第22話 見果てぬ夢
ダービーの最後の直線に先頭で入ってくるということ。
それはゴールに一番近いように見えて、実は勝算が一番少ないことも意味している。
最後の直線で、完全に力の差が出て、後ろから抜かれる。
そうでなくとも先行の中から、脚を溜めていた馬が出てくる。
展開的にそうなると、分かっているのだ。
それでも最後の直線に、先頭で入ってきた。
関係者席から、それを見つめる多数の視線。
「シロ! シロー!」
歓声を上げる娘の横で、生産者である父は、これで充分だ、と思っていた。
(オーナーに、これを見せてあげたかった)
もちろん白雪のことではない。
シュガーホワイトの母であるスタークラフトは、外国産馬であった。
アメリカのステークスレースクラス、それを持ってきたのである。
牧場単体の購買力では、ちょっと手が出なかったであろう。
「これを預けたいんだがね」
古くからの馴染であるオーナーにそう言われたのは、もう10年も前になる。
「サンデーが入ってないし、キングカメハメハも入っていないんだ」
四代父を見れば、現在の日本の血統から見れば、完全な非主流。
配合がとてもしやすく、競走馬実績も秀でている。
喜んで受け入れて、初年度から勝ち上がる馬を産んでくれたものだ。
ホワイトウイングを付けたのは、実は完全に偶然である。
本来ならば付けたかったのはディープインパクト系。
それ以外でもネバークライやストレンジ、またソングオブアースなどといったトップクラスの種牡馬でも、自由に付けられるほど血統の幅が広かった。
それこそ当時人気が急上昇していた、スプラッシュヒットを付ける構想もあった。
しかし不受胎が続き、最後のチャンスとして選ばれたのが、受胎率が極めて高いホワイトウイングであったのだ。
一年空胎で済ませるよりは、よほどいいという経営戦略。
ホワイトウイングは母父ジャングルポケットだが、自身も産駒もあまり府中では強くない。
だが血統というのは、どう隔世遺伝するかも分からないのだ。
少なくとも勝ち上がる馬は出せるのでは。
そして生まれてきたのが、栗毛に見えたシュガーホワイト。
「こいつは芦毛だな」
生まれつきの白い芦毛はまずいないが、目の周りや耳の中。
何よりまつ毛の色を見れば、はっきりそうだと分かる。
サラブレッドの素質を見るには、生まれてすぐを見た方がいい。
まだ筋肉の付かない骨格を見て、これはいい馬だなと分かった。
生まれてすぐは体が弱く、母親の傍を離れないところがあった。
娘が必死になって、その世話を焼いたものだ。
学校を休んでまでというのは、さすがに叱ったが。
だがそれだけのことをした甲斐はあった。
仔別れしてからははっきり、その素質が見えてきていた。
次第に運動量が多くなっていき、すらりと胴も長く、おそらくはステイヤー。
ぜひ見てもらいたいな、とスタークラフトを預けてくれたオーナーを待っていた。
いい馬が出た、という感触はあった。
だがオーナーの顔色は、あまりいいものではなかった。
「芦毛かね」
別に芦毛を嫌う、という話は聞いていなかった。
だが問題はそこにはなかったのだ。
「どうも私はね、ちょっと内臓の具合が悪くてね」
この仔が果たしてデビューするまで、もつのかどうか。
オーナーにはショッキングなことを言われたが、自分の後の馬主を、しっかりと見つけてきてくれる。
「日高の育成に、まずは預けてみなさい」
そしてシュガーホワイトは、優姫と出会うことになる。
日高の生産牧場は、およそお得意さんが存在する。
代々馬を買ってもらう、という関係が続くのも珍しくない。
1歳になってから、千草が目を付けて白雪に買ってもらうことになった。
その白雪を紹介したのも、オーナーの伝手であるのだ。
普通ならば白雪の住む東京に近い、美浦の厩舎に入ってもおかしくなかった。
ただ白雪の場合、芦毛縛りという条件があったが。
そしてシュガーホワイトは、無類の女好きであった。
翌年は他の種牡馬を付けたものを、セリに出して売った。
そのさらに次の年は白雪に向けて、またホワイトウイングを付けてみたが、母親の鹿毛に出てしまった。
もっともシュガーホワイトの活躍で、全弟ということもあり、これまたセリで高く売れたのだが。
(ダービーを見せてあげたかった)
どれだけ世話になったか分からない、先代のオーナーは、シュガーホワイトのデビュー戦のすぐあと、鬼籍に入っていた。
2着であったが、あれはまだ強くなると言ってくれた。
サラブレッドはジョッキーを背中に乗せる。
しかし背負っているのはジョッキーだけではないのだ。
生産者の、オーナーの、あるいは育成してきたスタッフたち、多くの夢や希望を背負っている。
生まれてすぐは体質が弱く、ホワイトウイングの種ということもあり、半兄や半姉ほどの期待はかけられていなかった。
しかし娘がしっかりと世話をした結果、女性にしか心を許さない変な馬になってしまったものである。
女調教師の厩舎で、女性騎手を乗せて、重賞どころかクラシックを勝ってしまった。
これでもうしばらくは、何も心配せずに生産していける。
中小の生産牧場にとっては、夢のような話。
