第35話 風か光か、あるいは砂塵か
5歳の古馬を乗り替わりさせる。
これには微妙な意味がある。
美浦から栗東に持って来て、マイルCSを目指す。
正直なところ厳しいだろうな、と優姫は思っているのだ。
優姫は重賞で凡走したことがない。
それは確かに事実であるが、運が良かっただけだと自覚している。
また凡走すれば一気に評価が落ちる、ということも分かっていた。
(難しいな……)
マイルで結果を残した馬が、種牡馬入りしやすい時代ではある。
だがグンジョウホマレはキャリア初期こそマイルで走ったものの、クラシックシーズンはそちらをメインに走っている。
「生産者とオーナーと調教師の意図が見えない」
「そんなこと考えず、あんたはただ勝つことを考えていけばいいんだよ」
優姫の呟きに対して、千草は当然の言葉で応じる。
ジョッキーとしては一流であっても、大きな欠点と言おうか。
優姫はレース以外のことに、思考が囚われている。
「レースの映像は見たのかい?」
「マイラーではあると思うけど」
一応はGⅡレースに出たこともあるのだ。
だが今の日本の、二大マイルレースには、やはり出走することが出来ない。
あるいはなんらかの理由で、出走をやめる陣営が続出すれば、その時は繰り上がって出走できるが、その可能性は低い。
まずは乗ってみないと分からない。
惜しいレースがあるというのは、確かに分かるのだが。
だが外厩から直接こちらに来て、追い切りに乗れるのは一度ぐらい。
もちろん追い切りが一度とは決まっていない。
ゆっくりと流す程度であれば、二度三度と行うこともある。
強い追い切り一度で済ます、というのは特にオープン馬などであれば、あまりにも画一的な調教である。
色々と考えているうちに、馬運車で運ばれてきた馬。
美浦の厩舎の厩務員も、一人担当として付いてきている。
何度か関東の競馬には行ったが、やはり優姫のホームグラウンドは関西である。
考えてみれば大きなレースは、関東の方に多いのだ。
単純に牡馬クラシックでさえ、中山と府中で行われて、最後の菊だけが京都となっている。
西高東低の言葉がもうないと言われるのも、そのあたりが理由ではなかろうか。
特に長距離が比較的、疎まれる時代になってしまった。
春の天皇賞や菊花賞は、京都の名物長距離レースとも言える。
しかし海外に持っていくのが、挑戦とも言えなくなってきた現在。
特に中東と香港に関しては、上手くヨーロッパやアメリカの馬とも、遠征という同条件で戦うことが出来る。
大阪杯はGⅠの格付けになったものの、やはり海外のGⅠを勝つというのは、種牡馬入りにしても実績となる。
特にドバイの2400mは、日本馬の実績も多いのだ。
これが季節が重なってしまっている。
馬運車から出てきた馬は、確かに風格があった。
5歳というのはサラブレッドが、最も成熟する時期とも言えるだろう。
もちろんある程度の早熟性がないと、クラシックに間に合わない。
特にダービーに間に合わないのだ。
それでなくても昨今は、騙馬以外はすぐに、3歳で引退させてしまうのが欧米の風潮だ。
特に強い馬ほど、その傾向がある。
優姫は基本的に、全ての馬を愛している。
だが馬の幸せというものは、どういうものであろうか。
シュガーホワイトのように、まさに欠陥は一つだけで、あとは完璧とさえ言える馬もいる。
ズブくて勝てそうにない、と思われていたモーダショーも、今は菊花賞の有力候補だ。
ヴァリアントロアなどは、あの激しい気性は遠い、サンデーサイレンスへの先祖返りかと思われることもある。
だがそんな馬にばかり、優姫は乗っているわけではない。
種牡馬にしてやりたい、というのは分かる話だ。
ただ単純に種牡馬になっても、未来があるわけではない。
そもそも今の日本のみならず、世界の馬産においては、種牡馬を酷使しすぎる傾向があるのでは、と思う。
