第15話 運のいい馬
皐月賞を勝つのは、最も速い馬と言われる。
スピードの速さだけではなく、仕上がりの早さという意味もある。
この格言は他の二つのクラシックにもある。
ダービーの場合は、運のいい馬が勝つという。
ただこの格言は現在と過去とでは、意味合いが違うとも言われる。
過去のダービーというのは多頭数制で、30頭前後もの馬が出走していた時代があった。
そんな中で勝つには、1コーナーまでに10番手ぐらいにはいないといけない。
すると15番までのゲート内にいなければ、とても勝負にならないという、つまり枠の運があったということだ。
もっともこれは18頭が上限となった現在なら、あまり当てはまらないことである。
また26頭立ての16番で、ダービー馬となったシリウスシンボリの例もある。
20頭立てながら20番の大外から、勝ってしまったトウカイテイオーもいる。
今の運がいい馬というのは、ならば何を指すのだろう。
(ダービーに勝てる馬の条件……)
それを優姫はおおよそ知っている。
そしてそのために今、何をすればいいのか。
東京競馬場2400m。
この距離を勝つことは、レースの中でも特別に、意味を持つとされている。
ダービーのコースのダービーの距離であるからだ。
紛れが少なく最後の直線で、馬の力を最大限に引き出すことが出来る。
優姫はヨーイドンはしない。
今の府中の芝は、確かにそれが一番合ってはいる。
だからこそより適性の高い馬に勝つために、違う戦法を取らないといけない。
このコースには特に、目安に出来るポイントがある。
コースの内ラチのさらに内、馬場の外に大欅が存在する。
カーブの手前、この位置から直線に入るよりずっと前に、ロングスパートをかけていく。
(そのためにゆっくり走ってきたんだけど)
この青葉賞はダービーにつながる最後の糸。
まだ二回しか走っていなかったり、あるいはさらに一回しか走っていなかったりする馬も、出走しているのだ。
モーダショーはそれに比べると、これが5レース目。
ただでさえメンタルは強いのに、さらに生来の図太さがある。
重賞は初めてだから、という注意は確かに当てはまる。
だがそれは同時に、優姫に対して言ったものだ。
自分で付けた名前ではないが、名前に優駿の優と、姫という字が入っている。
お姫様扱いされて、気を抜くなという意味でもあった。
もちろん優姫としては、そんなつもりで乗ってはいない。
(行こうか)
カーブの途中からのロングスパート。
いくつかの作戦は考えていたが、それぞれの馬の位置を考えると、やはりこの方法となる。
シュガーホワイトも使えるロングスパート。
しかしモーダショーの場合、コーナリング性能でやや落ちるのだ。
まだ2勝しかしていない馬に、1勝しかしていない馬。
そんな中では優姫も、全ての馬を完全に把握しているわけではない。
むしろよく出走させたな、という馬もいる。
モーダショーの場合は、シュガーホワイトよりもさらに、キレ負けするところがある。
だからこそコーナーのカーブが緩い府中では、ロングスパートが効果的なのだ。
順位を上げて前に進出していく。
そして直線に入るが、ここまでに既にスピードに乗っている。
このスピードを維持していく力が、モーダショーの現時点での力。
もう少し鍛えれば、何か違うものが奥に、秘められているような気もするのだが。
手ごたえはいい。前には残り4頭。
正面スタンドからの、大歓声が聞こえてくる。
(あ……)
この歓声はまずい。
普段のGⅡであれば、ここまでの歓声は聞こえてこないはずだ。
だが優姫の存在が、青葉賞の知名度を上げてしまっている。
ダービーへの出走権を賭けた、最後のレースなのだという。
前にいた馬が、この大歓声でよれたのだ。
しかも2頭も同時に。
「ん!」
優姫は体重をかけて、モーダショーの進路をわずかに変える。
1頭目は回避、しかし2頭目は完全にはかわせない。
接触によってモーダショーは歩様が乱れ、スピードにロスが出てしまった。
残りの直線でもう一度、どこまで足を伸ばすことが出来るか。
一度落ちてしまったスピードを、もう一度上げることが出来るか。
今までには見せていないパフォーマンス。
(だけどこの血統なら!)
