第16話 遥かなるダート・ロード
優姫の騎乗は巡り巡って、面白い運命を導いている。
日本最大の馬産地である北海道。
その中でも特に、馬産の集中しているのが、日高地方である。
日高の中でも浦河にある、小さな牧場。
モーダショーの生産牧場というのは、家族経営の牧場であった。
「3着かあ……」
今年はひょっとしてダービーに出せるのでは、などという夢があった。
今もまだ完全に途切れたわけではないが、おそらくは無理であろう。
この規模の牧場であれば、生産した馬が中央で2勝しただけでも、充分な偉業なのである。
勝てないまでもダービーに出走しただけで、夢を見れるのがホースマンだ。
多くの馬は1勝もせずに引退し、その後はどうなっていくか。
「あんた、やっぱりあの子も引き取っておいた方が良かったんじゃない? キューちゃんのいい後継になったでしょうに」
モーダショーを出した繁殖牝馬、ワンダーキュート。
代々の牝系に、ほどよく海外の血も入ってきた、牧場の歴史そのものの牝系と言えるであろう。
モーダショーの前にも、中央や地方で多くの勝ち馬を出してきた。
だがさすがに高齢になってきて、次代のことも考えなければいけなくなっていたのだ。
「そうは言ってもなあ、中央で12走して、掲示板がやっとだったからなあ」
馬主からは牧場に戻すか、という話はあったのだ。
その時には姉の馬がいたので、断ったという経緯である。
そちらは中央から転じて地方で、勝ち上がった馬という実績も持っていた。
「気性難で大変だったしよう」
「そうなんだけどねえ」
せっかく繁殖に回した姉は、その後の出産で死んでしまっている。
「馬主さんにお願いして、やっぱり戻してもらったら? 確か乗馬クラブに引き取られたんでしょ?」
「あの気性でまだ、残してもらってるかなあ……」
牡馬の競走馬が引退すれば、その後の余生はどうなるか。
およそ四割から五割は、用途変更で使われていくことになる。
意外と多いと思うかもしれないが、逆に言えば半分ほどは、そのまま処分されてしまう。
それに比べると牝馬は、およそ半分が繁殖に回され、血がつながっていく。
特に昨今の日本の生産は、年々少しずつ多くなっているのだ。
ワンダーキュートの父はモーリス、母父はマンハッタンカフェ。
さらに遡ればトウショウボーイにシンザンと、内国産種牡馬(※1)の結晶とも言える。
昨今は大牧場であると、繁殖牝馬を外国から輸入する。
だが日本の中小馬産の基本はやはり、どの種馬を付けるか、というところにある。
スプラッシュヒットを付けて生まれた、モーダショーの全姉(※2)。
「あの子が秋にも走ったら、それこそもったいないじゃない」
「そうだわなあ……。気まずいけど、お願いしてみるか」
実際のところ馬主としても、自分の持った馬が繁殖として残るのは、嬉しいことであるのだ。
そのために中央から地方に移して、実はまだ現役を続けていたということ。
30戦以上走って、まるで故障をしなかったその馬体。
彼女がその価値を高めるには、まだもう少しの時間が必要であった。
日本の競馬というのは、極端に分けてしまえば二つになる。
中央競馬と地方競馬だ。
この二つは主催している団体が違う、というのが制度的な違い。
そして競馬として違うのは、中央が芝メインで地方はダートメインという、コースの違いが存在するのだ。
ややこしいことだが、この芝とダートの違いも、欧米の芝やダートとは違う。
アメリカのダートは土というかパウダーであり、日本のダートは砂。
そして日本のクラシックなど、王道路線は全て芝であったのだ。
優姫が騎乗を依頼されたユニコーンSは、ダートの3歳レース。
そしてトライアルレースでもある。
地方競馬で行われるダート三冠競争。
その二冠目ともなる東京ダービーの出走権が、1着の馬に与えられる。
「いい話だけどね」
栗東に戻ってきた優姫は、当然ながら千草に報告する。