もちろん管理の技術が向上したため、より受胎しやすくなり、多くの種付けが出来るようになったのも確かだ。
しかしその分、血統の多様性は失われていっている。
重賞を勝っても種牡馬になれない、ということが珍しくはない。
日本の場合は特に、馬産が北海道に集中していることも問題だろう。
アメリカでミスタープロスペクターが成功したのは、当初は馬産地の中心から外れたところで、細々とした産駒の中から、GⅠ馬が出たからである。
ただ初期産駒からは、早熟な短距離馬が多かった。
今ではクラシックを狙える血統となっているが、逆に2歳の早い時期は、ストームキャット系が多くなっている。
現代の競馬において、基本的に種牡馬として成功するには、絶対的なスピードが必要とされる。
それこそミスタープロスペクターが、重賞で勝たなくても短距離で、レコードを出したように。
その中で晩成の馬が、それなりに種牡馬としても成功する土壌がある日本。
実は騙馬メインの香港などを除けば、世界の馬産の未来を担っていると言っても言い過ぎではない。
グンジョウホマレにはとりあえず乗ってみた。
強い調教が出来るのは、おそらく一度きりであろう。
一緒にやってきた厩務員は、複雑そうな顔で、優姫を見ている。
馬ばかり見ていて、その人間の視線に気づかないのが、優姫らしいところだ。
馬なりで軽く回ってみる。
ダートを使うほど足元は、弱くないのは分かっている。
(17戦か~)
良くも悪くも、既に落ち着いてしまっているのだ。
ここで勝てなければ、ダートで使うのか。
地方に移籍というのは、充分に考えられる話だ。
しかし安定して、年に5走は走っている。
上手く着を狙っていけば、もうしばらくは現役で走れるか。
そうやって長く走るというのも、悪いことではないはずだ。
下手に種牡馬を目指すよりも、乗馬に用途変更という道もある。
昔に比べれば競走馬が、最終的に食肉になるのは、かなり減ったものだ。
それに地方でも長く走れば、より落ち着いてくる。
乗馬にするにはそれからでも遅くはない。
以前に比べれば競走馬が寿命を全うできる割合は、かなり増えている。
だがそれと血統を残すというのは、また別の難しさがある。
「ダートを走らせても大丈夫?」
「ダートは使ったことがないが、レースの前にかい?」
「軽く回るぐらい」
「まあ、強く追わないのなら」
血統的にはダートを走ってもおかしくないのか。
(種牡馬は需要と供給)
血統が良ければ安くても、それなりに付けられることはあるのだ。
芝路線とダート路線。
日本ではいまだに、芝が王道という意識は強い。
実際に芝で結果を残してこそ、という形でシンジケートも組まれる。
ただ世界的に見れば、最高額のレースはダートが多くなっている。
中東の二大レースは、ダートがメイン。
またアメリカでは基本的に、ダートの格付けが上。
日本でもそれに対応するために、地方のダート三冠などが設立されている。
グンジョウホマレは芝のクラシックを走ってきた。
だが本来の適性はマイラーだと、クラシックが終わってから気づいていく。
そして今、ダートを走らせている。
(脚が上手く抜けている)
しかしダートとなると、スタミナがもつのかどうか。
優姫は小娘である。
だが同時に天才とも呼ばれている。
馬との折り合いをつけるという点で、特に優れているとも言われる。
帯同してきた厩務員は、ベテランではあるがなかなか、オープン馬ばかりを担当するというわけでもない。
本当ならこの最後のチャンスには、東西のトップジョッキーを乗せてほしかった。
優姫のリーディングはまさに、そのトップジョッキーではある。
しかし当たり前だが、大舞台の経験はまだまだ少ない。
ダートを回ってきて、馬から降りる。
どうしても彼女に尋ねたいことが出来た。
「ダートで走れそうなのか?」
「脚質は」
短く答えた優姫は、馬の首などを撫でている。
