第21話 王冠への孤独
ダービーで逃げた馬が勝てなくなって30年。
だが「逃げ馬」が勝った例はあるのだ。
おかしな話と思うかもしれないが、逃げ馬が逃げるのでなく、さらに前に馬がいた例などである。
一本調子ではなく、ラップを乱してスタミナで削り取る。
このレースは完全に一番人気の一人旅で、それをするための条件は整っていた。
「お~、このまま一気に行っちゃうつもりかな?」
「それはさすがにないですけど」
馬主席に上がって、白雪はレース展開について千草と話す。
「周りの反応見る限り、意表を突くのには成功したのかな?」
「ええ、それはもう」
馬主席ですらあんぐりと、このレース展開を見ている者が多数であるのだ。
ダービーで逃げた馬が、勝っていないわけではない。
歴代屈指の強豪と言われるミホノブルボンなど、そのいい例であろう。
だが現在はもう、馬場も血統も変わっている。
現実として逃げ馬が勝っていないという事実。
(そもそも天海は2400を……)
長い距離のレースをしたことがないはず。
優姫のキャリアを思い出して、動いたジョッキーがいた。
『一番人気シュガーホワイト! 絶好の枠からまさかの逃げ! 二年目天海優姫! ここでまさかの逃げです!』
『いや、これは難しい。そもそも彼女のキャリアで2400を走ったことがほとんどないでしょう。……いや、青葉賞がありますか』
『血統的にはどうですか石塚さん』
『あまり良くないと思ったので、ここは消しちゃっていたのですが』
『後ろから動きます! ⑥番カルマインザダークが動きます! 釣られたように数頭動いていきますが!』
『青葉賞組です』
『青葉賞からのジャンタルトン! 早くも動いていった!』
『天海騎手の動きを知っているからでしょうが、どうでしょう』
誰かが思い出した。
さすがに優姫もデビューレースを勝ったわけではない。
だが生まれて初めて乗った、重賞東京スポーツ杯2歳Sは、重賞初挑戦で初勝利であった。
そして次はGⅠ初騎乗、シュガーホワイトがそのままGⅠ初騎乗で初勝利。
さらにその次は、クラシック初騎乗。
これまた皐月賞を初騎乗で初勝利。
つまり天海優姫という人間は、初めての大舞台にとんでもなく強い。
あるいはシュガーホワイトの能力が、傑出しているのかもしれないが。
今度はダービーだ。
ダービーに初騎乗で、初勝利などされたらたまらない。
いくら馬がいいと言っても、馬がいいだけではないと、ジョッキーならばもう分かっている。
それにいくらダービーで、逃げが不利だと言われても、逃げという戦法自体が持っている利点が失われるわけではない。
ポジション争いにスタミナを奪われず、また芝のいいところを走れるのだ。
ただ引き続いて追いかけようとしたジョッキーも、すぐにそれは諦めた。
スタートダッシュを決めたシュガーホワイトは、既にある程度の差がついてしまっている。
これに下手に追いつこうと思ったのなら、自分の馬の脚を使ってしまうのは間違いない。
先に動いた数頭も、二頭だけがまだ捕まえようとしている。
これであの二頭は消えた。
逃げの戦法を取った時のアドバンテージ。
ストロングポイントにもなるが、ウィークポイントにもなること。
それはペースを自分で調整できることだ。
スタートダッシュで2馬身以上は先行できる、と計算していた。
そしてそこから後ろが、果たしてどう動いてくるのか。
(まず二頭消せた)
そのうちの一頭は、警戒していたカルマインザダーク。
本気で勝つつもりなら、スタートから先頭争いをする必要があった。
だが先行からの抜け出しも出来るので、それが選択肢を間違えさせた。
優姫としてはここから、ペース配分を考えていかないといけない。
まずはコーナーまではしっかりと確実な先頭を確保する。
あとはどう息を入れていくかだ。
ウィークポイントになるのは、後ろのペース配分が上手くいっていれば、ペースメーカーにされてマークされるということ。
(シュガーの賢さを、どこまで理解してるか)
向こう正面に入って、ペースはダウンしている。
ここである程度、差が縮まってくるのは仕方がない。
むしろ縮まってこなければ困る。
体内時計は59秒を切ったあたりか。
(また少し、脚を使った)
後ろの馬が自然と、ペースを早めたりしている。
シュガーホワイトと優姫の逃げは、最後までに潰れると思っているのだろう。
だがそれまでに好位にいなければ、後ろから抜かれるのも確かなのだ。
優姫は他のジョッキーの力を侮ってはいない。
二連敗していながら、フォーリアナイトの力を信じている五十嵐。
あの馬は直線の長い府中なら、キレで勝負してシュガーホワイトに勝てるのだろう。
そう思っていても、ずっとそれを信じ続けるのは難しい。
(あとはこの人たち)
およそ二馬身差にまで、差を縮めてきた馬。
美浦のジョッキーであり、栗東のベテランたちはもう存分に、優姫のしたたかさを知っている。
他には綿貫も来ている。
現状の一番人気が逃げて、二番人気がほぼ最後方という状況。
これでは途中でどの位置にいるか、考えなくてはいけないのは確かだ。
直線だけで勝負する競馬になるのか。
そうさせないために優姫は、色々と考えてきたのである。
馬を見るという点において、おそらく日本でも一番。
五代勇作はレースの序盤から、ハラハラし通しであった。
(どういう作戦なんだ!)
