第38話 坂の上の雲
『今年もクラシック最後の一冠菊花賞。果たしてこの王冠を手にするのは誰か。
皐月賞馬もダービー馬もいない、空白の玉座を狙う、18頭の優駿たち。
……全ての馬が入って……スタートしました!
特に遅れた馬はいません。スムーズなスタートです。
逃げる馬は、カルマインザダーク行きました。栗毛の馬体がポンと飛び出す。
続いてはおっと、クワノタイガー行きました。セントライト記念の勝ち馬、菊花賞でも前に出ます。この馬が一番人気。
そして三番手には、これは意外だ。ボーンクラッシャー、今日は前からの競馬です』
『前の二走は差して勝っていますね』
『中団は一塊になっています。このまま3コーナーに入っていくか。
位置取りにあまり動く馬はいません。
およそ馬なりで動いていきます』
中団やや前よりで、優姫は控えていた。
3000mという距離は長いが、スタミナならば問題ないだろう、と優姫は考えている。
このあたりはいいペースであるが、先頭はやや早いだろう。
それで押し切ってしまうスタミナがあるなら、それはもうどうしようもない。
(カルマは……勝負を賭けたかな)
だがクワノタイガーが、追いかけていった。
3000mを逃げ切るには、完全に一人旅でペースを作らないと無理である。
一番人気だけに、クワノタイガーは鈴をかけにいったということだろう。
今の優姫はこの位置でいい。
『さあ、一度目の正面スタンド前を通過します。どうですか、青島さん』
『カルマインザダークとクワノタイガーが牽制し合ってしまいましたね。双方とも逃げると言うには中途半端なペースです』
『すると今いいポジションにいるのは?』
『そうですね。これだけのレース間隔が空いていますが、鞍上松川が上手くペースを保っているボーンクラッシャーではないでしょうか』
『春は骨折で悔しい思いをしました、ボーンクラッシャー。長距離の松川は怖い!』
『菊花賞は連覇がかかっていますからね』
淀の申し子とまで言われる松川は、菊花賞を3勝、春の天皇賞を5勝している。
だが同じGⅠであっても、中距離戦やマイル戦においては、少し勝率が下がっている。
長距離は騎手で買え、と言われる所以であろうか。
しかし2000m以上に強いジョッキーなら、間違いなく超一流。
それにもう八大競走を制覇し、地方のJpnⅠまである程度は勝っているのだ。
確かなラップを刻んでいる。
それは間違いないので、前も後ろも意識せずにはいられない。
その中で優姫は、モーダショーの気配を探っている。
(ボーンクラッシャーか……)
いい馬だなと思う。
それこそモーダショーが意識するぐらいに。
三戦とも中団から、あっさりと差して勝っていた。
しかしこのレースでは、明らかに前めにつけている。
情報が少ないことを、あえて逆手に取っているのか。
もっとも人間の思惑通りに、馬は動いてくれない。
(モーちゃんはこのコーナー、少し膨らんじゃうからね)
1コーナーと2コーナーは、スタンドから見るほどにはきついコーナーではないが、それでもモーダショーは少し膨らむ。
そのためある程度は、ラチから外に位置取りが変わっていく。
これはむしろ馬群をさばけるので、計算してやっていることなのだ。
下手なことをすると、これが斜行で審議になる。
だが他の馬はスピードを緩め、あえてここでは息を入れている。
そのため斜めに走っても、後ろの馬の邪魔をすることは少ない。
優姫が考えるにモーダショーは、中山などでは勝ちにくい馬だ。
明らかにコーナリングが、下手な馬であるからだ。
集団は向こう正面に入っていく。
優姫が少しずつ順位を上げていくのは、はっきりと分かっていた。
先頭の二頭は変わらないまま、四番手に上がってきている。
(さすがに早すぎやろ!)
ロングスパートでいい脚を使うのが、モーダショーの特徴ではある。
三ツ木はそう考えるし、間違ってもいないはずだ。
しかし二度目の坂を上がっていくのに、かなりパワーとスタミナを使ってしまう。
(それでも行けるんか!?)
3コーナーに入っていく前に、位置取りの駆け引きが始まっている。
モーダショーはその駆け引きから、先に一歩抜け出した形だ。
四番手に上がってきた、というだけではない。
これで前のボーンクラッシャーと並んだのだ。
外に出そうという進路を、わずかながら塞ぐ。
鞍上の松川は動じない。
どのみち前の二頭を捉えるなら、さらにスピードを上げていく必要があるのだ。
最後に追い出すタイミングが大事だ。
優姫はしばらく、ボーンクラッシャーと併せていく。
関係者席では、生産者もしっかりと様子を見ている。
ある意味では馬主や調教師よりも、このレースに賭ける思いは強い。
「大丈夫か? 大丈夫か? 大丈夫か? 大丈夫か? 大丈夫か?」
モーダショーがクラシックを勝ってくれれば、母親の繁殖価値が上がる。
またその全姉として、繁殖として引き取った牝馬も、とんでもなく価値が上がるのだ。
GⅠ馬の全姉となると、そこから生まれる産駒は、ほぼGⅠ馬クラスの価値が付くかもしれない。
これは血統の逆転というものであり、競馬の歴史においてはよく起こるものだ。
競走馬としては30戦して、1勝も出来なかった。
だが逆に言えば地方も含めて、30戦して故障なしである。
潜在的な力に加え、種牡馬として何を付けるかで、その産駒の価値が決まる。
(あと10年は余裕で食べていける!)
