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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
序章 夢の跡、約束の場所

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3/12

第3話 夜の底の夜

 冬の栗東トレーニングセンターの早朝は、まだ色濃く夜の気配を持っている。

 霧に霞む馬房の並びから、ひづめの音と金属のぶつかるかすかな響きが漏れてくる。

 馬たちの朝は早い。

 それに付き合う人間たちも、同じように朝は早いのだ。

 調教師の鳴神千草なるかみちぐさは、湯気の立つコーヒーを口に運びながら、わずかな息吹に満ちた厩舎を眺めた。

(今年こそは……)

 ――この光景を、何度繰り返しただろう。

 コーヒーの香りは千草の心を、失われた過去に連れていく。




 生まれ育ったのは日高の片隅、それなりの繁殖牝馬を抱える規模の牧場。

 さっさと嫁に行けなどという、あまりに昭和気質な父に、優等生的な反発をした千草だった。

 獣医となって、家業を手伝うことにしたのだ。

 鼻面の匂い、朝露に濡れた鬣、荒い息づかい――その全てが、サラブレッドという存在の生きる実感そのもの。


 牧場を手伝いながら診療にも従事していたが、いつしか心に芽生えた「別の夢」があった。

 それを形にしたのは、ある青年との出会いだ。

 実家の牧場に流れ着いた彼は、元騎手の調教師志望。

 体重が増えて早期引退をせざるをえなくなった、という経歴の持ち主であった。

 朝露の中、彼が馬の脚を洗う姿を今でも覚えている。

 そして無骨な指先で優しく、馬の鼻面を撫でていた。


「俺、いつか自分の厩舎を持つ。馬が勝てる場所をつくりたい」

 馬に魅せられた人間は、どうして誰もが輝く瞳を持っているのだろう。

 無口な千草は、その夢を否定したりはしない。

 その時は自分が彼を支えるのだ、と心の中で思っていた。


 しかしある春の日、突然に希望は失われる。

 繁殖牝馬の輸送中の、突然の事故。彼がハンドルを切ったのは、馬を守るため。

 自分の命より重いと信じた馬を守って、彼は届かない場所へ去ってしまった。

 それが千草の進むべき道を、決定的に変えた。

 同じ夢を持っていれば、彼が消えることはないと信じて。




 牧場経験と獣医の資格を元に、調教師試験を合格。

 だがそれだけで、目標に到達したわけではない。

 男社会の競馬界で、女の調教師などというのは、周囲も戸惑っていた。

 一番大変だったのは、馬主とつながることであったが、わずかなコネの先をたどっていった。

 なんとか重賞を勝っても、男たちの集団の中で千草の言葉が届くには、まだ分厚いガラス一枚を隔てているようだった。


 大口の馬主というものには、なかなか出会えなかった。

 だが酔狂な馬主もいれば、同じ女ということで、千草に預けてくる馬主もいる。

 競馬社会というのはいまだ、男の世界なのは間違いないのだ。

 その中の一人が、氷川白雪。

 千草が子供の頃には、もう有名になっていた記憶があるミュージシャン。 

 何十年も容姿が変わっていないと言われる神秘的な存在は、馬主としても変わっていた。

 

 ――そして世界を変革する出会いがやってくる。


 競馬学校から、厩舎実習の依頼を頼まれた。

 騎手の育成過程では、途中で一年間厩舎に所属して、実際の調教や作業をしてみる期間がある。

 これを受け入れたらその後、競馬学校を卒業後には、担当した厩舎の所属(※)となる。

 つまり一人の人間を雇うようなもので、責任は重大。

 競馬は競馬村とも呼ばれる、地縁や血縁などでつながっている。

 千草も牧場生まれで、全く別の世界から飛び込んできたわけではない。

 だが優姫は、完全な一般家庭出身であった。


 そんな彼女が、どうして千草に託されたか。

(同じ女だから?)

