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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
一章 三冠の幻影

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第20話 白き逃亡者

 ダービーウィークに他の乗鞍を一つも入れない。

 皐月賞でやったように、優姫は己を削ぎ落している。

 皐月賞よりも400m長い距離。

 だがそれはモーダショーで経験させてもらった。

 そしてシュガーホワイトでも、短い距離だが一度は走っているコース。


 追い切りよりもむしろ、日常の曳き運動に気を付ける。

 ダービーに勝てる馬は、まずダービーに出られる馬。

 美奈も細心の注意をして、数時間の曳き運動をしているのだ。

(万全ではあるけど……)

 競馬には絶対はない、と言われたものである。

「それで、作戦はどうするんだい?」

 調教や管理はともかく、レースは完全に騎手任せの千草。

「一応は考えてあるけど」

 優姫は出馬表を指で示す。

「まずこの馬がポイント」

「カルマインザダークか」

 主に先行か逃げの作戦を取ってくる。

 逃げ馬がレースのペースを握ることは、確かに珍しいことではない。


 千草の記憶には、確かにカルマインザダークが、逃げたレースもある。

 だが基本的には先行策を取り、また今回もやや外の枠なのだ。

「これが無理に逃げたら、そこで最善の作戦は破綻する」

「ん? てことはあんた、逃げる気なのかい?」

 優姫は言葉もなく頷く。

「それが一番、勝てるレースになると思う」

 優姫の説明をじっと、千草は聞いていた。


 どこで脚を使うか、どこで息を入れるか。

 またシュガーホワイトの脚がどういう性質でもって、最速の脚がどれほどで、どれだけの時間が使えるのか。

 なるほど、と千草は納得した。

「大前提として、逃げられることか」

「そう」

 明確な逃げ馬がいない。

 逃げる戦法を取る馬はいても、そもそもダービーのコースでは逃げ馬は、後ろから差されるイメージの方が強い。


 逃げて勝ったダービー馬がいないわけではない。

「でも改修以来は、いないんじゃない?」

 その千草の言葉も正しい。

「その先入観が、勝つための一つ目の条件」

 優姫が乗るのはシュガーホワイト。

 ロングスパートが得意な馬である。

「一番人気の皐月賞馬に、逃げられて無視できるジョッキーはあんまりいない」

「う~ん……」

 理屈としては分かるのだ。

 だが今は確実に、最後のキレで勝負する馬が、圧倒的に有利になっている。


 ダービーに勝つにはどうすればいいのか。

 単純なロングスパートだと、おそらく勝てないというのは分かる。

 終い勝負でも高速馬場となった今では、まず勝てないだろうとも言われる。

「最終的には馬場状態と、他の馬との展開次第」

「まあそうだね」

 逃げて勝つ。

 その難しさは優姫も、当たり前のように分かっているのだ。




 土曜日、東京競馬場。

 既にシュガーホワイトは馬房に入っている。

 優姫は調整ルームではなく、まだ競馬場内にいた。

 これも皐月賞と同じく、レースをこの目で見るためだ。

(開催からレースは多いけど、この季節の芝の回復は早いか)

 造園技術の進歩により、直線の芝もしっかりと整備されている。

 天気予報では雨の降ることもなく、おそらく良馬場になるはずだ。

 90年代にはまだ、逃げ馬がダービーに勝っていた理由。

 馬場の変化とそして、サンデーサイレンスの血統の拡散だ。


 どうしても最後の脚が伸びるレースになる。

 するとやはり末脚勝負の馬が、後ろからの競馬をしてくるだろう。

(上手く脚を使わせないと……)