馬産というのは本当に、一発逆転があるのだ。
そのギャンブル性が生産者を、このロマンあふれる世界に縛り付けているのかもしれない。
ジョッキーとしてもう、生涯の半分以上を過ごしてきた。
そんな松川としては、競馬の一割ぐらいは分かったかな、というつもりである。
海外の重賞もいくつも勝って、世界的な名声も手に入れた。
しかしそんな松川をして、よく分からない存在。
(馬に乗るために、生まれてきたような名前じゃないか)
天海優姫。
いったい彼女の眼には、何が見えているのか。
(モーダショーはおかしな馬だけど、能力は高かったみたいだな)
だが優姫が乗る前は、全く注目されていなかった。
一年目からGⅠに乗った程度なら、松川も乗っている。
だが初めて乗ったGⅠで、そのまま優勝してしまう。
確かに馬も強かったが、現在の競馬制度になってから、そんなジョッキーはいなかった。
しかも女だ。
(こうやって外を、上手く塞いでくるし)
二年目の若手が、やってくるようなことではない。
前の二頭を無理やり、抜かしていくことも出来なくはない。
それだけの力が、ボーンクラッシャーにはあると思っている。
(力はあるんだが……)
体がついていくか、という不安もあるのだ。
骨折して復帰して、いきなり菊花賞。
潜在能力がいくら高くても、それだけの経験では戦うのは、難しいのは確かである。
向こう正面の直線から、いよいよ坂に入る。
(このあたりで追い出してくるか?)
松川の読み通り、優姫の手綱が動いた。
坂の手前から、ぐんぐんと伸び、三番手に上がっていく。
(京都大賞典で使っておいて、ここで上がるのは早いだろう)
そうは思ったのだが、坂の頂点に至る前に、ボーンクラッシャーも追い出していく。
京都の外回りは最後の直線だけでは、前が残ってしまうことがあるのだ。
坂の頂点に向かって、一番勢いに乗っていく。
そこから見えるのは、ゴールやスタンド。
登り切ったところで、一息入れた。
あとはここからもう、ずっと駆けていくだけである。
坂を降る時には、ゆっくり降らなければいけない。
よく言われることであるが、実際のところそれは古い教訓であり、単なる心構えとも言われる。
この坂を上手く使って、スピードを最大限にまで上げる。
距離のロスよりも重要なのは、スピードをロスしないこと。
もちろん一番いいのは、どちらもロスをしない器用さを、持っている馬であろう。
坂でスピードの遠心力を使って、しっかり外に持ち出した。
そろそろ後ろも動いてくるが、4コーナーでモーダショーは、セーフティリードとも言える距離を取っている。
前の二頭はやはり、スタミナを既に使って脚がない。
(あとは後ろの……)
一度は抜いたボーンクラッシャー。
そしてもう一頭、神戸新聞杯からの二番人気。
(来た)
モーダショーをマークしている、と分かっていたメイコウマツカゼであった。
ゴール前でクビ差で差し切る。
またはハナ差だとほとんど運なので、何度かやれば勝つこともある。
それが競馬の定説であり、およそ3馬身も離せば圧倒的な差とも言われる。
ただそれだとシンザンの強さの説明がつかない。
あとはテイエムオペラオーの、クビ差圧勝という言葉もある。
大差で勝つというのは確かに、勝ち方としては派手である。
レーティングなども相手との着差で、今は決められている。
だが競馬の本質とは、ゴールの時点でハナ差で勝っていればいいというもの。
それが計算通りにいかないのならば、馬の全力を引き出すしかない。
最後の直線に入ったところで、モーダショーは先頭に立つ。
(少しだけ早かったか?)
ペース配分が果たして、これで良かったのか。
少しだけ計算と外れていたが、あとは馬が頑張ってくれるか。
それとボーンクラッシャーは、おそらく来ない。
馬の力を信じたかったのだろう。
本当の力は、確かにあるのだと思う。
(だけどやっぱり、経験と間隔が……)
直線の半ばまでは、どうにかついてきていた。
だがそこからはわずかずつ、離れていっている。
神戸新聞杯の勝者、メイコウマツカゼ。
先行勢の中から抜け出てくるという、一番安定した勝ち方をしていた。
この菊の3000mでも、ほぼその位置取りは変わらない。二番人気のこれが、最後には追いすがってくる。
(ボーンクラッシャーは古馬になってから)
来年は強くなるだろうが、まずはこのクラシックはいただく。
最後の最後は一人旅。
二馬身の差をわずかに、メイコウマツカゼが詰めてくる。
モーダショーの鼻息も荒く、しかし脚色は鈍らない。
(あと100……)
早仕掛けに見えたが、結果としてはこれは成功か。
『モーダショー! 粘っていく! ボーンクラッシャーはここまでか!