 断ろうかと思ったが、一度見てから決めてほしいと言われた。

「見て損はないから」

 電話口の教官が、亡くなった彼の兄弟子であったことも、千草にとっては関係があった。

 白井の競馬学校。

 彼もまたここで、ジョッキーを目指したのだ。

「体操出身で、少し変わってるんや。けど、馬との距離感が特別やから」


 変わっている――その言葉に、千草は内心で苦笑した。

 変わり者の多い世界で「変わっている」と評されるのは、よほどのことだ。

「もうどれぐらい乗れるんですか?」

 内心では興味が湧いていた。

「……一言でいや、バケモンや」

 軽妙な関西弁の中に、どこか本当の畏怖を感じた。


 馬に特別な距離感を持つというのは、天賦の才か、危うさの表れか。

 牧場で生まれ育った千草は、そういうものをある程度は理解している。

 だが完全に理解など、出来はしないものだ。

 馬は人間ではなく、人間同士でさえ分かり合えない。

 人間の場合は人間同士だからこそ、分かり合えないのかもしれないが。


 騎乗している姿を、千草は見た。

 この時期はまだ模擬レースはやっておらず、騎乗技術を叩き込まれている段階のはず。

 しかし小さな体が、鞍上で全く動いていない、とはっきり分かる。

 あれは馬の上に、軽いぬいぐるみでも置いているのか、と思ったものだ。

「分かりました」

 女性騎手を抱えておくことは、それなりの恩恵もある。

 二年生の九月から一年間、優姫は鳴神厩舎で過ごすこととなったのである。




「本日からお世話になります。天海優姫です」

 どこか硬い表情ではあるが、そこまでの問題児とも思えない。

「改めて鳴神千草です。まあ、まずは馬たちに挨拶していこうか」

 馬を見るように千草は、優姫のことも観察していた。

 細い肩、それでいて筋肉の筋が見える。

 静かな瞳は馬に似ている。

 小さな体格に似合わない、強靭な筋肉。

 規定により少年のようなショートカットだが、実は顔の作りもいいと気づいたのはこの時だ。


 馬優先主義のため、その世話を止めさせるわけにもいかない。

 だから順番に、担当を持っている厩務員も紹介していった。

 鳴神厩舎は比較的、厩務員にも女性が多い。

 攻め馬をする調教助手にも、女性がいる。

「こっちは今秋出走予定の仔。あっちはまだ新馬。……そっち、気をつけてね」

 そして厩務員の日暮美奈ひぐれみなとも顔を合わせた。


 鳴神厩舎は今年も重賞を勝っている。

 栗東は美浦に比べると、試行錯誤を繰り返している傾向にある。

 厩舎における女性の進出も最近は、美浦と比べたらやや多い。

 それでも全体の5%弱であるが、競馬村の家系からは、調教助手や厩務員が輩出されている。


 騎手過程と言っても、厩舎作業は厩務員と同じ。

 実際に騎手過程の作業には、馬の世話も含まれている。

 とはいえ熟練の厩務員と比べれば、さすがに及ばないはず。

 なのに優姫の手際の良さは、まるで10年以上もやっているようなものだった。

「最近は騎手でもしっかりやるんですね」

「あの子の場合は、かなり特別でしょうしね」

 千草の言葉に、美奈は首を傾げる。

「競馬の家系生まれじゃないから、なんでも出来るように努力したんじゃない?」

「ああ……」

 納得した美奈も、父親が厩務員だったから、自分もやっているのだ。


 騎手は馬に乗ってこそ。

 だがその馬を用意するのは、オーナーや調教師だ。

 今ではかなり、オーナーの意向が強く出るようになっている。

 優姫にいくら才能があっても、競馬は騎手でどうこう出来る割合が、思われているよりもはるかに少ない。

 勝てない馬には誰が乗っても勝てない。

 騎手の役目は、どれだけ馬の邪魔をしないかだ、という人間さえいる。




 厩舎作業をする優姫は、馬たちとのコミュニケーションも取れている。

 やたらと髪をむしゃむしゃとされるので、いつも髪の毛が飛び跳ねてしまっていた。

 馬にとってはこれが、親愛の表現なのだ。

 かなりクセの強い馬さえも、優姫とは親交が成立する。

 ただ馬も嫉妬するため、常に仲良くというわけでもない。

 優姫は馬たちに、取り合いをされていた。


 調教に乗せてみても、注文にしっかりと応える。

 馬の曳き運動を、毎日ずっと続ける。

 サラブレッドの調教とは、走らせるばかりではない。

 曳き運動をすることで、じっくりと鍛えていく。

 そういった地味で、意外なほど辛いことを、優姫は無言で続けるのだ。


