第28話 あかん子と区別
阿寒湖特別はごく普通の2勝クラスのレースである。
かつては900万円以下、あるいは1000万円以下と区分されていたレースであり、特別なものなどないように思われた。
実際のところ、これは2600mの距離を洋芝で行う、ほぼ坂のない珍しいレースである。
長距離適性とパワーの適性は分かるが、坂の適性まではどうであるか。
それはトレセン、あるいは外厩で鍛えてみて、判別するしかない。
(シュガーがいなくなって、看板馬がいなくなったな……)
千草は厩舎の経営者として、ため息をつきたくもなる。
もっとも他にオープン馬はいるのだが、本当に重賞で勝ち負けするのは難しい。
そんな中で優姫が乗る、三ツ木厩舎のモーダショーの様子を見たりしていた。
「なんつーズブい馬だ」
思わず声にしてしまうのは、優姫が乗ってあれ、というのはちょっと他に例を見ないからである。
それにあまり、コーナリングも上手くないように思える。
札幌競馬場はコーナーは緩いが、その分多い。
(シュガーが出ていたら何が相手でも勝てたな)
失われた優駿に対する感傷は、なるべくしないはずの千草であるが、それでも痛いシュガーホワイトであった。
かなりの時間、生活を共にしている千草と優姫。
そのため他厩舎の話も、二人は共有しているのだ。
モーダショーはシュガーホワイトがいないなら、おそらく菊花賞を勝てる。
ただし出走できるほどに仕上がれば、と優姫は言っていた。
(調教師よりよっぽど調教してるな)
確かに今は調教師は、調整程度にしか鍛えなくなってきているが。
それでも内容を決めて、外厩に依頼するのは、調教師である。
馬主が内容まで決めることもある今の時代で、千草も色々と考えているのだ。
3走目で勝ち上がり、連勝して重賞3着。
確かに秋の上りを、期待したくなる馬であろう。
(うちもいい馬を預かれるようにならないと)
白雪のような物好きが、偶然に名馬を手に入れる確率というのは、相当に低いものであるのだから。
モーダショーの調教を見ている、調教師の三ツ木。
菊花賞を取りに行く、と優姫は言っていた。
(クラシックかあ)
確かに菊花賞は比較すれば、クラシックの中でもあまり重視されていない時期があった。
だから三冠馬でも出ない限りは、手薄になっていることは確かなのだ。
しかしさらに近年では、また違う見方もされている。
なぜなら菊花賞を勝った馬が、種牡馬として成功している例が多いからだ。
スタミナの削り合い、という要素が大きかったかつてのクラシック。
だが今は心肺機能を試す場所、と言われている。
その点では確かに、モーダショーは優れた心肺機能を持っている。
調教でかなり追っても、けろりとしているのだから。
だが肝心のその調教で、速い脚を使えていない。
優姫が必死で追って、それでどうにか2勝できた。
青葉賞の上位にまで入って、充分にオーナーへの義理は果たせたと思っている。
(本当にいい馬は、美浦に持っていってるはずやしなあ)
SSRCの重視するのは牧場のある美浦で、栗東は付き合い程度のはずなのだ。
次のレースは2600mのレースである。
かなり円形に近い、直線の短い札幌のコース。
(勝てたら確かに、菊花賞には持っていけそうやけど)
天才美少女騎手にお任せ、といったところであろうか。
優姫は調教以外でも、色々とやってくれている。
北海道に来ているので、自厩舎の馬が少ない、ということもあるのだろうが。
(勝てたらなあ)
調教が終わった後、クールダウンに数時間もかけて歩かせる。
厩務員がそれを終えた後、さらに優姫はモーダショーを歩かせるのだった。
千草の実家にやってきた場長は、幼駒の脚や歩き方を見て、首を傾げた。
「これはもう、今からだとしない方がいいだろう」
曲がった脚の矯正は、およそ生後3~4カ月後までに行う。
その後に続けることもあるが、この時点ならもうやらない方がいい、というのが判断であった。
既にコントロールする肉体が、その曲がった脚に適応している。
矯正しても逆に折れやすくなる、という理屈である。
優姫はそれ以上、何も言わなかった。
「いいのかい?」
「50年も装蹄をしていた人の判断なんだから、私より上」
「ふむ、けれど地方競馬ではいまだに、ああいう職人の調教師が残ってるらしいね」
「昭和の頃には牧場に、装蹄の名人がいてしゃ……五代の社長が頭を下げて診てもらった馬もいた。あの人はそういう技術の後継者」
「……よく知ってたね」
競馬村の育ちであれば、そういうことも知っているだろう。
事実千草も子供の頃に、そんな話は聞いていた。
だが外の人間である優姫が、そういうことを知っているとは。
「学校で聞いた話? それとも本とかで読んだ?」
「色々」
このあたり優姫を、秘密主義者だと思う千草である。
これまでは鳴神厩舎に預けても、他のフリーのジョッキーを指定してくるオーナーが多かった。
今年はもう完全に、優姫を新馬戦で指名してくるオーナーが多い。
