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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
一章 三冠の幻影

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第17話 稲妻轟く

 同じトレセンであっても、栗東と美浦とでは空気が違った。

 昔からの定説では、保守の美浦、革新の栗東とも言われていたものだ。

 それは20世紀も80年代、坂路(※1)の利用から始まっていた。

 だが現在ではその力関係は、急激に接近している。

 一部では逆転している、とも言われるような状況なのだ。


 美浦の大改修による坂路の設置。

 そして近隣の育成牧場で、育成をするアドバンテージ。

 この育成牧場に関しては、栗東にも同じく存在する。

 優姫が通っていたしがらきなどがその代表例だ。

「まあそのあたりは、栗東も変わらないだろうが」

 そう優姫に説明するのは綿貫である。


 四日間の騎乗停止。

 だがそれがなくても、どのみち乗れなかったであろう。

 優姫が聞いていたのは、綿貫が負傷したということまで。

 どの程度の負傷かは聞いていなかったのだが、膝の打撲が当日には分かっていたこと。

 翌日に改めて確認すると、肋骨にヒビが入っていた。


 ジョッキーは他のどのスポーツと比べても、事故率が高いと言われている。

 その理由の一つには、ジョッキーは極度の減量を行っているため、体脂肪率が低く骨も脆く、つまりは耐久力がないからだ。

 ただそうでなくても、時速70km/hで500kgの動物が走っている競技など、危険に決まっているであろう。


 綿貫が乗れない分まで、調教に乗せてもらえてラッキーな優姫である。

 もちろん一番の課題は、ユニコーンSに出走するライガースラッシュだが。

「天海、スラッシュは基本的には砂を被るのが嫌いな馬なんだ」

 そう説明する綿貫であるが、普通の馬は全てそうである。

 たまに砂に汚れるのが好きな、変わった馬もいたりするが。

「だが同時に砂を被ると、強烈に怒って前を抜こうとする」 

 やる気がなくなる馬もいる中で、それは素晴らしい勝負根性だ。


 既に調教で乗って、能力は分かっている。

 だが気性に関しては、レースにならないと分からない部分もある。

 それをこうやって優姫に教える。

 もしもユニコーンSに勝利してしまえば、自分から優姫がお手馬として奪うかもしれない。

 だがこのレースに勝てば、という話は全く出ていない。


 ダートのレースとなると、中央の強い馬でも地方で走ることがある。

 基本的にはダートは地方が行っていて、日本独自の規格(※2)のGⅠも、多くは地方であるのだ。

 そして地方と言っても、ほとんどは南関東。

 それ以外にも東日本に、高額レースは集中している。

 つまり週末以外は栗東で調教に乗っている、優姫が平日開催の地方競馬に乗るのは、かなり手間がかかるわけだ。


 東京ダービーにしても、南関東の大井競馬場で行われる。

 平日開催であるので、中央のレースと重なるわけではない。

 だが移動などの負担は、確かに美浦の方が楽であろう。

 そんな些細な疲労など、気にしないぐらいにジョッキーは、これでも鍛えているものであるが。

 結局のところ綿貫が行くなら、他の馬も乗せてもらえる。

 優姫ではまだそこまで信用がない、というのが一番大きいだろう。


 ライガースラッシュの調教は無事に終えた。

 本番の京都のダートコースは、優姫も相当に乗っている。

 これで準備は完了と、優姫は栗東に戻ろうとする。

「天海騎手、この後はもうすぐにお帰りに?」

 そう声をかけてきたのは、厩務員とは思えないスーツの男だった。

「はい、その予定です」

「もしご予定に余裕があれば、私共の育成牧場をご覧になりませんか?」

 そして差し出された名刺には、SBCファームの名前が書かれてあった。




 21世紀になってとっくに、四半世紀が過ぎている。

 その間に競馬の状況は、本当に大きく変わったものだ。

 まだ2010年ごろまでは、夏場は北海道へリフレッシュ、という馬もそれなりにいたのだ。

 今もいないわけではないが、昔ほど夏季の北海道は、馬にとって優しい気候を保っていない。


 千葉県に作られたSBCファームは、元は人間向けのトレーニング施設の会社であったという。

