第23話 名もなき川の向こう
なんという賢く、そして強い馬だろうか。
普通の馬は故障をしてしまえば、暴れてさらに故障個所を負傷する。
それが痛みに対する普通の反応だが、この芦毛は騎手になだめられ、診療室へと移動した。
(開放骨折ではないが……)
レントゲンを撮るまでは、なんとも言えない。
「シュガー、大丈夫だよ、我慢して偉いね」
厩務員のかける声に、馬は鼻息荒く応える。
(助けてやりたい)
わずか数分の空白。
「これは……難しいかもしれないが……」
「どうなの?」
「オーナー、これは管骨縦骨折です。大きく縦に割れていますが、このレントゲンを見る限りでは、手術が可能です」
獣医師免許を持つ調教師が、先に説明してしまった。
絶望的なものではない。
開放骨折や粉砕骨折ならば、まず絶望と言える。
手術自体ならば、おそらく成功するだろうとも言える。
だがその先があるのだ。
「氷川さん、SBCファームの方がいらしていますが、どうしますか?」
外から職員が問いかける。
「SBCファーム?」
「あ、私が」
白雪も名前は知っているが、そこまで深い交流はない。だがこの間、優姫は案内されたのだ。
「最先端の手術設備が揃っている牧場」
「呼んでください」
優姫の言葉に即決する白雪である。
入ってきたのは、あの優姫を案内した男であった。
目礼をしてすぐに、レントゲン写真の確認をする。
「手術は可能ですね。その後がどうなるかは分かりませんが」
「そちらで可能だと?」
「ええ、そのために専門の馬運車も持って来ています」
「行きましょう」
そこからはスムーズに話が通った。
だが優姫と千草は、レースや状況の報告義務があるため、採決室に呼ばれることになったのだった。
あの瞬間、優姫は叫んでいた。
「止まるぞ」と大声で。
普段から口数が少なく、大声で話すこともまずない。
そんな優姫が叫んで、後続の馬はシュガーホワイトを抜いていった。
他の騎手からの聞き取りも済み、特に問題はなし。
優姫はそこから調整ルームで着替えて、すぐにSBCファームへ向かった。
一歩先に来ていた千草は、手術室の前に。
そこには美奈や白雪の他にも、生産者の家族などが揃っていた。
重たい沈黙の時間。
長くて短いその時間は、おおよそ三時間ほどであったろう。
「手術自体は成功です。あとはここから、彼がどれぐらい耐えられるか、の問題になっていきます」
わずかに安堵するが、それはまだ早い。
あのテンポイントも、手術自体は成功、と言われたのだから。
まずは最初の覚醒時。
痛みで暴れてしまって、脚を折る馬がいる。
「水槽とスリングで、脚に負荷をかけないようになっています」
果たしてそれが、必要であったのかどうか。
目覚めた時のシュガーホワイトは、濡れた瞳で周囲の人々を見ていた。
生産者の家族が、さすがにずっとはいられないと北海道に帰る。
月曜日は全休日のトレセンだが、一度は千草も帰らないといけない。
「美奈はしばらくここにいてくれ。まず最初の一ヶ月が一つ目のヤマだ」
手術が成功しても、まだ安心は出来ない。
骨折の痛みは間違いなく、馬を苦しめていくからだ。
「優姫は……」
「シュガーが起きたから、一度帰る」
ダービーが終わっても、世界は終わらない。
馬屋は馬を育てなければいけないし、ジョッキーは馬に乗らなければいけない。
「すぐにまた来るから」
シュガーホワイトが故障しても、また新しい馬が生まれてくる。
その背中に乗るために、また戻らなければいけないのだ。
牧場の治療厩舎を出て、千草は煙草を取り出した。
ずっと禁煙していた煙草に、久しぶりの火を付ける。
「……強かったな」
最後の直線で、さらに突き放そうとしていた。
「ここからは、また別の戦いだから」
「競走馬として、復帰は出来ないか」
「……一年ぐらいはかかるし、靭帯とかも損傷してるから」
「まあオーナー次第か」
白雪も手術が成功した後、東京に戻っていった。
シュガーホワイトは確かに、キレではなく長い脚、というタイプだった。
しかしあの最後の直線で、さらにスピードをアップしていったのだ。
坂でスピードが上がらなかったから、限界の見極めを違えた。
フォーリアナイトの末脚と根性を、置き去りにするほどのトップスピード。
あそこからまだ加速して、果たしてどんなレコードになったのか。
だが全ては幻に消えた。
「脚元の強い繁殖に付ければ、いい仔が出てくるかも」
「それはもう、私たちの仕事じゃないな」
いつかはと優姫が夢見る、生産の世界だ。
一つの夢が終わった。
ダービージョッキーの最年少記録が、破られることはなかった。
芦毛の三冠馬も誕生することはなく、騎手は最強の相棒を失った。
さらにここに外野の声が飛んでくる。
シュガーホワイトは使いすぎたのでは、というものだ。
8戦6勝。
比較的最近のクラシック二冠馬では、ドゥラメンテなどがいる。
ダービー制覇後に故障して、長い治療期間に入った馬だ。
あれはダービーを勝った時点で、6レースしか走っていなかった。