ダービーには自分の牧場の馬に、グループのクラブ場も出走している。
だから当然ながら、こうやって馬主席にいて、営業もしている。
それを別としても、ダービーを見に来るのは当然であった。
フォーリアナイトもグループの生産馬である。
だがこちらはセリで、馬主に販売したものだ。
生産者として間違いなく、大きいところを取れると信じている。
特に直線のキレは素晴らしいが、気性面の難しさも知っている。
経営者としてはシュガーホワイトの方を高く評価していた。
一瞬のキレはともかく、持続力とコーナリング性能は、フォーリアナイトよりもずっと上だ。
馬の強さにも種類があり、特徴としては多様な種牡馬がいた方がいい。
(ホワイトウイング産駒の割には頭がいいし、ストレンジ産駒の割には気性が難しい)
シュガーホワイトとフォーリアナイトのことで、どちらの力も備わっていれば、まさに最強の馬になるのだろうが。
馬産全体から見た場合、シュガーホワイトに勝ってもらっても構わない。
おそらくダービーを取れたなら、菊花賞も取れると優姫が言っていた。
その見立てはグループの人間からも出ており、ならば三冠馬の可能性が高い。
それだけでも種牡馬としては、絶対的な価値を持つ。
だが重要なのは強さだけではないのだ。
優姫とシュガーホワイトの組み合わせは、人気として異常なものになっている。
そんな馬が種牡馬として、五代のスタリオンに入る。
芦毛のオグリキャップの夢よ再び、と思う人間も多いだろう。
血統背景を見ても、かなり付けやすい馬となっている。
今の時代にサンデーが一本だけ、そしてキングカメハメハが入っていないのだ。
五代グループの責任者として、また日本の馬産をリードする者として、逆にシュガーホワイトのことを心配している。
(ここで惨敗は困る)
おそらく普通に走っていれば、3着ぐらいには来れたであろうに。
(だが、ダービーなら狙っても仕方ないか)
それでももし、優姫が勝って、ダービージョッキーになれば。
本来の種牡馬能力はともかく、付加価値がとんでもないものになるだろう。
馬への愛と、経営者の計算と、日本の馬産を背負う責任。
そういったものを全て持って、彼はダービーを見つめているのだ。
ジョッキーの体内時計は、おおよそ正確である。
なので優姫がほんの少しずつ、1ハロンのラップを変えているのにも、多くのジョッキーは気づいていた。
気づいていたが、自分の馬をそれに、上手く合わせることは出来ない。
そんな小刻みな調整をしていたら、逆に馬のリズムが狂う。
シュガーホワイトは確かに、操作性に優れた馬である。
またステイヤーとしての素質も、充分にあるようだ。
だがそれ以上に優れているのは、鞍上の指示に従う頭の良さではないか。
(もう待てん!)