 その人間相手のメソッドを、サラブレッド向けにしたのが、SBCファーム。

 休養もするがそれ以上に、育成に力を入れている。

 また治療や療養のための人材や設備は、それこそ他の育成牧場以上。

 これは南関の地方競馬や、また海外遠征や日本レースに出場する海外馬など、空港とのアクセスも考えて作られた。

 もちろん一番には、地質や水質を考えて、場所は選定されたものだが。


 それを所持する親会社が南関SSホールディングス株式会社という。

 代表取締役の会長と筆頭株主から、その名字の頭文字のアルファベットを重ねたという分かりやすい由来。

 その中で競走馬関連の子会社がSSRC。

 これもSSレーシングだけだと、同じ名前の馬主がいたりする。

 SSRCはSSレーシング・コーポレーションの略称なのだ。


 優姫の常識においては、サラブレッドの育成というのは、馴致から初期育成までは生産牧場でもやっていた。

 そこから厩舎に入るまではもう、専門の育成牧場に任せる流れになっていた。

「弊社では海外遠征が多くなってきてから、そのサポートのための施設という面が強いですね」

 あとは微妙であるが、茨城県でさえ最近、少し熊の出没が目立つ、というのも条件となっている。

 千葉には基本的に熊は出ない。


 そこには美浦や栗東のトレセンをも凌駕する、最新鋭の設備が整っていた。

 全天候型坂路コースは、傾斜とウッドチップの厚みが、ミリ単位で管理されている。

 ミストと酸素カプセルで競走馬の疲労回復を科学的にサポート。

 さらにバイオメカニクス解析などで各馬の歩様をカメラで分析し、最適な蹄鉄を選択。

 これは確かに人間の技術を、馬に応用したものであろう。




 案内された優姫は、SBCファームとその背景にある、SSRCという馬主の巨大さを知ることになる。

 いやそれは逆で、SBCファームがあったから、SSRCという法人馬主を作ったのか?

(一番最初は、社長が馬主になったことか)

 栗東からしてみると、関東の動きは少し遠い。

 もちろん競馬学校で、相当に学んではいる範囲だ。

 ただこのあたりJRAの外の施設のため、地縁血縁、あるいは人脈に属することなので、優姫の知識も最新版にアップデートしないといけない。


 背景にあるのは千葉を中心とした、南関東に影響を持つ企業。

 当初は農業法人から始まっていたのだが、そのインフラを整えるために土木建築にも手を出した。

 そこで手に入れたノウハウに、アメリカの知識も加えて、外厩施設として誕生したわけである。

 金とコネさえあれば、優姫もやってみたいことだ。

 唯一の不満があるとすれば、生産は他に任せていることか。


 競馬というのはかつて、金持ちの旦那衆の、趣味であり道楽でありロマンであった。

 これに対して生産農家の方も、一頭や二頭の繁殖牝馬を抱え、その産駒だけでやっていたという零細の時代がある。

 馬産は保護されていたのだ。

 今となってはそれも、相当の市場原理の中に入っているが。


 当たり外れの大きな生産ではなく、育成や療養などをメインとするのは、むしろ良い選択なのかもしれない。

 経済原理だけを考えれば、確かなことなのだろう。

 しかしそこには血統を継いでいくという、さらに大前提となる馬産の基本がない。

「やあ、ようこそ」

 あちこちを案内された優姫は、その後にSSRCの社長に会う。

 モーダショーの青葉賞でも会った、ライガースラッシュのオーナーである。


「感想はどうかな?」

 にこにことした笑顔は、どこかまだ少年めいている。

 まあ馬に関わる人間であると、珍しいものではない。

「生産はしないんですか?」

「うちはマーケットブリーダーではないからね。ただピンフッカーはしてるよ」

 ピンフッカーというのは、日本ではあまりメジャーではない。

 未完成の若駒を安く買い、短期間で調教・育成を施して、高値で転売することである。

 正確にはピンフッキングが行為で、ピンフッカーが行為者である。


 日本ではあまりメジャーな存在ではない。

 どうしても若いうちに買ってしまい、そこから成長を見守る、という楽しみ方の方が長かったからだ。

 それを別としても、牧場から馬主へというルートが、ずっと長く確立していた。

 ただ最近では日高でも、この例が少しは出てきている。

 シュガーホワイトも比較的、売れ残った部類であるのだ。


 


