第2話 馬に愛された娘
有馬記念。
年末を締めくくる大一番であり、日本で最も馬券が売れるレースとされている。
実際、その売り上げランキングの上位には、各年度の有馬記念がずらりと並んでいるのだ。
出走馬も騎手も一流揃いで、外国人騎手の名前も多く並ぶ。
当然ながら、一年目の新人が関わる舞台ではない。
もっとも、中山競馬場でこの日行われるのは有馬記念だけではない。
条件戦などの通常のレースも組まれており、そちらに騎乗するジョッキーの方がずっと多い。
自分のレースがすべて終わっていても、控室に大勢で集まって、有馬記念を見届ける者もいる。
有馬記念後の最終レースに騎乗する者もいる。
だが今年デビューした、もう一人の女性騎手。
小柳穂乃果は早々に自分のレースを終えると、有馬記念さえ見ずに、女性用の個室で一人になっていた。
この日、優姫は有馬記念の後の、ファイナルステークスに騎乗予定。
ハンデ戦(※)のため軽く乗れる騎手が、有利とされている。
そしてこのレースを見るためだけに、穂乃果は控室にまで戻ってくる。
有馬記念でもう、全ては終わったような空気の中。
穂乃果はそれを見ていたが、優姫は見事に人気薄の穴馬を勝たせた。
(これで50勝か……)
一年目からいきなり、大きな差が付いた。
だがある程度は、予想していたのも確かだった。
穂乃果が優姫と初めて出会ったのは、競馬学校の二次試験だった。
実技を含め数日間にわたり行われる試験で、そこへ進む受験生の多くは、すでに豊富な乗馬経験を持っている。
穂乃果も、サラブレッドの生産牧場に生まれ、馬術競技に出ていた。
受験生には他にも女子が何人かいたが、明らかにただ一人、異質な存在がいた。
それが天海優姫だった。
長期間の試験だけに、協調性にも目が向けられる。
競馬村と呼ばれる閉じた世界では、関係者の子弟が受験することも多い。
その中で優姫は器械体操の実績を持ち、適性ありと判断された。
だが、彼女は話してみても必要最低限しか言葉を発さない。
滋賀県近江八幡市の出身で、栗東トレセンには近いものの、乗馬経験はほとんどないと言う。
だが、身体の使い方は驚くほど洗練されていた。
オリンピック候補になってもおかしくなかったと言われるほどの素材。
それなのに、わずかに触れただけのサラブレッドの世界を選んだ。
そして実際に騎乗した姿は、未経験者とはとても思えなかった。
穂乃果が本当に不思議だと思ったのは、むしろその後だ。
入学前の研修から、厩舎作業は始まる。
暗いうちからの馬房掃除、健康チェック、飼葉や水の用意。
牧場育ちの穂乃果は慣れているが、優姫はまったくの未経験のはずだった。
だというのに、彼女は馬房に入るとまず馬と見つめ合う。
すると馬のほうが自ら位置をずらし、優姫に作業のスペースを空けてくれるのだ。
競馬学校の馬は比較的気性が穏やかとはいえ、優姫の手にかかると、まるで甘える犬や猫のようになる。
甘えられすぎて壁との間で潰されかけたこともあったが、彼女が注意すると二度としなくなった。
牧場生まれの穂乃果であっても、馬のことはなかなか分からない。
人間だって個性があって分からないのだから、馬であっても同じこと。
「ユッキーは懐かれるね」
「……そうかな?」
人間相手の会話の方が、むしろ優姫は反応が鈍い。
それは人見知りをしていただけだと、穂乃果は後になって理解した。
やがて入学からルーティン業務にも慣れた頃、生徒たちはモンキー乗りを教えられる。
競馬における騎乗姿勢。小さな鐙を踏んで腰を浮かせ、前傾姿勢を保つ。
真似ぐらいなら経験者はしたりするが、本当のモンキー乗りは違う。
乗馬経験があったとしても、一日の訓練が終わることには、腰から足首、または背中や首までがガタガタになる。
ところが優姫は、最初から完成していた。