最後は内からメイコウマツカゼ! わずかながら迫っていくか!
1馬身! 残り1馬身! ゴールは目の前! モーダショー!
モーダショーだーーーーーーーー! 猛打爆発! 豪脚炸裂!
桜の終わりの戴冠に! 菊の季節にもう一輪!
天海優姫! クラシック二冠達成!
10代のクラシック二冠! あのダービーの悪夢から! 空白の日曜日から!
新たなる相棒と共に復活! 天海優姫今年二つ目の戴冠!』
後ろを見ればボーンクラッシャーは、3着にとどまっていた。
(スタミナも申し分ない……次は春天かな)
逃げたカルマインザダークと、クワノタイガーは共に後ろに飲み込まれていた。
3着までは上位人気であるが、4着と5着には下位の馬が突っ込んできている。
モーダショーもあと200mは距離延長が可能だろう。
むしろまだまだ走れる、というスタミナを感じさせた。
早く仕掛けたのに、ついてきた馬はほとんどが潰れた。
心肺能力でロングスパートを敢行し、見事に成功。
札幌でも分かっていたが、やはり長距離では強い。
ウイニングランを開始するが、明らかにちんたらと走っている。
「お前は本当に、手を抜くね」
だが今日はゴールまで、完全に本気を出していた。
(私が思ってたより強いのかな?)
それは珍しいパターンである。
おおよそ優姫の場合、気性難の素質馬を任されることが多いので。
正面スタンドに戻ってくる。
聞こえてくるのは拍手や声援であるが、やがてそれが一つに統一されていく。
「「「あ・ま・み!」」」「「「あ・ま・み!」」」「「「あ・ま・み!」」」
シュガーホワイトの時は、意外性が上回った。
またダービーでは、そんな事態ではなかった。
これは優姫とモーダショーが手に入れた、間違いのない1着である。
優姫はそれには応えない。
むしろ首を叩かれたモーダショーが、スタンドに向かって顔を向ける。
「勝つって楽しくない?」
耳元で囁く優姫に対して、モーダショーはくるくると耳を動かしたのであった。
儀礼的に手順が進んでいく。
後検量も終了し、オーナーや調教師、厩務員と合流。
三ツ木はうるうると瞳をにじませ、それは厩務員の小田川も同じこと。
オーナーはにこにことご機嫌で、闊達な様子を見せていた。
「や~、クラシックに勝ったのは初めてだ」
他の大レースを何度か勝っている時点で、充分に運はいいのだろうが。
優姫は笑みを見せることはないが、深々と頭を下げた。
「いい馬に乗せてもらいました」
「いやいや、君が乗るまで勝ってなかったんだから、君のおかげだろ」
「ジョッキーに出来るのは、馬の力を最大限に引き出すまでだから」
その上限が低ければ、何をしてもどうしようもないのだ。
重賞に関しては青葉賞に京都大賞典と、勝つことがわずかに出来なかった。
初めての優勝が、このGⅠのクラシックレース。
優姫にしても以前に比べると、かなり勝ちやすくなっていると思うモーダショーである。
「まだ強くなりますよ」
「嬉しいねえ。じゃあ有馬記念とか出ちゃうかな」
「有馬記念……」
モーダショーは急なコーナーが得意ではない。
なので枠にもよるだろうが、あまり有馬記念とは相性がよくないのだろうが。
「定年間近に、まさか菊を勝てるとはなあ」
三ツ木としては久しぶりのGⅠレースである。
「来年は春の盾(※)を取る」
その優姫の強気な発言に、関係者は笑みを浮かべた。
口取りから表彰式と、順調に進んでいく。
生産者もまた、大きな喜びの顔を見せていた。
「や~、これでこの子のお姉ちゃんも、いい子を出してくれるかな。現役時代はズブくて、1勝も出来なかったんだけどね」
それはひょっとしたら優姫が乗っていれば、素質を発揮していたのではないか。
もっとも地方競馬のジョッキーは、ズブい馬を動かすことに長けている。
そのため優姫でなくとも、そういうジョッキーはいたはずだ。
クラシック2勝を含む、重賞4勝。
今年の優姫の実績は、間違いなくトップジョッキーのものである。
今度こそエージェント選びを、しっかりすることとなるだろう。
もっともまだ、今年のシーズンは終わっていない。
(次はロアか)
オーナーは同じであるが、命名の仕方に統一感がない。
別に不思議に思わないのは、誰がそれを決めているのか、というところから発生する。
クラシックが終わった。
ここからの秋競馬は、有馬に向けてGⅠ戦線が加速する。
とりあえずまだ今年は、自分には関係ないな、と思っている優姫であった。
※ 春の盾
春の天皇賞のこと。優勝馬は皇室から最高位の賞品として優勝楯が下賜されるので 競馬界において「盾を獲る」という言葉は、そのまま「天皇賞を制する」という意味を持つ。