 こういった育成牧場では、ピンフッキングとは相性がいいかもしれない。

「今はもう、トレセンは仕上げの場所でしかないそうです。本当の体作りはこっちで終わって、調整をするのが調教師の仕事かと」

 スタッフの言葉に、優姫は複雑な思いを抱く。

 それは確かに間違いない事実だ。

 優姫にしてもシュガーホワイトに乗りに、しがらきまで向かっていたのだから。

 しかしなんとなく腹が立つのも事実である。


「厩舎の個性がなくなる」

「それが現代競馬の『正解』ですよ天海騎手。……まあ貴女が勝った皐月賞は、ちょっと珍しい例外でしたが」

 他の乗り役では満足しないから、わざわざ優姫は外厩まで乗りにいったのだ。

 実際に優姫以外が調教していたら、あの最後の直線で、シュガーホワイトは負けていた可能性が高い。

 そもそも日高でシュガーホワイトを見つけたのが、優姫であるという大前提もある。 


 優姫はシュガーホワイトの顔を思い浮かべる。

 あの可愛い芦毛はこのシステマチックな世界で、なおも「個」としての輝きを放っている。

「まあそれはそれとして」

 スタッフを制したオーナーは、あまりその瞳の中に、合理の冷たさを感じない。

「海外への遠征にしても、またそこからの帰国にしても、あるいは故障にしても、ここが一番今は、人員も設備も充実してるからね」

 大レースは関東でも行われるのだ。

 そこで故障した場合、厩舎に戻すのではなく、こちらで治療をした方がいい、というわけである。


 千草は確かに獣医だ。

 だが馬に関するあらゆる知識を、網羅しているというわけではない。

 そもそもサラブレッドの手術経験などが、ほとんどないのだから。

 サラブレッドというのは多くが、手術するほどの故障をすると、そのまま安楽死させるほどに、生物としては脆いものだ。

 重要なのはその前兆を見逃さないことである。


 ただこういった設備は、確かにあればあったでいいだろう。

 過去には多くの名馬が、予後不良で命を失っている。

 現在の医療水準であれば、助けることが出来た馬は多いとも言われているのだ。


 日帰りで栗東に戻る新幹線の中、優姫は考える。

 ずっと前から確かに、大牧場の強力な育成に関しては、知っているつもりであった。

(でもここまで、今は進んでる)

 何も悪いことではない。

 だがそこまで合理で考えられるほど、競馬の世界は簡単ではない。

 そのあたり優姫は、むしろ競馬の世界において、保守的な人間であるのかもしれない。


 深夜、栗東トレセンに戻った優姫は、吸い寄せられるように鳴神厩舎の馬房へと向かった。

 馬たちは音に敏感で、人間の気配にも敏感だ。

 もはや自然交配も不可能な存在であるのに、そこまで神経質な存在。

 だがシュガーホワイトは、立ったままぐっすりと眠っていた。

 ……神経質ってどこいった?


 馬房の入り口の棒に、顎を乗せて眠っている。

 だが少し鼻がぴくぴく動くと、ゆっくり目を開ける。

 基本的に馬は、匂いで最終的に、誰かを判断するのだ。

 優姫の持つ匂いに、わずかな感情の匂いが乗る。

 そしてそのまますぐに、また眠りに落ちるシュガーホワイトであった。

 



 ユニコーンステークス(GⅢ)1900mダート。

 世間の注目は圧倒的に、明日の天皇賞の方が高いだろう。

 だがこのレースは、天海優姫が初めて乗るダートの重賞という書き方がされていたりする。

 既に乗って勝ったリステッドは、故意に忘れられているらしい。

 あちらは乗り替わりもあったのだから、無理もないのかもしれないが。


 ライガースラッシュは本日2番人気。

 一番人気は地方の大井から遠征してきた「黒い重戦車」ことブラックベレーだ。

 パドックから騎乗し、パカパカと歩いていくライガースラッシュ。

 どこか上の空にも見える優姫に、年配厩務員が声をかける。

「そういやあライガースラッシュの馬名の由来を知ってるか?」

「ライガかライガーが冠名(※3)で、それにスラッシュを付けただけじゃ?」

「お前さんが生まれるはるかに前に、テレビでやってたアニメがあってな。その必殺技だったんだよ」

「……ああ……」

 なんだか知っているのは、なぜなのであろうか。


 関係のないことでジョッキーをリラックスさせようとする。

 そういったベテランの心遣いは分かった。

 だから優姫も言うのだ。

「勝ち負けしてきます」

 そしてターフの芝の内側、砂の中へ入っていく。


 優姫はどちらかというと、芝の方に乗ることが多い。

 だが別にダートの勝率が悪いわけでもない。

 ただ芝とダートでは、ある程度の乗り方に違いがあると分かっている。

(スタートが大切)