そして一人で考え込んでいってしまう。
確かに天才っぽい、何か危うさがある。
「どうして今まで、ダートは試してない?」
「そりゃあオーナーが芝を期待したし、実際にそれなりに走ってるからな」
血統的にもどちらかというと、芝で走っている産駒が多い。
ダートの方は、通用しなくもない、という程度のものだ。
ダートGⅠは地方競馬の方が多い。
国際的に見れば、日本独自のGⅠで、世界で認められているものは少ない。
しかし国内であれば間違いなく、GⅠとしての格もあれば賞金も高い。
日本のダート馬が、世界でも通用するようになった。
だからこそ整備されたダート路線である。
「スワンSは勝ち負け出来るけど、マイルCSではまず勝てない」
「……そうか」
確かに今のマイル路線は、古馬の二強と呼ばれる存在がいるのだ。
「多分本当の適したレースは、今の日本ならダートのマイル前後まで。坂のない地方のダート重賞を勝ってから、GⅠクラスに挑戦するのが一番いいと思う」
「最近はダートの種牡馬の需要もある、か……」
それは間違いないのだ。
グンジョウホマレは芝の重賞で好走するスピードを持っている。
しかしそれは5歳になって、マイルに絞ってからのものだ。
「むしろ最近は、生産者側からすれば、芝も走ったダート馬の需要が多いんですよ」
少し調教を見ていたが、こういう話ならば自分だろう。
そう思った千草が口を出した。
「鳴神先生、ですね」
「ええ。うちは実家が生産牧場なんですが、今は最強馬はむしろダートにいますからね」
最強かどうかはともかく、日本史上最高高額賞金獲得馬にして、ブリーダーズカップ・クラシックとサウジカップを勝ったフォーエバーヤングは、とんでもない種牡馬価値があった。
さらに純粋なダート馬として、史上初のJRA年度代表馬にまでなったのだ。
グンジョウホマレは最初からダート、という目的で生産された馬ではない。
だがステイゴールド系の中でもオルフェーヴル系は、ダートの強力な馬を輩出している。
ウシュバテソーロなどは、ダートを走るようになってから、世界最強クラスに登り詰めた。
「この馬はクラシックに出走するぐらいには早熟性があったし、古馬になってから重賞好走してるし、本当にダートで実績が作れれば、下手な芝のGⅠ1勝馬よりも需要はありますから、オーナーにも話してみればどうです?」
JRA所属のままでも、地方の競争に出走する枠はある。
特にダートで重賞を1勝でもすれば、それはほぼ確実だ。
芝で走る王道がいいのか。
それともとにかく、血を残してやりたいのか。
(芝で好走して、ダートで重賞を勝てるなら、むしろ安くて付けやすい馬になるんじゃないかな)
全ての生産者が、クラシックばかりを目指すわけではない。
今はちゃんと最初から、ダートの強者を目指している。
そうやって誕生したのが、ホッコータルマエやフォーエバーヤングであるのだ。
タルマエの方は父がキングカメハメハなので、本当に最初からダートを狙っていたわけではないだろうが、適性は最初からダートとして出た。
厩務員というのは、自分の担当馬を我が子のように可愛がる。
そうでなければ務まらないが、同時に割り切りも必要なのだ。
ただやはり、引退した馬のその後が、幸福であってほしいとは思う。
ベテラン厩務員の言うことであれば、調教師も無碍には出来ない。
その傾向も外厩の発達によって、変わってきているのだが。
馬はまず、強くなければ話にならない。
それは確かなことである。
一時期は日高の馬産が、本当に壊滅するのでは、と思われる時代もあった。
なんとか持ち直したと言えるのは、潰れるようなところは潰れて、残るところが残っただけ、とも言える。
経営努力や統合など、色々な時代があった。
だが日本に限って言うなら、五代の絶対的な台頭と、そこからの協力関係を上手く構築した、ということが言える。