三冠馬コントレイルも、ダービーを勝った時点でまだ5レース。
それと比較してみれば、確かに走らせすぎた、などとも言えるのだろう。
シュガーホワイトは賢かったため、優姫が指示を出していたなら、弥生賞は必要なかったかもしれない。
ただ走ることを繰り返すことで、学習していったのも確かなのだ。
しかしそういった批判よりは、はるかに巨大であったのが、シュガーホワイトへの哀惜の感情。
事実上の二冠馬が、果たしてここから復帰できるのか。
それは無理であっても、種牡馬になれるぐらい、ちゃんと回復するのか。
世間の注目は、そちらの方に向かっている。
優姫も忘れるはずがない。
だが胸の内に秘めて、新たなレースに向かっていく。
「優姫ちゃん、また頼めるかな?」
そう言ってきたのは三ツ木で、依頼はモーダショーのものであった。
「出走権を取れなかったのに?」
青葉賞3着は、ダービーにあと一歩届かなかったのだ。
「不利がなければ勝ち負けだったやろ?」
それはそうだ、と優姫は言える。
どちらにしろダービーでは、モーダショーに全く勝機はなかった。
シュガーホワイトは別としても、フォーリアナイトにメテオスカーレットと、府中で戦うには相性の悪そうな馬が揃っていたのだ。
また優姫は前からモーダショーは、菊花賞向けだとは言っていた。
近年では菊花賞は、距離が長いため敬遠してくる馬が多い。
なので適性を考えれば、やはり狙っていくタイトルだ。
2勝馬でも、出走できる可能性がないわけではない。
しかし確実を期すならば、夏の間にもう1勝。
そしてトライアルでも使っていく、というのが確実であろう。
「鳴神厩舎の都合も知ってるけど、札幌行くんやろ? ならこのレースで長距離適性もう一回試すとええんちゃう」
「阿寒湖特別……」
モーダショーのご先祖様である、ステイゴールドが勝ったことで有名になった。
夏競馬に函館や札幌を選ぶのには、他にも理由がある。
調教師は馬産地巡りをして、いい幼駒を探すのだ。
セリに参加するというのも、現在では当たり前のことになっている。
だが昔からいい馬は、自ら探すものであった。
実家からのコネや伝手も、千草は使えるのだし。
優姫としてもこの夏、訪れたい場所があった。
あるはずのない記憶の源泉。
そこをどうにかしないと、本当の意味で未来に進むことが出来ない。
「天海、もういいのか?」
翌週のレースに出てきた優姫に、周囲が声をかける。
「次は、あの子の産駒で勝つ」
「引退するのか。いや、まだ……」
助かったとは言い切れない、と厳密に言えばそうなる。
この週に優姫は3勝。
100勝を超えて、減量特典が1kgなくなった。
(条件戦でこいつと戦うのは反則だろ)
周囲のジョッキーからはそう思われる。
まだ女子の斤量特典が2kgはあるのだ。
あるいは来年は本当に、リーディングジョッキーを狙えるのかもしれない。
月曜日にはまた、新幹線の客となる優姫である。
そしてSBCファームで、シュガーホワイトの様子を見る。
「これ、着替え」
「ありがとう」
女性しか近づけないシュガーホワイトは、地味に面倒な馬ではあった。
治療馬房の前に、簡易ベッドを持って来て、シュガーホワイトの面倒を見ている美奈。
これは本当なら鳴神厩舎のやることではないが、シュガーホワイトは慣れている人間がいないと、寂しくなってしまうのだ。
「今日は私がいるから」
とりあえず最初の一週間は、問題なく過ごすことが出来た。
だがまだ、ヤマを超えたわけではない。
忙しいはずの白雪も、来ていたという。
だが彼女の忙しさは、自分でコントロール出来る忙しさだ。
ミュージシャンというのは自営業。
クリエイティブな人間というのは、周囲を自分に合わさせるものでもあるのだろう。
いつか、どこかで見た風景だ。
霧の中に立って、緑の草原を歩いている。
やがて見えてきたそれは、一足で飛び越えられるような小川。
その向こうには、多くの馬の気配があった。
とても懐かしい、その馬の名を呼ぶ。
あちらもまた、こちらに対していなないていた。
まだ、こちらに来るべき時ではない。
傍らに立っている芦毛に気づき、優姫は彼に触れる。
向こう側では馬たちが、無心に駆けている。
あるいは転がって、眠りながら草を食む。
芦毛を促して、川を背にする。
そこは誰もが、いつかは必ず訪れる場所。
「どうして私は、あちらから戻ってきたのかな?」
そう問いかけても、芦毛は首を傾げるだけであった。
ダービーの日からずっと続いていた、SNSによるシュガーホワイトの発信。
一ヶ月を経過して、初めて治療馬房から出て、ゆっくりと歩く姿が公開された。
再びターフに戻ってくるのか、それとも次のステージに進むのか。
それがはっきりと決まるまでには、まだ半年ほどの猶予がある。
おそらくは大丈夫、と判断されたその日、美奈は栗東に戻っていく。
その背中に向けて、珍しく「ひーん」といななくシュガーホワイトであった。
第一章 三冠の幻影 了
第二章 もう一つの黄金 へ続く