千草は青葉賞には、当然だが一緒には行っていない。
あれは三ツ木厩舎の案件であり、鳴神厩舎はその間も、普通に関西のレースに出しているのだ。
今週は出していなかったが、レースに適したものがあれば、ローカル開催(※3)にも出す。
今の調教師の仕事というのは、馬を鍛えると言うよりは、馬を管理する方向性になってきている。
そしてそういった業務というのは、千草の得意とするところなのだ。
三ツ木厩舎に挨拶に来る優姫。
3着というのはあまりにも、惜しすぎる結果である。
「やっぱりダートにした方がいいかねえ」
「いやいや」
優姫もモーダショーについては、色々と調べているのだ。
「半兄や半姉は少し勝ってますけど、全姉の成績は微妙です」
そこまでジョッキーが調べているのか、と三ツ木はちょっと驚く。
実際のところ確かに、そこまでする騎手も他にいる。
だがまだ二年目の新人が、そんなところにまで手が届いているとは。
今は昔と違って、データベースが充実している。
モーダショーの母ワンダーキュートは、中央で走ってオープンに手が届くところで故障して引退。
繁殖に上がってからは、それなりに勝てる産駒を出している。
「30走か。その弟が重賞クラスを走るなら、繁殖に上がってもいいんじゃないかな」
生産の現場までは、優姫がまだ関知するところではない。
「う、中央でも12戦走ってるのか」
これで勝てないというのは、そもそも走る才能がなかったのだろう。
重賞馬やGⅠ馬の兄弟が、普通に1勝もできずに引退すること。
それは珍しくないのだ。
ただモーダショーの父スプラッシュヒットは、アメリカのダートで結果を出している。
その父はまた芝馬なので、交互に適性が発現しているような気もする。
「おかげで週末のユニコーンステークスにも乗る予定です」
「ダートかい」
三ツ木あたりの年齢であると、まだダートは二軍という印象があるのだろうか。
日本のダートのレベルは、芝とは比べるものではない。
足元が弱いためにダートを使って、そこで結果を出す馬もいる。
しかし基本的に国内の中央は、芝路線が整備されている。
もっとも日本のダート馬も、近年では中東のみならず、アメリカでさえ結果を残してきているのだ。
ブリーダーズカップを勝てるようになった。
もっともその父系の直系は、サンデーサイレンスであったりする。
ユニコーンSに勝てば、東京ダービーに出走できる。
これは地方競馬のレースであるが、JRAからの招待枠があるのだ。
そこに選ばれるには、いくつかの条件が必要となっている。
ダート三冠の羽田盃での成績。
それ以外でJRAの馬が出られるルートは、まさにこのユニコーンSしかない。
優姫にはあまり、地方競馬の実感がない。
あのあるはずのない記憶の中でも、あやふやなものであるのだ。
(ダート……)
悪い話ではないと、優姫にも分かっている。
重賞に乗れるのは、シュガーホワイトを除けば、これでやっと3走目なのだ。
問題は追い切りに行かなければいけないことだ。
「行きな」
千景はあっさりとそう言ってくれるが。
「別に調教なら、他に乗ってくれるジョッキーはいるしな」
重賞に乗るのならば、必ず背中を知っておくべきなのだ。
茨城県美浦村。
西の栗東に対し、東の美浦というのが競馬界の体制である。
かつては西高東低とも言われ、栗東の馬の方が圧倒的に強い時代があった。
理由は色々と言われるが、複合的な理由であって、これと一つに言えるものではない。
しかし昨今の、美浦の復権の理由は、おおよそ分かっている。
外厩制度が発達したからだ。
優姫の常識でも栗東優位の時代は長い。
いやそれが根底からずっと、続いていたと言ってもいい。
だが今では外厩の存在により、馬を鍛える場所はトレセンだけではない。
周辺の育成牧場で、よりしっかりと鍛えていく。
栗東の馬でさえ、関東のレースの前には、関東の外厩を使う。