だが夢はまだ終わらず、最後の直線に入ってもなお、シュガーホワイトは粘りを見せる。
その先にあるものが、新たなる夢につながっていく。
中小牧場から三冠馬が出る。
そんなとんでもない夢が、現実に近づくのか。
無理だろうと理性で思っても、声援を上げないわけはなかった。
最後の直線、坂に入っている。
シュガーホワイトはまだ先頭だが、フォーリアナイトの末脚は爆発している。
大外のメテオスカーレットも気になるが、やはりフォーリアナイト。
わずかに息を入れたシュガーホワイトは、また再加速している。
東京の緩いコーナーでは、しっかりと加速できていた。
中山にくらべればずっと、楽なカーブであったのだ。
フォーリアナイトの長所は、その瞬発力と勝負根性。
血統だけを見ればむしろ、先行の脚質であってもおかしくない。
だが血統の中には、名馬がいくらでも潜んでいる。
最後に脚を使うタイプだとは、間違いなく分かっているのだ。
坂の途中で、フォーリアナイトの気配が迫る。
東京競馬場の大観衆が、必死の声を上げていた。
一番人気が先頭で、二番人気がそれを追う。
三度目の正直とばかりに、フォーリアナイトが迫っている。
ロングスパートはシュガーホワイトの特徴である。
スパートをカーブの途中からも使えるのが、主な特徴であると言えた。
このダービーにおいても、4コーナーに入る前からスパートをかけている。
一瞬でトップスピードになるのは、フォーリアナイトの方が上。
だが接近されてからも、さらに加速していくことが出来る。
すぐに差を縮められたかのように見えた。
だがその縮めていく差が、あとわずかに足りない。
わずかに足りず、1馬身が縮まらない。
(何が足りない!?)
鞍上五十嵐はムチを入れる。
フォーリアナイトは、間違いなく加速している。
それとシュガーホワイトのロングスパートが徐々に加速していき、そしてここで最高速が釣り合ったのか。
まだ追いかけている。
フォーリアナイトはむしろ、ゴールぎりぎり前で差す方がいい。
ここからシュガーホワイトは、少しずつ落ちてくるはず。
坂が終わればそこからが、最後の踏ん張りどころ。
平坦なターフなら、フォーリアナイトはさらに加速する。
坂が終わる。
およそ1馬身差で、フォーリアナイトが追ってくる。
あとはここから、どれだけの脚が使えるか。
優姫はムチを一叩き、全力で追い始める。
そこからシュガーホワイトは、さらに前のめりになっていく。
この最後の直線には、パワーはいらない。
あとはどれだけ速く、脚を回転させていくか。
わずかにフォーリアナイトとの差が開いた。
汗、鼻息、そして体温。
もうここからは何も注文はしない。
好きなように駆けていけ。
徐々に差を開けていく。
フォーリアナイトは諦めない。
外のメテオスカーレットは届かない。
優姫の背中に付いた目は、他の馬の脚を計った。
飛ぶように駆けていく。
ゴールまではあとわずか。
残り1ハロンを過ぎて、2馬身以上の差を開けた。
そして、とても、嫌な音が聞こえた。
「ーーーーーーーーーーー!!!」
『坂が終わった最後の直線! 差が開くか! フォーリアナイト! 追いつけない! シュガーホワイトさらに加速! 栄光のゴールはもうそこだ!
フォーリアナイトは諦めない! 外からはメテオスカーレット!
だがシュガーホワイト! ラスト1ハロン! 追いつけない!
二冠達成は目の前だ!
シュガー―― ああ!!!
失速! シュガーホワイト失速! フォーリアナイトが抜いて!
シュガーホワイト馬群に沈む! 先頭はフォーリアナイトか!
いや外! メテオスカーレット! 外からメテオ! ナイトも失速!
メテオ! メテオスカーレットだ! メテオスカーレット1着! フォーリアナイトは2着!
今年のダービー馬は4番人気メテオスカーレット!
しかし場内ざわめき! 大きなざわめき……。
……歓声がありません、場内大きなざわめき……。
シュガーホワイト、立ち止まって、天海優姫が下馬しています。
……競走中止です、シュガーホワイト。
……天海が下馬して、寄り添うようにしてシュガーホワイトを、これは、支えているのでしょうか』
『……止まっています、右の前脚ですか』
『カメラは拡大して……立っています。シュガーホワイト。ですが石塚さん……』
『これは……一応立ってはいますが』
『ああ、シュガーホワイト、ああ、担当厩務員が、鳴神調教師も入ってきました。これは……』
『レースがモニターに映ります』
『これは……』
『……がくりと沈んでいます。ただ、ここからははっきり分かりません』
『馬運車が入ってきました……』
『……』
『シュガーホワイト、ゆっくりと、歩様は乱れていますが、支えられるようにして、馬運車に移動していきます……。……なんということだ。……なんということでしょうか。言葉もありません……』
『……』
『天海騎手が寄り添い、シュガーホワイトはターフを後にします……』
『……』
『ウイニングランはありません。メテオスカーレット……空白の玉座に……』
「シローーーーーーーーーーー!」




