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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
一章 三冠の幻影

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15/21

第15話 運のいい馬

 皐月賞を勝つのは、最も速い馬と言われる。

 スピードの速さだけではなく、仕上がりの早さという意味もある。

 この格言は他の二つのクラシックにもある。

 ダービーの場合は、運のいい馬が勝つという。

 ただこの格言は現在と過去とでは、意味合いが違うとも言われる。


 過去のダービーというのは多頭数制で、30頭前後もの馬が出走していた時代があった。

 そんな中で勝つには、1コーナーまでに10番手ぐらいにはいないといけない。

 すると15番までのゲート内にいなければ、とても勝負にならないという、つまり枠の運があったということだ。

 もっともこれは18頭が上限となった現在なら、あまり当てはまらないことである。

 また26頭立ての16番で、ダービー馬となったシリウスシンボリの例もある。

 20頭立てながら20番の大外から、勝ってしまったトウカイテイオーもいる。


 今の運がいい馬というのは、ならば何を指すのだろう。

(ダービーに勝てる馬の条件……)

 それを優姫はおおよそ知っている。

 そしてそのために今、何をすればいいのか。




 東京競馬場2400m。

 この距離を勝つことは、レースの中でも特別に、意味を持つとされている。

 ダービーのコースのダービーの距離であるからだ。

 紛れが少なく最後の直線で、馬の力を最大限に引き出すことが出来る。

 優姫はヨーイドンはしない。

 今の府中の芝は、確かにそれが一番合ってはいる。

 だからこそより適性の高い馬に勝つために、違う戦法を取らないといけない。


 このコースには特に、目安に出来るポイントがある。

 コースの内ラチのさらに内、馬場の外に大欅が存在する。

 カーブの手前、この位置から直線に入るよりずっと前に、ロングスパートをかけていく。

(そのためにゆっくり走ってきたんだけど)

 この青葉賞はダービーにつながる最後の糸。

 まだ二回しか走っていなかったり、あるいはさらに一回しか走っていなかったりする馬も、出走しているのだ。


 モーダショーはそれに比べると、これが5レース目。

 ただでさえメンタルは強いのに、さらに生来の図太さがある。

 重賞は初めてだから、という注意は確かに当てはまる。

 だがそれは同時に、優姫に対して言ったものだ。

 自分で付けた名前ではないが、名前に優駿の優と、姫という字が入っている。

 お姫様扱いされて、気を抜くなという意味でもあった。


 もちろん優姫としては、そんなつもりで乗ってはいない。

(行こうか)

 カーブの途中からのロングスパート。

 いくつかの作戦は考えていたが、それぞれの馬の位置を考えると、やはりこの方法となる。

 シュガーホワイトも使えるロングスパート。

 しかしモーダショーの場合、コーナリング性能でやや落ちるのだ。


 まだ2勝しかしていない馬に、1勝しかしていない馬。

 そんな中では優姫も、全ての馬を完全に把握しているわけではない。

 むしろよく出走させたな、という馬もいる。

 モーダショーの場合は、シュガーホワイトよりもさらに、キレ負けするところがある。

 だからこそコーナーのカーブが緩い府中では、ロングスパートが効果的なのだ。




 順位を上げて前に進出していく。

 そして直線に入るが、ここまでに既にスピードに乗っている。

 このスピードを維持していく力が、モーダショーの現時点での力。

 もう少し鍛えれば、何か違うものが奥に、秘められているような気もするのだが。


 手ごたえはいい。前には残り4頭。

 正面スタンドからの、大歓声が聞こえてくる。

(あ……)

 この歓声はまずい。

 普段のGⅡであれば、ここまでの歓声は聞こえてこないはずだ。

 だが優姫の存在が、青葉賞の知名度を上げてしまっている。

 ダービーへの出走権を賭けた、最後のレースなのだという。


 前にいた馬が、この大歓声でよれたのだ。

 しかも2頭も同時に。

「ん!」

 優姫は体重をかけて、モーダショーの進路をわずかに変える。

 1頭目は回避、しかし2頭目は完全にはかわせない。

 接触によってモーダショーは歩様が乱れ、スピードにロスが出てしまった。


 残りの直線でもう一度、どこまで足を伸ばすことが出来るか。

 一度落ちてしまったスピードを、もう一度上げることが出来るか。

 今までには見せていないパフォーマンス。

(だけどこの血統なら!)