そして美浦に入って手続きを終えて、レースに出るということが多いのだ。
今回の場合は直前のため、既に外厩から美浦に、馬は戻っていた。
3歳牡馬、ライガースラッシュ。
アメリカ血統の鹿毛馬は、最初からダートを期待されて入厩している。
(昔はもっと、違ったのに)
2010年代の半ばから、日本の競馬もはっきりと、芝とダートの適性が分かってきた。
それまではずっとダートは、芝で走れない馬のためのもの、という歴史が長かったのだ。
もっともダートというのは、日本の場合は砂であり、芝よりも脚にかかる負担が少ない。
そのため最初からダート、という馬もいたのだが。
決定的であったのは、フォーエバーヤングの登場だろうか。
日本馬ながらケンタッキーダービーに出走し、3着に入ったダート馬。
日本にもダート三冠は整備されたが、日本の2歳ダート王になってからは、それより前にサウジダービーとUAEダービーで優勝。
そこから日本ではなくアメリカの、最高峰のダートダービーに挑戦したのだ。
そして翌年には、サウジカップに優勝。
さらにブリーダーズカップの最高峰、クラシックにも勝ち、日本の歴代獲得賞金ランキングの1位となった。
ダートでも稼げる。
そう言える時代になったからこそ、ダート馬が増えている。
(昔のサウジのレースなんて、王族同士の身内の競争だったのになあ)
勝ったジョッキーは確かに、約束通りの騎乗料はもらえた。
だがそれ以上にその場で、両手の指にはめていた指輪を、こぼれるぐらいに渡されていたりする。
税務署に申告できない、かなり特殊な収入となったものだ。
ライガースラッシュは、脚元が微妙ではないか、と見られた馬である。
ただ父はシニスターミニスター系なので、ダート血統なのは間違いない。
母も中央でデビューはしたが、地方に転厩してそちらで勝っている。
戦績は3戦3勝と、負けなしでここまで来ているのだ。
ユニコーンSに勝って、東京ダービーに勝てれば。
優勝賞金は一億以上であり、中央のGⅡよりもずっと大金である。
(地方はあまり経験がない……)
レースの形態そのものが、かなり違ったりする。
どのみち今回は、綿貫の代わり。
騎乗停止になったものであり、優姫に完全に乗り替わるものではない。
美浦のダートコースで追い切る。
やはりパワーを感じさせるが、なかなかに切れる脚も持っていた。
「どうだい?」
「勝ち負けですね」
ライガースラッシュを管理する調教師、一ノ瀬はそれを聞いて太い笑みを浮かべた。
ダート血統は仕上がりが早い、というイメージが優姫の中にはあった。
だがここまで3戦というのは、確かに少ない勝ち星であろう。
もっともダートの重賞などは、圧倒的に地方の方が多いのだ。
レースにしても基本、芝の三冠が今でも、日本では主流だろう。
「こいつはSBCファームで鍛えられてるからな」
そういう育成兼休養牧場が、千葉には存在する。
美浦の馬が弱いというのは、かつては水が悪いからだとか、坂路がないからだとか言われていた。
しかし外厩によって、積極的なトレーニングはトレセン外で行うことになった。
これは別に美浦だけではなく、栗東でも行われていることだ。
それこそ鳴神厩舎でも、シュガーホワイトを外厩で鍛えている。
(これなら勝てるかな)
優姫は乗り替わりを正式に了解した。
ついでとばかりに、他の馬にも乗せてもらう優姫であった。
※1 内国産種牡馬
国内で生産された馬が種牡馬になること。昔はこれが珍しく、海外からの輸入種牡馬が主流である時代が長かった。
内国産種牡馬の馬が勝てば、加えて賞金が出る時代もあった。
※2 全姉
同じ母親から出た産駒でも、父親も同じ場合を指す。ブラックタイドとディープインパクトは全兄弟。ビワハヤヒデとナリタブライアンは半兄弟、などと使われる。
※3 ローカル開催
中央競馬の中でも主要5場以外の競馬場でのレースを指す。
ただ夏場はローカルが主戦場になったりもする。