奥底に眠っている、爆発力があるはず。
サンデーサイレンスの5×5・4の血。
さらに言うなら父の直系は、ステイゴールド。
爆発的な直線の瞬発力。
本来ならば持っていたはずのそれは、アメリカ血統で薄められている。
しかし最後の直線を、消耗戦として考えるなら。
また少しずつ伸びていく。
だが優姫が全力で追っても、もう届かない。
前に3頭がいた4着。
一応は審議のランプがついていた。
審議の結果、モーダショーの前にいた3頭のうち、接触した1頭は降着。
だがそれでも3着にまでしか上がらない。
「すみません」
「あ~、仕方ないか」
オーナーもしょんぼりと、肩を落とすのである。
シュガーホワイトであれば、さらに内ラチに沿ったコースを走れただろう。
だがモーダショーの脚質としては、徐々にスピードを上げていくタイプ。
ここはシュガーホワイトと似ているのが、不思議と言えば不思議かもしれない。
モーダショーの父のスプラッシュヒットは、アメリカのきついコーナリングに強かった馬だ。
ならばモーダショーも、そういったコーナリング性能を持っていてもおかしくない。
(母方の血か)
シュガーホワイトは母がアメリカ産馬。
モーダショーは日本産馬で、そこが複雑に絡み合っているのか。
あのまま加速が持続していれば、間違いなく2着までには入っていた。
しかし前の2頭は、モーダショーになんの不利も与えていないので、これ以上着順が上がることはない。
もう少し早く仕掛けても良かったか。
ただいくらカーブが緩いといっても、モーダショーの脚質ではあそこが限界か。
敗北には間違いない。
だが後につながる敗北だ。
今の府中2400を経験し、そして本番を戦うことが出来る。
シュガーホワイトで走るための、練習台になったと言えようか。
ダービーに集まる観客は、今日の比ではない。
しかし馬の経験も、間違いなく上になっている。
今回のような事故は、起こらないはずである。
(他人を信じすぎた)
それが今回の敗因であった。
「悪い」
ぽつりとこぼれた声が耳に入る。
そそくさと去っていく背中を、優姫は視線だけで追った。
競馬では普通に起こることで、降着という処分を受けている。
さらにジョッキーは騎乗停止4日と、制裁を受けているのだ。
それでもモーダショーのダービーは、ほぼ消えてしまった。
(制裁も昔と比べると、少し違う)
どのみち2着には上がらないのは確実なのだ。
今日の優姫の仕事は終わったはずであった。
あとは明日のレースに乗って、栗東に帰る。
そのはずであったが、控室に戻っていた優姫を、JRA職員が呼びにくる。
「天海騎手、ジョッキーの乗り替わりの要請なのですが」
優姫は無言で、その次の言葉を待つ。
「前のレースで接触した綿貫騎手ですが、足を負傷したということで、調教師から依頼が来ています」
なるほど、こういうこともあるのか。
騎乗停止となっても、その開催中には乗れる。
だが自分のミスの償いに、純粋な怪我もあるなら、それはありうることだろう。
ダートのレースであった。
これを優姫は勝って、本日は2勝。
3着が2回であるので、全て馬券圏内に持ってきた。
レースを見るだけであったり、あるいはオーナーであったりすると、やはり今日はあの3着が痛い。
だが馬券で鎬を削る人間からすると、優姫は抜群の安定感ということになる。
また走らせて賞金を咥えてきてくれるので、無理なく馬主を続けていくことが出来る。
翌日も乗鞍があるので、その日は調整ルームに宿泊。
そして乗り替わりだが、綿貫の分がまたあった。
どうやら昨日の時点では、まだ日曜に乗るかどうかが微妙であったらしい。
しかし朝になってもまだ調子が悪く、病院への移動。
もちろん優姫の乗っているレースもあるので、そこは他のジョッキーに乗り替わりとなっているが。
結果的に日曜日は、5レースも乗ることになった。
その中にはダートのレースが多く、リステッド(※1)の競争にまで乗ることになった。
これは美浦の調教師が、栗東の優姫に依頼しているということで、かなり異例なことである。
さらに異例であるのは、条件戦と違い、リステッドレースは格付けのつかないだけで重賞競走。
つまり斤量特典がないので、軽く乗れない優姫を使う理由がない。
だが調教師というか、オーナー側に理由があったのだ。
虎縞の勝負服。
モーダショーのオーナーが、美浦の方で持っている馬である。
美浦と栗東の両方に、彼は馬を預けている。
正確には法人扱いであるが。
「オーナーの要望だから、まあ軽く回ってきてもらったらいいぞ」
ほぼ面識のない調教師から、こんなことを言われる。
「とりあえず、どういう馬なのかを教えてください」
乗ってしまえばおおよそ、それで分かることは分かるのだが。
かなり異例なことになった。
だがこの開催では、いくつか優姫に有利なことがあったのだ。
たとえば穂乃果は、ローカルと呼ばれる福島の開催に行っている。
すると斤量が軽く乗れる、女性騎手が少なくなっている。
もう一人いる女性騎手は、見習い特典が終わっていたりする。
ならば優姫の方がいいではないか、という話になるのだ。
浅いファンであれば、GⅠレースかせいぜい、重賞ぐらいにしか興味はないだろう。
ただ競馬というのは下級条件の、その上澄みに重賞レースがあるのだ。
優姫はその条件戦で勝ちまくっている。
その優姫に乗り替わりがあったことで、馬券を当てているファンがいる。
そういった面々にとっては、むしろ乗り替わりでラッキーと思ったかもしれない。
いくら斤量の有利があっても、しっかり乗れている優姫。
だからこそ特典なしの、皐月賞も勝てた。
さらに言えばモーダショーで、不利を受けての3着。
このあたり美浦の調教師も、ある程度は実力を認めてくれた、ということだろう。
4歳以上のダートオープン競争を勝利。
やはり重賞で勝つのは、信用の増加が違う。
さらに言えば賞金が高いので、その点でもありがたい限りである。
「天海、ちょっといいか」
そう呼び止められたのは、全レースが終了し、ジョッキーたちも解放された時である。
やっと自由の身になって、これから栗東へと帰還。
モーダショーをダービーに連れていけなかったな、とちょっと反省はしていた。
優姫をオープンに乗せた調教師が、微妙な表情で立っていた。
「お前、来週の水曜日、美浦の調教に来れないか?」
言っていることの意味は分かる。
これはつまり美浦の馬を、関西のレースで使う場合、ジョッキーに馬を確認してもらうための追い切りを依頼する、というものだ。
「ユニコーンSに、うちの馬を出す予定なんだが」
京都開催の重賞に、美浦からの参加。
その背中に栗東の騎手を使うというのは、珍しいことではない。
だがこれまでの優姫にはなかったことで、これはもっと実績を積んだ騎手にこそ、かけられるような案件だ。
「オーナーが気に入ったみたいでな」
たとえ勝てなくても、道を切り開くことはある。
少なくとも優姫個人は、この開催で大きく、関東でも認められたらしい。
「まあ、綿貫が乗れなくなったんで、仕方ないんだが」
今度こそ綿貫騎手に、心の底から感謝する優姫であった。
※1 リステッド
Gの格付けはついていないが、実質的には重賞。
つまり斤量特典がないため、優姫が乗るのはかなり珍しい。