 奥底に眠っている、爆発力があるはず。

 サンデーサイレンスの5×5・4の血。

 さらに言うなら父の直系は、ステイゴールド。


 爆発的な直線の瞬発力。

 本来ならば持っていたはずのそれは、アメリカ血統で薄められている。

 しかし最後の直線を、消耗戦として考えるなら。


 また少しずつ伸びていく。

 だが優姫が全力で追っても、もう届かない。

 前に3頭がいた4着。

 一応は審議のランプがついていた。




 審議の結果、モーダショーの前にいた3頭のうち、接触した1頭は降着。

 だがそれでも3着にまでしか上がらない。

「すみません」

「あ~、仕方ないか」

 オーナーもしょんぼりと、肩を落とすのである。


 シュガーホワイトであれば、さらに内ラチに沿ったコースを走れただろう。

 だがモーダショーの脚質としては、徐々にスピードを上げていくタイプ。

 ここはシュガーホワイトと似ているのが、不思議と言えば不思議かもしれない。

 モーダショーの父のスプラッシュヒットは、アメリカのきついコーナリングに強かった馬だ。

 ならばモーダショーも、そういったコーナリング性能を持っていてもおかしくない。

(母方の血か)

 シュガーホワイトは母がアメリカ産馬。

 モーダショーは日本産馬で、そこが複雑に絡み合っているのか。


 あのまま加速が持続していれば、間違いなく2着までには入っていた。

 しかし前の2頭は、モーダショーになんの不利も与えていないので、これ以上着順が上がることはない。

 もう少し早く仕掛けても良かったか。

 ただいくらカーブが緩いといっても、モーダショーの脚質ではあそこが限界か。


 敗北には間違いない。

 だが後につながる敗北だ。

 今の府中2400を経験し、そして本番を戦うことが出来る。

 シュガーホワイトで走るための、練習台になったと言えようか。


 ダービーに集まる観客は、今日の比ではない。

 しかし馬の経験も、間違いなく上になっている。

 今回のような事故は、起こらないはずである。

(他人を信じすぎた)

 それが今回の敗因であった。


「悪い」

 ぽつりとこぼれた声が耳に入る。

 そそくさと去っていく背中を、優姫は視線だけで追った。

 競馬では普通に起こることで、降着という処分を受けている。

 さらにジョッキーは騎乗停止4日と、制裁を受けているのだ。

 それでもモーダショーのダービーは、ほぼ消えてしまった。

(制裁も昔と比べると、少し違う)

