世代を見据えた配合か)
特徴としてはもう一つ、ミスタープロスペクターも一本しか入っていない。
母がアメリカ産馬なのだが、ヨーロッパの血統とほどよく混じっている。
さすがにノーザンダンサーが、大量に入っているのは仕方がない。
それでも5代内ではインブリード(※4)がない。
牧場育ちの千草は、牡馬が生まれることを期待されているのを知っている。
だがこの血統であれば、繁殖牝馬として計算したのではないか。
(母もアメリカでステークス競争(※5)に出てる)
それなりの名牝と言ってもいいだろう。
おそらく芝の中長距離で強い、と言っていたのは優姫だ。
単に走るかどうか以上に、適性距離を判定するのは難しい。
(血統的にはどちらも行ける?)
日本ならば芝であるが、世界的にはダートの大レースが増えている。
ホワイトウイング産駒は、活躍馬はほとんどが芝だ。
ただ母の血を考えると、ダートでも走れるかもしれない。
芝とダートの名馬の血が、両方しっかり入っている。
馬体や血統から傾向はあっても、このあたりは本当に、走らせてみないと分からないのだ。
もしも種牡馬にでもなれば、かなり人気が出るだろうな、などと思った。
重賞を勝つよりもさらに、難関なのが種牡馬入りだ。
ただ母方に日本の血統が薄いので、繁殖牝馬に種付けがしやすい。
調教師ではなく牧場の娘としては、そんなことも思う。
(入ってほしいなあ)
そこは絶対に、期待しすぎてはいけないのだ。
シロには1200万円の値段が付いた。
父の種牡馬成績に、母方の血統も考えると、ダートでも走れそうな駿馬。
牧場から直接買う場合、値段はあってないようなもの。
一応は父の種付け料、兄や姉の競争成績を、参考にしている。
少し安くなったのは、女好きのヘキによる。
女性にしか懐かない。
無理に男性が馴致をしようとしても、オルフェったりゴルシったり(※6)するのだ。
「女の子を乗せるの?」
牧場事務所で千草は、白雪と話す。
「今度うちに女の子が入るんですよ」
「へえ……」
ここで白雪が意外そうな顔をしたのは、千草は女でありながら、別に女に甘くないと知っているからだ。
今は1歳のこの仔馬は、優姫がデビューする年度に、同じくデビューする。
よほど馴致や育成に問題がなければ、という前提はつくが。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「なら大丈夫だね」
これぐらいの軽口を叩く程度には、二人の関係性はいい。
白雪はオーナーであるが、それでも女性というだけで、対応が横柄な男性調教師はいたのだ。
探せばいくらでも、まともな男性調教師はいる。
だがもう面倒だから、と千草に任せてくれたのが、初期の厩舎経営においてはありがたかった。
「私もそろそろ、キタちゃんみたいに走ってくれるのが見たいからね」
それはちょっと贅沢すぎる話だろう。
その時はそう思った千草だった。
※1 オープン馬
オープン馬とは、JRAのクラス分けにおいて、最上位の「オープンクラス」に属する馬のことを指す。
平地競走では、主に「クラス(階級)」によって出走できるレースが分かれていて、その中で 最上位がオープンクラス。
実際にはオープン馬の中でもさらに、国内の中央ならどのレースにでも出られる、収得賞金などでの線引きがある。
※2 マイル
およそ1600mの距離である。この距離が得意な馬のことをマイラーといい、あのオグリキャップも本質はマイラーなどと言われていた。
※3 クラシックディスタンス
2400mであるが、実は微妙に足りなかったり長かったりするコースがヨーロッパにはある。
日本ダービーや凱旋門賞など、多くの歴史ある格の高いレースはこの距離が多い。
なお後にもう一度説明する。
※4 インブリード
近親交配のこと。競馬は特に牡馬は、優れた成績を残した馬しか種馬にならないため、多くは親戚であり先祖に何度も同じ馬が出てくる。一般的に4代内に同じ馬が出て来ればインブリードと言われる。血統表を見れば5×4などで何がインブリードしているのか分かる。
※5 ステークス競争
競走馬のオーナーが出走登録料を支払って参加するレースのことで、集めた登録料が賞金の一部として上位馬に分配される。
この形式のため自然と出走馬のレベルが高くなり、アメリカの競馬体系ではこのステークス競走が最も格の高いレースとして位置づけられており、その中でも特に重要なレースにはグレード(G1, G2, G3)が付けられる。
※6 オルフェったりゴルシったり
実在競走馬、オルフェーヴルとゴールドシップの逸話を参照せよ。