器械体操の経験からか、まず姿勢が完璧であった。
脚の位置、背筋の角度、肘の余裕。すべてが教本通りというか、個人差を含めるならそれ以上。
「お前……どうやってバランス取ってるんだ?」
男子の一人が声をかけると、彼女は首を傾げた。
「重心を自分の中心にいれて、あとは……新聞配達の経験?」
出来て当たり前のように言うが、もちろん当たり前ではない。
中学生でも出来る、数少ないアルバイト。
優姫は新聞配達を、ずっと行ってきたという。
馬も自転車も、乗り物には同じ。
全然違うだろう、というツッコミはもちろんあった。
だが実際に出来ている。
モンキー乗りの騎乗が上手いだけで、レースに勝てるわけではない。
優姫の個人的な能力が、それを可能にしているだけだ。
「それに本番のレースになれば、一日に10レース以上に出走して、平然とインタビューにも答えないといけない」
確かに開催されるレースは、一日に10レース以上もある。
だがそれだけたくさん乗るというのは、乗ってほしいと思われるトップだけだ。
優姫は当たり前のように、それを想定していた。
競馬村育ちでトップジョッキーに触れているような者たちも目標とはするが。
競馬学校の教官たちも、優姫の能力にはかなり驚いた。
「問題はやっぱり体力かな」
平然としているように見えながら、優姫は満足していないのだ。
訓練が進むにつれ、実力の差は開いていった。
もちろん模擬レースでは馬の能力がばらばらのため、優姫が常に先頭というわけでもない。
しかしスタートの反応、コーナーワーク、手綱さばき、どれもが一番上手いのは確かであった。
何よりも馬と、折り合いをつけるのが上手い。
穂乃果は何度も優姫に勝った。
競馬はトップジョッキーでも、当たり前のように負ける。
重要なのは敗北からも、何かを学び取ることだ。
疾風の中で優姫は、馬と共に駆けていく。
錯覚だがその騎乗が、空を飛んでいるように見えたこともある。
悔しかった。
だがそれ以上に、穂乃果に与えたものがある。
サラブレッドはこの世で一番、美しい生き物とも言われる。
そして優姫は最も美しく、サラブレットを走らせることが出来る。
勝ちたいというのは、この世界を選んだからには当たり前のこと。
だが優姫の騎乗を見ていると、それよりも先に出てくる感情がある。
美しいと思ってしまうのが、一番の悔しさであった。
やがて卒業式を迎え、脱落者を除く同期は、それぞれの厩舎に配属された。
優姫は「レディース厩舎」とも呼ばれる、女性スタッフの多い栗東の厩舎に所属する。
コネクションがない優姫に関しては、教官が尽力した結果だった。
穂乃果は美浦の厩舎に所属。
環境は違っても、同期としての連絡は欠かさなかった。
優姫のデビュー戦の日は競馬チャンネルでその様子を見た。
テレビの画面に映る優姫は無表情で、あるいは緊張しているように見えたかもしれない。
その姿を見て、穂乃果は思わず笑ってしまった。
緊張しているのは優姫ではなく、馬のほうだ。
難しい3歳の未勝利戦で、見事に勝利したのであった。
デビュー戦で勝利し、さらに翌日も1勝と、見習い騎手と女性騎手の恩恵があるとはいえ順調すぎるスタート。
条件戦に関しては、乗せてもらえる馬がどんどんと増えていった。
コネらしいコネなど、一つもなかったはずであるのに。
夏が終わる頃には、彼女はもう異名がついていた。
馬に愛された娘、というものである。
12月に優姫がGⅠに挑むと聞いたとき、現実感は薄かった。
一年目の若手でも、確かにGⅠに騎乗した例はある。
だがそこに至るまでには、クリアしなければいけない条件が多い。
穂乃果の一年目は二桁も勝てなかったが、それでも悪い数字ではない。
優姫の40勝というのも、過去にあった数字だ。