 どのみち2着には上がらないのは確実なのだ。


 今日の優姫の仕事は終わったはずであった。

 あとは明日のレースに乗って、栗東に帰る。

 そのはずであったが、控室に戻っていた優姫を、JRA職員が呼びにくる。

「天海騎手、ジョッキーの乗り替わりの要請なのですが」

 優姫は無言で、その次の言葉を待つ。

「前のレースで接触した綿貫騎手ですが、足を負傷したということで、調教師から依頼が来ています」

 なるほど、こういうこともあるのか。

 騎乗停止となっても、その開催中には乗れる。

 だが自分のミスの償いに、純粋な怪我もあるなら、それはありうることだろう。




 ダートのレースであった。

 これを優姫は勝って、本日は2勝。

 3着が2回であるので、全て馬券圏内に持ってきた。

 レースを見るだけであったり、あるいはオーナーであったりすると、やはり今日はあの3着が痛い。

 だが馬券で鎬を削る人間からすると、優姫は抜群の安定感ということになる。

 また走らせて賞金を咥えてきてくれるので、無理なく馬主を続けていくことが出来る。


 翌日も乗鞍があるので、その日は調整ルームに宿泊。

 そして乗り替わりだが、綿貫の分がまたあった。

 どうやら昨日の時点では、まだ日曜に乗るかどうかが微妙であったらしい。

 しかし朝になってもまだ調子が悪く、病院への移動。

 もちろん優姫の乗っているレースもあるので、そこは他のジョッキーに乗り替わりとなっているが。


 結果的に日曜日は、5レースも乗ることになった。

 その中にはダートのレースが多く、リステッド(※1)の競争にまで乗ることになった。

 これは美浦の調教師が、栗東の優姫に依頼しているということで、かなり異例なことである。

 さらに異例であるのは、条件戦と違い、リステッドレースは格付けのつかないだけで重賞競走。

 つまり斤量特典がないので、軽く乗れない優姫を使う理由がない。

 だが調教師というか、オーナー側に理由があったのだ。


 虎縞の勝負服。

 モーダショーのオーナーが、美浦の方で持っている馬である。

 美浦と栗東の両方に、彼は馬を預けている。

 正確には法人扱いであるが。

「オーナーの要望だから、まあ軽く回ってきてもらったらいいぞ」

 ほぼ面識のない調教師から、こんなことを言われる。

「とりあえず、どういう馬なのかを教えてください」

 乗ってしまえばおおよそ、それで分かることは分かるのだが。




 かなり異例なことになった。

 だがこの開催では、いくつか優姫に有利なことがあったのだ。

 たとえば穂乃果は、ローカルと呼ばれる福島の開催に行っている。

 すると斤量が軽く乗れる、女性騎手が少なくなっている。

 もう一人いる女性騎手は、見習い特典が終わっていたりする。

 ならば優姫の方がいいではないか、という話になるのだ。


 浅いファンであれば、GⅠレースかせいぜい、重賞ぐらいにしか興味はないだろう。

 ただ競馬というのは下級条件の、その上澄みに重賞レースがあるのだ。

 優姫はその条件戦で勝ちまくっている。

 その優姫に乗り替わりがあったことで、馬券を当てているファンがいる。

 そういった面々にとっては、むしろ乗り替わりでラッキーと思ったかもしれない。

 いくら斤量の有利があっても、しっかり乗れている優姫。

 だからこそ特典なしの、皐月賞も勝てた。

 さらに言えばモーダショーで、不利を受けての3着。

 このあたり美浦の調教師も、ある程度は実力を認めてくれた、ということだろう。


 4歳以上のダートオープン競争を勝利。

 やはり重賞で勝つのは、信用の増加が違う。

 さらに言えば賞金が高いので、その点でもありがたい限りである。

「天海、ちょっといいか」

 そう呼び止められたのは、全レースが終了し、ジョッキーたちも解放された時である。

 やっと自由の身になって、これから栗東へと帰還。

 モーダショーをダービーに連れていけなかったな、とちょっと反省はしていた。


 優姫をオープンに乗せた調教師が、微妙な表情で立っていた。

「お前、来週の水曜日、美浦の調教に来れないか?」

 言っていることの意味は分かる。

 これはつまり美浦の馬を、関西のレースで使う場合、ジョッキーに馬を確認してもらうための追い切りを依頼する、というものだ。

「ユニコーンSに、うちの馬を出す予定なんだが」

 京都開催の重賞に、美浦からの参加。

 その背中に栗東の騎手を使うというのは、珍しいことではない。

 だがこれまでの優姫にはなかったことで、これはもっと実績を積んだ騎手にこそ、かけられるような案件だ。

「オーナーが気に入ったみたいでな」

 たとえ勝てなくても、道を切り開くことはある。

 少なくとも優姫個人は、この開催で大きく、関東でも認められたらしい。

「まあ、綿貫が乗れなくなったんで、仕方ないんだが」

 今度こそ綿貫騎手に、心の底から感謝する優姫であった。

※1 リステッド

 Gの格付けはついていないが、実質的には重賞。

 つまり斤量特典がないため、優姫が乗るのはかなり珍しい。

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