 千草は優姫の仕事ぶりを見て、少し話しかけたりもした。

「教官から聞いたけど、器械体操をやってたんだね。オリンピックも夢じゃなかったとか」

「話は盛られますから」

 この年頃の少女にしては、やはり飾り気がなさすぎる。

 もっともこの世界に入ってくる子は、そういうのが多いのだが。


 厩舎の従業員は、美奈ばかりではない。

 千草よりもずっと経験豊富な、厩務員もいるのだ。

「先生、あの子、馬と話してるみたいやな」

 それこそ千草よりも馬を可愛がる、ベテラン厩務員がそんなことを言ったのだ。

「話してる?」

「ええ。言葉を出してるわけやないけど、仕草が呼吸みたいで……」

 そういう姿は、確かに何度も見ている。


 確かに、馬が優姫に目を向けている。

 優姫が水をかけるタイミングと、馬が体を傾ける動きが完全に一致していた。

 ――意識を合わせてる? いや、馬に愛されている?

 千草は心の奥がざわめく。

 特別な人間なのか、という予感が期待に変わっていた。




 優姫が馬を駆る。

 注文通りのタイムで、主にダートを走らせる。

 千草が感じたのは、最後にメイチで追う時に、しっかりと腕力と体重移動を使っているということ。

 器械体操のバランス感覚で、あれが可能になっているのだろうか。


 風を切る。

 指定したラップ通りのはずなのに、馬は楽に走っているように見える。

 時折、鞍上には優姫の姿が見えないように思える時がある。

 空気のように軽くなって、馬を楽に走らせる。

 それがこんな錯覚になるのだろうか。


「馬の方が、楽しんでるみたいです」

 美奈の声に、千草は頷いた。

 馬は基本的に、走るために生きている。

 特にここの現役馬たちは、走らなければ生きていけない。

 

 実習中には、教官からの電話もあった。

『どうでしたか、鳴神先生』

「先生はやめてください。扱いにくい子だと聞いていましたが、むしろ馬の言葉がわかるタイプです」

 電話の向こうで、おそらく教官は微笑んだのだろう。

『天海は空気を使う、とか言ってましたが……』

 なるほど、理屈ではないのか。

「うちで預かって、問題はないんですね?」

『いいんですか』

 当たり前である。




 合図もないのに、走り出したように見えた。

 砂煙。風が舞う。

 だが、暴走ではなかった。

 優姫の上体がわずかに沈み、馬の動きと完全に一致している。

 千草は目を奪われた。

(……重心が、一つになってる?)

 馬と人が一体となる瞬間。

 スピードの中で、馬が微かに耳を動かし、優姫の声なき声に応える。


 やがて停止。

 馬は首を回して、優姫に甘えかかる。

 優姫もその鼻先に触れて、小さく笑みを浮かべた。

「お疲れ様」

 美奈が歩み寄り、手綱を受け取った。

「本当に、まだ二年も乗ってないなんて、信じられない」

 その美奈の感想に、なぜか優姫は困ったような空気があった。


 何かが根本的に違う。

 上手いとか下手ではなく、何かが異質なのだ。

(まるで乗るんじゃなく、話してるみたい)

 いや、それも違うのだろうか。

 千草は自分の中に、それを説明する言葉を持たない。


 夜中、事務所に戻った千草は、窓の外に目をやる。

 厩舎では美奈が、馬房の灯りを落としていた。

 夜風に混じってかすかに、馬の嘶きが聞こえる。

 千草は、そっと呟いた。

「あなたの夢、ようやく次の形になりそう」

 コーヒーの香りが、夜の冷気に溶けていった。

 その香りの向こうに、未来の蹄音が確かに聞こえた気がした。

 それは後に、シュガーホワイトという馬の名前でやってくるのだった。

 ※所属厩舎

 現在は制度上、競馬学校の騎手は全員フリーの形で卒業する。

 しかし現実としては、卒業後も調教師を決め、その厩舎を所属厩舎として活動拠点とするのが一般的になっている。

 厳密には騎手がデビュー後も調教師に弟子として身を置く制度はあるが、これはJRAの公式な所属ではない。

 ただしデビュー後数年間は、特定の厩舎を「身元引受調教師」として定め、その調教師の厩舎を拠点とし、優先的に騎乗依頼を受ける「技術指導騎手」として活動することが一般的である。

 色々な媒体の所属厩舎という書き方は、旧来のものから継続して使われている。

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