ルージュ・バレーなども五代をライバルとは思っている。
だが明確な敵対関係ではない。
対戦する相手がいなければ、競馬は存在しなくなるのだ。
だからセレクトセールで高額馬を売る五代であっても、庭先取引が存在する。
またシュガーホワイトや、その父に祖父というような、血統の継続のロマンもあるのである。
とりあえず優姫は、スワンSに乗った。
結果は2着という、惜しいが価値はある2着である。
「マイルチャンピオンシップは無理か……」
オーナーはがっくりとしていた。
賞金的に見ても、出走取り消しがない限り、まだ苦しいところだろう。
1着であれば問題なく、優先出走権が取れたのだが。
優姫としては全力を尽くした。
だが全力を超える騎乗をした、とは言えない。
シュガーホワイトで戦ったクラシック。
あれは自分を削るものであったし、同時にシュガーホワイトの競走寿命も削った。
馬は勝たなければ生き残れないが、もう少しやりようがあったのではないか。
今ならば弥生賞にはやはり、出さない方が良かったか、という判断も出来るのである。
ここから果たして、どうやっていくのか。
ダートのレースを使うにしても、優姫が乗ることはない。
千草も説明した、ダートへの適性。
おそらく年内にあと一度ぐらい、どこかで試すのではなかろうか。
そこで結果が出るならば、6歳になってからダートというのは、決しておかしくはない選択だ。
馬主からしてみれば、南関に移籍、という選択肢がある。
預託料がそもそも、中央と地方では大きく違う。
中央のダートレースはおおよそ、地方馬も出走枠がある。
5歳の間にダートで勝つか、あるいは6歳になってからでも勝つか。
それが成功したら、地方に転厩させればいい。
南関東のダートレースは、どれもレベルが高いと共に、賞金も高いものであるのだから。
惜しい馬だったな、とは思う。
だが勝てなかったのだから、次がなくても仕方がない。
まずは目の前の、菊花賞に集中する。
モーダショーに残された、最後のクラシックの挑戦。
そこから先はヴァリアントロアの重賞挑戦も控えている。
ただ敗北した翌週に、優姫には連絡があった。
それはグンジョウホマレで、地方の重賞に乗らないか、というもの。
「予定を確認して、明日中には返事します」
「なんだって?」
「園田の兵庫ゴールドトロフィーに乗らないかって」
「……それはまた」
千草が絶句するのも無理はなかった。
グンジョウホマレで優姫は好走した。
しかしまだ確定ではないが、マイルCSには賞金が足らず、出られないのは仕方がないであろう。
そして厩務員にダート路線の話もしていた。
「マイル前後の重賞ならまだあるし、ダートでも関東の重賞はあるだろうに」
それこそ南関のダート重賞に、あの賞金なら間違いなく出られるであろう。
つまり園田を選択したというのは、優姫を指名したということだ。
乗り替わった一走目で、2着に持ってきたというのを評価したのか。
だがこれまでも重賞2着なら、何度か果たしている。
またこれが一番大事なことだが、優姫には地方での騎乗経験がない。
「園田……」
「そういった条件を全て考えた上で、あんたを指名したってことだね」
それはジョッキーとしては、ありがたい限りである。
何より地方競馬は、平日に開催されるので、JRAとの乗鞍がバッティングしない。
「テキ」
「行っといで」
ここは阿吽の呼吸の師弟であるのだった。
※重賞の格付けについて
日本は競馬のパート1国であり、つまり日本のグレード格付けは、基本的にそのまま海外の格付けである。
しかし地方競馬の場合、海外馬をわざわざ呼ぶことなど考えていないケースもあるため、独自のJpnというグレードで格付けされている。
ただ地方開催でも東京大賞典はGⅠ格付けを持っている。
大井のJBCクラシックなどはJpnⅠの格付けである。