下手に抑えるぐらいならば、もう行ってしまった方がいい。
そういった割り切りの良さも、ジョッキーには必要なのだ。
しかしそれでは仕掛けが早すぎる。
第3コーナーからは少し、シュガーホワイトもペースが落ちる。
しかし鞍上の優姫は全く、姿勢がぶれない。
(おかしいな)
シュガーホワイトは、確かにラップを上下させている。
それなのにジョッキーの手元が全く動いていない。
ただ手綱を緩めてもいないのは、間違いないのだが。
優姫はあれで追える騎手だ、というのはもう知られている。
未勝利戦で未勝利馬を勝たせるのは、腕力と脚力で外から力をかけてやらないといけない。
ただ軽いだけでは勝てないほど、未勝利馬は能力が低かったりする。
そこで二割も勝つのだから、間違いなく性能がおかしい。
(完全に折り合っている)
近くで見る綿貫は、そう考えた。
シュガーホワイトは賢い馬だとは、見てきて分かっているのだが。
残りはおよそ800m。
優姫は手綱をしごくのではなく、体重移動で馬に伝える。
(そろそろ行こうか)
一度は落としたペースを、また上げていく。
ここからのロングスパート、最後は果たしてどうなるか。
18頭のうち10頭はもう振り落とした感触がある。
残り8頭のうち、迫って来れる力があるのは、せいぜい2頭といったところか。
フォーリアナイトとメテオスカーレット。
(どちらも末脚勝負だけど)
フォーリアナイトは馬群を捌いて上手く出てくる。
対してメテオスカーレットは、大外に持ち出していた。
勝負はいよいよ最後の直線へ。
まだ後ろの二頭は、飛び出してきてはいない。
(息はしっかり入ってる)
スタートダッシュから1コーナーまでは、それなりに速いペースであった。
だがそこからは上手く、ペースをコントロール出来たはずだ。
それでも後ろの方の二頭は、思惑に乗らなかったのだ。
『向こうの直線から差は縮んできた。だがまだ先頭はシュガーホワイト! 逃げ切るのかシュガーホワイト! 白い芦毛に白い勝負服。先頭のままだシュガーホワイト!
二番手集団は激しいポジション争い、二番人気フォーリアナイトはまだ後ろ。
第3コーナーに入ってここからどう動くか。さあ大欅の向こうで集団がどう動くか!
最初に出てきたシュガーホワイト。脚色はどうだ? まだ落ちないか』
『ラップは落ち着いて見えますが、天海の手は動いていないですね』
『今度の直線は長いぞ! シュガーホワイト第4コーナー! ペースが上がったか! 天海の鞭が振るわれる! シュガーホワイト、ロングスパートか!』
『ここからだと最後に差されます!』
優姫の作ったペースのおかげで、後続集団はある程度、脚色が定まってきた。
その中を貫いてくるフォーリアナイトは、ひたすらシュガーホワイトを目指している。
大外に持ち出したのはメテオスカーレット。
そこまで持ち出して届くのか、とはレースを見ている全員が思った。
「行ける行ける行ける! まだ行ける!」
ぶんぶんと手を振る白雪に対して、無言の千草は唇をかみしめ、拳を強く握っていた。
(ステイヤーなら……)
距離ではなくコース適性。
確かに府中の左回りには、やたらと強い馬がいるのだ。
直線にかかったところで、優姫はわずかに手綱を動かす。
見ている人間は、競馬関係者であれば、はっきりと分かった。
ほんのわずかな動作で、シュガーホワイトの手前(※)が変わったのだ。
左回り用の左手前から、右手前へ。
コーナーで差が縮まったのは、左手前で走っていたこともある。
そしてその間、右は少し休んでいたわけで。
『シュガーホワイト先頭! 最後のストレートへ! 大外回したメテオスカーレット!
カルマインザダークは後退! 馬群に沈む! しかしもつのか! もつのか東京の直線!
シュガーホワイトはもつのか!』
集団の真ん中を抜けてくる。
フォーリアナイトが抜けてくる。
『シュガーホワイトはどうなのか! 母父ジャングルポケット!
府中の2400! 適性はどうなんだ! シュガーホワイト先頭! 最後の坂にかかっていく! 後ろからは二頭が抜けたか!』
府中の直線は長い。
シュガーホワイトは一度、その直線で勝っている。
だが1800mと2400mでは、根本的に違うのか。
相手は強いが、こちらの血はどうなのか。
薄められたスピード血統の奥に、莫大なスタミナが潜んでいる。
※手前
馬の利き足のようなもの。右足を前に出すか、左足を前に出すかで走り方が違う。
一般的に左回りのカーブは左手前が回りやすく、右回りはその逆である。