だが勝ち鞍こそ多くなっていったが、これが初めてのGⅠ出走となる。
所属厩舎のお手馬で、かなり鞍上を選ぶシュガーホワイトでなければ、他に乗り替わったかもしれない。
4戦3勝で3番人気と、充分に期待はされていた。
そのレースを控室で、穂乃果はモニターの前で見ていた。
長いJRAの歴史の中でも、騎手過程卒業の一年目で、GⅠを勝った人間はいない。
優姫が挑むのはそれだけで、とんでもないことであるのだ。
もしも優勝したら、本当に競馬史に残る。
外枠からスタートした優姫は、迷いなくハナを切る。
暴走などではなく、しっかり折り合った競馬。
穂乃果にも、その姿は美しく思えた。
優姫は女だが、もはや女扱いされていない。
それでいて女に負けたくない、と強くマークされている。
強い馬で確実に勝つには、逃げるのは充分に妥当な選択なのだ。
最後まで優姫は、鞭を使わなかった。
使い方が下手というわけでもなく、むしろ普段のレースでは、器用に使っている。
純粋にこのレースでは、必要なかったのだ。
そして、半馬身差。
日本競馬に、新たな風穴が空いた瞬間であった。
優姫のニュースは翌日から連日報道された。
「時代を変える少女」「馬と会話する天才」「令和のクールビューティー」
しかし穂乃果は知っている。
単に優姫は人間と話すよりも、馬と話す方が得意であるのだと。
人間関係の不器用さは、ずっと変わっていないのだ。
「愛称が『姫』って、ユッキー嫌がってそう……」
そう笑ったものだ。
翌日である有馬記念の日も、多くの視線が注がれた。
次の第11レースは、中央競馬の年の最終レースである。
優姫が乗るこのレースへの注目度は、例年よりも段違い。
しかし昨日とはまた違い、今度は最後の直線で差して、見事に勝利を果たした。
彼女にはプレッシャーはないのか。
少なくとも穂乃果の知る限りでは、まともに感じたことはないと思う。
馬を走らせるためには、優姫にとって自分のプレッシャーなど、完全に無用のものであったのだろう。
インタビューで優姫は、本当に優姫らしいことを言っていた。
「馬が良かったので、邪魔しないようにしていた」
ぶっきらぼうに聞こえるところが、本当に彼女らしい。
彼女にとって騎乗している間、馬は相棒ではなく、自分の半身となるという。
妙に難解な言い回しもしたが、優姫はそう説明をしていた。
努力や根性でどうにかなるものではない、人間を超えた領域。
穂乃果が競馬学校で感じた違和感――それは、単なる嫉妬ではなかった。
一般家庭の出身である優姫が、奇妙なほどに馬に慣れすぎていることへの、畏怖にも近い感情だった。
トップジョッキーに匹敵するというよりは、完全に異質。
あるいは彼女は、まだ誰も辿り着けない、人間を超えた領域に立っているのではないか。
春を迎えれば、クラシック戦線が始まる。
競馬新聞や競馬雑誌の見出しには、また「天海優姫」の名が躍るのだろう。
勝てば勝つほど評価されるのが、この世界。
調教から大量に、彼女は今日も馬に乗っている。
馬の背に乗るとき、彼女は人ではなく、風になる。
やがて優姫は何かもっと、競馬の世界に革新をもたらすのではないか。
少なくとも同期の面子は、そう思ったはずだ。
(けれどまた、勝ってみせる)
穂乃果はそれを願い、風に向かって走り続けている。
いつかもう一度、同じ風を掴むために。
※1 ハンデ戦
競馬のハンデ戦(ハンデキャップ競走)とは、出走馬の能力差をできるだけ均等にするために、各馬に異なる斤量(負担重量)を課すレースのこと。
強い馬ほど 重い斤量を背負い、力が劣る馬ほど 軽い斤量を背負う。
比較的アメリカのレースに多く、日本では主流とまで言われないが存在する。
なお重すぎるハンデを背負ったため、予後不良となった名馬としてテンポイントなどが有名である。