去年も斤量特典があったので、それなりに乗せてくれる人間はいたのだが。
やはり一年目でGⅠ、二年目でクラシックというのはいい名刺になる。
あいつを女の領分に入れるのはおかしい、とも言われる。
優姫としては女でも、ある程度の勝利数になれば、斤量特典はなくしてもいいと思うのだ。
ただそれを言うと、他の女性ジョッキーは全員が反対するだろう。
女の敵は女である。
優姫としては普通に、斤量特典がなくなれば、筋肉を増やすだけである。
そんな優姫が乗る阿寒湖特別。
今年の札幌では、札幌記念の次、最終の第12レースで行われる。
(まだ重賞に乗せてやれないのがな……)
あくまでも2勝クラスのレースであるが、過去には曾祖父も勝っているレースだ。
「千草ちゃん、ちょっとオーナーに会わせるから、一緒に来なさいな」
そう三ツ木が声をかけてきた。
「以前にお会いしましたけど」
「今日は奥さんの方が来てるから」
「そうですか」
「私ももうすぐ定年だからね。馬の方を引き継ぐ手順を考えないと」
「三ツ木先生は確か、お弟子さんがいたのでは?」
「あっちに全部引き取ってもらうのは無理だから」
これはありがたい話であった。
やはり優姫のおかげと言えるだろうか。
彼女の世話を頼まれた時、普通に女子の斤量を活かす、というのは千草の考えにはあった。
だが2kgの優位があったとしても、優姫は勝ちすぎである。
その特典がない重賞で、手堅く掲示板にまで持ってくる。
ジョッキーは1着しか狙わない、などというのは嘘だ。
ロマンにあふれているのかもしれないが、現実的な話ではない。
それこそトライアルなどは、2着や3着でも問題ない場合がある。
普通の重賞でも下手に勝ってしまうと収得賞金が増え、重いハンデで乗らなければいけないレースもある。
確かに競馬は道楽であろう。
だが惜しいところまで見せるというのも、一つのサービスという考え方だ。
次が期待出来れば、また楽しみに待てる。
勝負師として1着を狙っていくことはある。
しかしどうしても能力が足りなければ、上手く展開を読んで、上位に来るのもジョッキーの腕であろう。
SSRCの代表は、おおよそ毎年10~20頭ほどの馬を買っている。
これだと常に30~50頭ほどは持っているのと同じだ。
実は馬主においても、ランクというものが存在する。
また生産牧場でも、五代レベルになるともう、JRAと牧場と言うよりは、JRAの協力企業という扱いになる。
SBCファームという、育成や療養牧場を関東に持つ。
さらに個人としても馬主であるならば、普通の馬主とはさらに違う、VIPとして扱われる。
実は白雪なども、特別扱いはされている。
いや、さらにされるようになった、と言うべきであろうか。
彼女は芸能人として、ミュージシャンとしての面があり、それがJRAにとっては大きな広告塔にもなっている。
だが去年までの彼女は、いわゆる零細馬主。
ただし業界人を連れてきてくれるため、新たな馬主の開拓者ということもあり、特別扱いを受けていた。
そして今の彼女は、クラシックを勝った馬の馬主である。
このあたりJRAは、レースの結果には絶対的に公正だが、馬主の扱いは完全に不平等である。
そんなところを用意されて一人で楽しんでも仕方がない、と白雪は言っていた。
特別扱いされることに慣れている人間は、特別扱いしてほしくないことがある。
結局彼女はダービーの時も、普通の馬主席にいた。
そして今回、SSRC代表夫人である彼女も、普通の馬主席にいる。
重賞やGⅠともなれば、話は変わってくるのかもしれないが。
「奥さん、モーダショーに乗るジョッキーの、所属厩舎の調教師です」
「初めまして」
代表も年齢の割に若く見えたが、彼女もまた若く見える。
「座って座って。ああ、こちらはモーダショーの生産者さん」
「よろしくお願いします」
あまりスーツなどは似合わない、馬産をやっている、という匂いがした。
不快な匂いではないのだ。
ほぼ家族経営の牧場から、重賞に出走する馬が出ることは珍しい。
それもあと一歩で、ダービーに出られたのだ。
「おじさんもまた預かってもらう先、考えないといけないんでしょ。遠慮なく話せばいいでしょ」
社長夫人と言う割には、随分と気安い。
だが馬主の経歴を頭の中でたどってみれば、そういうものかとも思う。
「所属ジョッキーに乗ってもらいたいからね。男の中でも頑張ってるのを見ると、昔の自分を見るようで」
「そう、なんですか?」
「けっこうニュースにもなってたんだけどね。大学野球で東大が、女子選手の活躍でリーグ戦を勝ったとか、覚えてない?」
「あ、ああ、あります。そういえば」
「名字が変わってるから気づかないかもね」
野球と競馬は日本の興業の中でも、最大のものであると言えよう。
千草の母校も甲子園に行って、決勝まで進んだこともある。
ジョッキーはまだ分かる。
あれは馬の力が七割から九割、とも言われるからだ。
しかし野球など、明らかに男女の運動能力に差がありすぎる。