 ゲートが開くと同時に、激しい先行争いが勃発した。


 砂の重さが手綱を伝わり、優姫の腕に伝わってくる。

 この砂から足を抜き出す、パワーがダートには必要になる。

 特定の血統などは全く、ダートでは勝てなかったりする。

 もっとも芝で勝てるならば、わざわざダートを使わないというのが、長い間の競馬の常識であったのだが。


 優姫は位置取りに注意する。

 綿貫の言っていた通り、砂を被ればライガースラッシュは、やる気をなくすか怒るのだろう。

 怒らせるにしても、このタイミングではない。

(今はまだ前めにいるだけで……)

 それでもある程度は手綱をしごき、あまり後ろにならないようにする。

 基本的にダートは前残りの競馬が多いのだ。

 

 3コーナーから4コーナーへ。

 このあたりから前に進出していく。

 進行方向の変化により、前の馬が砂を掻く。

 顔面にそれを浴びたライガースラッシュは、確かに不快感から怒りを呼び起こしたようであった。

(今!)

 手綱をしごき体を前後に揺らし、馬体の動きを補助する。

 たかが人間の女の力だが、競馬ではそのわずかな違いが勝敗を分ける。


 少し外には同じように、ブラックベレーが前に進出。

 最後の直線ではじりじりと、2頭が先頭争いに残る。

(残れ……残って!)

 鞭の連打はさっさと終えて、後は全力で追っていく。

 ライガースラッシュの気性は、ブラックベレーという強敵を得て、闘争心へと昇華された。


 残り100m。

 手綱だけではなく鬣まで握って、優姫は必死で追っていく。

 華麗な乗馬技術も、確かに必要なものだろう。

 だが勝てるならば最後には、パワーで勝ってしまえばいい。

 パワーがなければ勝てない、というレースは絶対にある。


 ゴール板を通過した瞬間、どちらが勝ったか判別できない。

 首の上げ下げで、勝負は決まる。

 だが騎乗したジョッキーは、わずかな差でどちらが勝ったか、ちゃんと分かったりするものだ。

 もっとも今回の優姫は、追うのに必死で最後まで、それを確認する余裕はなかった。

 スロー映像がモニターに映し出される。

 わずか5cm。ライガースラッシュの鼻先が、ブラックベレーを抑えていた。




「……勝った」

 大きく息を吐いて、ウィナーズサークルに入る。

 シュガーホワイト以外の馬での、初めての重賞勝利。

 これまでとは分野が違う、ダートでの勝利である。

 天海優姫はダートも乗れる。

 成績を見れば明らかなことだが、改めてそう認識した人間は多かった。


 砂にまみれた優姫が、ゴーグルを外す。

 その姿をカメラが執拗に追うのは、そこにも勝利の輝きがあるからだ。

 史上最年少の皐月賞ジョッキーが、今度はダートの重賞をも手中に収めた。

 そのニュースは普段よりも大きく取り上げられて、GⅠ以外でのレースでは珍しくも、一般のニュースで取り上げられた。

 第四次競馬ブーム。

 誰かが口にしたその言葉を、さらに大きく燃え上がらせることになる。

 しかし優姫の視線は既に、大いなる日本ダービーの栄光へと向いていた。


綿貫の代打として優姫はユニコーンSに出走するライガースラッシュの調教を引き受ける。そこで彼女は「SBCファーム」を訪れ、合理化・システム化が進む現代競馬の最前線を目の当たりにする。育成と効率を重視する外厩の在り方に戸惑いを感じつつも、優姫は栗東で待つ愛馬シュガーホワイトとの絆を再確認し、己の信じる騎乗を貫く決意を固める。



 ※1 坂路

そのまま坂道のことである。坂を上ることでスピードを出さずに後肢を鍛えられるため、これを使って結果を出す調教師が多く出た。


 ※2 日本独自の規格

パート1国である日本のGⅠやGⅡは基本的に、世界的なものである。

だが地方競馬の格付けは違うところもあり、たとえばJpnⅠというGⅠであったりする。なお地方競馬なのにGⅠの格付けがされているものもある。


 ※3 冠名

冠名かんむりめいとは、馬主が自分の所有馬の名前に付ける「特定のフレーズや単語」のこと。メジロ、メイショウ、サクラなどは有名である。現在ではクラブ馬にも冠名があるが、最近は減少傾向にある。

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