 そのためには上手くスローで逃げるか、それともハイスペースのスタミナ勝負に持ち込むか。

 本来ならばシュガーホワイトは、前者を選ぶべきだ。

 だがそれも他の馬との兼ね合いがある。


 最終レースまでを見終えてから、優姫は調整ルームに入る。

 今週はこちらで乗っている、女性ジョッキーが穂乃果以外にもいた。

 だが声をかけてこないのは、優姫のまとう雰囲気に気圧されたからだ。

 最年少で皐月賞を制し、そしてダービーの一番人気。

 完全に体を作ってきて、そして精神も研ぎ澄ましている。


 ダービーを勝てたら、菊花賞はむしろ楽、という言葉は言われていた。

 コース適性に加えて、淀は優姫のよく乗るコースだから、というのもあるだろう。

 つまりダービーに勝てれば、三冠馬は現実的になる。

「唯一の10代ダービージョッキーの記録もあるし……」

 先輩の女性騎手ですら、ここは遠慮するところがある。

 また10代での三冠ジョッキーという栄光すら考えられる。


 優姫は食事をし、風呂に入り、そして体重を計る。

 風呂でその裸体を見れば、鋼を束ねたような筋肉が見える。

 今週だけではなく、来週の騎乗まである程度、抑えて調整してきた。

 勝つための準備は、全てしてきたのだ。

 それは自分だけではなく、相棒も同じことである。


 神経が昂っているのが分かる。

 今からこれでは、まだ早すぎるとも分かっている。

(自分を削って、ダービーを取る)

 これから先も何度も、ダービーには乗れるだろう。それだけの実績を残してきたつもりだ。

 しかしシュガーホワイトにとっては、一生に一度の大舞台。

(再来年の有馬記念に勝って、それで引退させる)

 あえて先のことを考えて、優姫は何通りものレースパターンをイメージした。




 かつて20万人近くを収容したこともある、ダービーというレースの舞台。

 東京競馬場の最大収容数は、改修後には12万人となっている。

 だが現実としては入場規制を行い、8万人前後となっていた。

 これはネットなどの発達により、馬券の電子購入が出来るようになったことも、大きな要因である。

 しかしJRAは今年、その限界を取り払った。

 それでも多くの人間が、抽選に外れて競馬場の外でたむろすることになったのだ。


 朝から既に、席を取るために並ぶ。

 入場するだけでは済まない、という待機組がいた。

 テレビに映る、東京競馬場の異常事態。

(昔はこうだった)

 優姫はそう思うが、他のジョッキーたちはおおよそ、こんなダービーは知らないのだ。

 朝のニュースで言及され、今日を祭りだと言っている。

 優姫は開場のはるか前、コースを巡っていた。

 同じことを他のジョッキーもしている。


 勝てる理由がまた一つ増えた。

 ベテランジョッキーであっても、この雰囲気は未経験のはず。

 あるいは幼少期に、向こう側の観客席で、見ていた者は多いかもしれないが。

 前日にもニュースになっていて、例年のダービーとは違う空気。

 これは昔の競馬だな、と優姫は感じている。


 第1レースが始まり、優姫は検量室でレースを見ていた。

 だがレースと同時に、ジョッキーたちの気配も探る。

 この空気は、クラシックの中でも特別なもの。

 ダービーの空気だ。


 レースの前に何度も、体重を計測しておく。

 100gの差が、ハナ差の勝負を制するかもしれない。

(おそらくそんなことにはならないけど)