テニスなどは世界ランキング一位の選手でも、女子は高校チャンピオンに負けるとも言われるのだ。
格闘技などより顕著で、体重が同じであってさえも、世界チャンピオンが中学生のチャンピオンに負けるとも言われる。
(よほど圧倒的に技術差があるのか)
そういえば弓道なども混合の試合があったかな、と思う千草。
(いや、馬術だけはオリンピックでも一緒か)
ちなみに野球は、プロも大学も女子を禁止する規定はない。普通に通用しないだけである。
最終レースの阿寒湖特別。
2勝クラスであり、札幌記念で負けた人間が、今度こそ取り返そうとしてくる。
3歳以上の古馬混合戦で、3歳馬は3kg軽く乗ることが出来る。
この3歳夏という時点は、3歳馬と古馬の能力差が、かなり縮まってくる頃だ。
それだけに早熟か晩成かで、通用するかどうかがはっきりする。
優姫はのっそりとしたモーダショーを、輪乗りからゲートに入れていく。
(う~ん)
青葉賞からこちら、何度か調教はつけていた。
特に札幌に来てからは、毎週乗っていたのだが。
スタートはすんなりと出た。
だが最初から追っていかないと、ずるずると下がっていこうとする。
(けれど調教とは、明らかに手ごたえが違う)
扱いの難しい馬だな、と優姫は考えている。
中団後方からずっと、追いっぱなしで少しずつ前に進んでいく。
全くバテる様子は見せないのだが、キレが全くない。
ロングスパートをかけていって、徐々にカーブでも前に出ていく。
最後の直線にはいると、意外なほどに前に飛び出していた。
気を抜こうとするところを、また厳しく追っていく。
ムチも同時にしっかりと使うのだが、効果はわずかにしかない。
(だけどどうにか)
最後にクビ差だけ差して、3勝目を上げたモーダショーである。
驚くほどのズブさ。
だがなんとなく、性格は分かってきた気がする。
ゴール板を過ぎてからは、優姫もすぐに力を抜く。
するとあっという間にスピードが落ちて、1着入線に歩いていくのだ。
(これはひょっとして……)
瞬発的なスピードで勝負する、という馬でないのだけは確かであった。
見事に3勝目を上げて、おそらくこれで菊花賞にも出られる。
念には念を入れるなら、トライアルにも出走すべきだろうが。
「やあ、ようやってくれたな。これでまあ菊花賞行けるやろ」
「先生、この子夏の間に、もう一度走らせましょう」
昭和のようなことを言ってくる優姫に、唖然とする三ツ木である。
「いや、今はちょっとそういう時代ちゃうやろ。ちゃんと育成で乗り込めばええ話やで」
「この子、調教じゃ仕上がりきらない」
「シンザンじゃないんやから……」
優姫としてはまさに、そういうイメージがある。
三ツ木が迎えに来るまでに、既に息が整っていた。
これは明らかに心肺機能が優れていて、長距離で強いということだ。
だがもっと絞らないと、加速も最高速も上がらない。
「八月にもう一回、加えてトライアルを使って、菊花賞に行きましょう」
「いや、それはせやから昭和の競馬やろ……」
三ツ木でさえも遠く感じる、まさに昭和の話である。
今は余裕残しということが少なく、ちゃんとレースに仕上げてトライアルを使わない、ということも多いのだ。
秋の古馬三冠などと言われるレースも、全てに出走する馬は減っている。
「でもこの子、明らかに調教だと本気で走ってない」
「まあ、確かに疲れてへんような感じはするけどなあ」
遠いご先祖にシンザンがいるのは本当なのだ。
脚が太いし、短足だし、胴が短いというスプリント体型。
だがこうやって2600mを勝ってしまった。
「最初から最後まで追い通しは、さすがに菊の3000では無理……」
優姫が音を上げるのは、とても珍しいことである。
「いいんじゃない? 故障さえしなければ」
「奥さん……。まあ、確かに故障しそうには見えんけど……」
八月中にもう一度走り、さらにトライアルで絞る。
現代競馬からすれば、鬼畜のようなローテーション。
だが一律で全ての馬を管理すればいい、というものでもないのだ。
特にモーダショーは栗東の厩舎に預けられているため、SBCファームの育成をあまり経験していない。
面白い子だな、と思われている優姫。
それに対して鷹揚だな、と優姫も思っていた。
ともあれモーダショーは、まだまだ走らせることになっているらしい。
「あ、どうせなら一日、時間を取ってくれない? このままじゃ騙馬(※)にするしかない子がいるんだけど、乗りこなせるなら乗りこなしてほしいし」
これはまた、難儀なことではないか。
現代の日本においては、相当に調教技術が進んでいる。
それでも騙馬にするという話が出るなら、それは相当の気性難であるはずなのだ。
※騙馬
牡馬を去勢した馬のこと。気性の荒さが改善される以外に、体質が安定することもある。
ただクラシックには出られない。あれは次代の血統の選考レースでもあるから。
クラシック以外でも出られないレースはある。