 比較的ダートが多い今日のレース。

 それでも先週のオークスをはじめ、東京開催で芝は荒れている。

 逃げるということは、その中で一番いいルートを取れるということだ。


 やがて第11レースがやってくる。

 優姫はこの日、他のジョッキーと一言も話すことがなかった。




 パドックに向かって美奈はシュガーホワイトを曳いていく。

 むしろシュガーホワイトが、美奈を連れていくような感じでもあるが。

 そして大観衆の前、美奈は白雪に渡された、白いシャツに白いパンツ、というまさに白い衣装でシュガーホワイトと共に歩く。

 三度目のGⅠ。

 だがダービーは同じクラシックでも、さらに皐月賞より格が高い。


 シュガーホワイトが頭を小突いてきて、ぎくしゃくと美奈は歩き出す。

「あ~あ~」

「ちーちゃんも一緒に曳いてあげたら?」

 白雪と一緒にいる千草は、馬主の接待をすべきなのだ。

 だが、ダービーの舞台である。

 多くの厩務員は誰しも、ダービーで馬を曳くことを願うであろう。

 ただ美奈はさすがに若すぎたか。

「シュガーが落ち着いてるんで、大丈夫だと思います」

 本当にシュガーホワイトは、祖父には似ていない。

 父のホワイトウイングにしても、その父に比べればずっと穏やかであるとは言われていたのだが。


 白雪も白いドレスを着ているが、耳に飾られたイヤリングの色は紫。

 シュガーホワイトの勝負服にも、紫の斜め線が入っている。

 特別なものなのかな、と思っても口にはしない。

 大観衆の中、シュガーホワイトは確かに、堂々と歩いていた。

 俺を見ろと言わんばかりの主役仕草。

 だがフォーリアナイトには、やや視線を向けていたが。


 誰が強敵か分かっているのか。

 レポーターが話す間、優姫も待機線で待っていた。

 この衣装の中で唯一、不相応なものがあるとすれば、ヘルメットであったろう。

 黒いヘルメットは2枠のもの。

 1枠に入っていれば、ヘルメットまで白くなったのに。


 どうでもいいことを考えて、優姫は茫洋とした表情を崩さない。

 やがて号令がかかる。

「とま~れ~」

 そこから美奈の手を借り、シュガーホワイトの背中へと。

 今日は千草と共に白雪も、この場所へと来ていた。


 騎乗した優姫に対して、千草が言うことは一つだけ。

「任せた」

 頷いた優姫を見て、白雪は感じ取る。

(緊張じゃなくて集中かな)

 ステージに出るまでは、緊張していてもいいのだ。

 だがゲートが開いたら、そこからはもう何も出来ない。

(同じようなもんだね)

 微笑みを浮かべて、白雪は姿を見送る。




 返し馬から輪乗りに入っていく。

 これはダービーであるが、同時に多くのレースの中の一つに過ぎない。

(いつも通りに乗る、と考えること自体がいつも通りじゃない)

 12万の大観衆などというのも、他の馬は味わったことがない。

(ぎりぎりまで仕上げてきたけど)

 それは他の馬も同じであった。


 ダービーのファンファーレ。

 すぎやまこういちの残した、半世紀もの時間を超えて残っていく楽曲。

(その前を知ってるこの記憶……)

 手拍子が乗っていって、大きな拍手と共に大歓声。

 これだけで他の馬は、パニックに陥ったりもする。

 入れ込んでくれたら有利になるかもしれないが、むしろスタートから暴走されると作戦が狂う。


 だがダービーまで残った馬たちと、そのジョッキーだ。

 それだけでも充分に、選ばれた優駿の血統は、しっかりと制御されている。

 ゲートに収まっていくが、他のジョッキーの視線は感じる。

(走るのは馬だから)

 ゲートに入っていって、その時を待つ。

 優姫の呼吸が、シュガーホワイトのそれと一致していた。


 そして呼吸が止まり、ゲートが開く。

 シュガーホワイトは完全にハナを切って、先頭に飛び出していた。


 一番人気の馬である。

 この数十年でおそらく、一番注目されている皐月賞馬。

 それがこの大舞台で、スタートから逃げる。

 好位中団、あるいは先行集団、というぐらいのことは考えていた。

(スローペースに落とす気か)

 五十嵐はそう思ったが、少なくとも第1コーナーまでは、集団を牽引していく。


 ダービーで逃げるのか。

 一番人気で逃げる度胸があるのか。

 確かに逃げて勝ったレースもあったが、そればかりというわけでもない。

(誰か追いかけて……行かないか)

 行くとしたら二番人気の自分なのだろうが、フォーリアナイトの脚質は、完全に差しか追い込みといったところ。

 鈴を付けにいくのは、他の馬に任せるしかない。


 これが人気薄の大逃げならば、鈴を付けにいくのも一番人気かもしれない。

 だが一番人気で、後ろからが有利のダービーで逃げるなど、誰が想像したというのか。

 逃げる馬がいたとしても、それは他の馬であったはずだ。

(どう出る?)

 第1コーナーに入っても、シュガーホワイトは目立ってペースを落とさない。

 ハイペースでスタミナ勝負にするのか。

 それはダービーの作戦ではないだろう、とジョッキーの誰もが思っていた。

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