第14話 競馬サークルの姫
現代においては多くの人間が勘違いしているかもしれない。
競馬というのは公営ギャンブルである。
いくら家族で観戦などというのが多くなっても、そこはギャンブラーたちのいる場所なのだ。
そこに加えて、競馬マナーを知らない即席のファン。
新たなファン層の獲得には、確かに成功したのかもしれない。
だがそれに競馬の常識を教えるには、あまりに急すぎるものであった。
幸いと言うべきか、動画撮影にはフラッシュを使うことは少ない。
なので条件戦に出る馬たちも、そのパドックの人間の数と、雰囲気の違いは感じても、決定的な暴走はしない。
だが確かに普段と違うことは、ジョッキーまでもが感じてしまっていた。
(私の有利だ)
どの馬に対してもプレッシャーがかかるなら、それはそれで条件は同じ。
あとは優姫だけが、普段通りに乗れるか否か。
3歳未勝利牝馬限定戦。
急に注目度の上がってしまったレースに、他のジョッキーは馬の制御に戸惑う。
ジョッキ―さえもがそうなのに、優姫は初めて乗る牝馬を相手に、ゆっくりと輪乗りをしている。
未勝利などの限定戦であっても、今回のように調教もせずにテン乗り。
本来ならば一番不利なはずである。
このレースはパドックの時点で、ほぼ勝負が決まっていたと言えるだろうか。
既に馬を選んだ時点で、かなり有利ではあったのだ。
見習いに加えて、女性騎手の恩恵で軽く乗れる優姫。
そして他の牝馬が落ち着かない中、優姫は輪乗りまでに馬と呼吸を合わせていた。
(行こうか)
そしてゲートに入る。
サラブレッドは経済動物。
半数以上は引退後、そのまま肉になってしまう。
だが牝馬は比較的、その血を残すことが出来る。
しかしそれにしても、ある程度の条件はある。
血統の裏付けがあれば、馬の実績がなくてもいい。
それ以外の場合は、まず1勝が必要となるのだ。
中央で1勝するのが、実力で上がる最低条件だろう。
そのために牝馬の未勝利戦というのは、馬にとってはとても大事なものなのだ。
優姫が乗った牝馬は、ゲートの中でもしっかりと落ち着いていた。
そのくせしっかりとスタートを決めて、逃げて圧勝。
さほど馬を持つこともない零細馬主を、喜ばせることになったのである。
結局は考え方次第であった。
優姫は今回、調教でしっかりと乗った馬と組んでいない。
それでも斤量の特典で、どうにか勝てるかと思われた。
そしてパドックのみならず、俄かなファンの増殖。
あるいはそれはファンですらなく、流行を捕まえようという、甘いインフルエンサーの考え。
プレッシャーは誰にでもあったが、優姫が一番何も感じなかった。
競馬の主役は馬なのである。
ジョッキーなどというのは基本的に、馬の邪魔にならないように乗ればいい。
そしてまだ若い馬が困っている時、ほんの少しだけ手助けをしてやればいい。
「いや~、よくやってくれた。ありがとう」
「いえ、展開が向いていました」
この馬のオーナーはちょっとした病院を経営していて、数年に一頭を買う。
走れる限りは走ってもらう、というのが今までの使い方であった。
だがよく走ってくれた馬の妹を買って、これで生産をしてみたいという新たな趣味。
そのためにはやはり、1勝はしてくれるような牝馬が欲しかったのだ。
馬主というのが酔狂な趣味だ。
そして色々な楽しみ方がある。
(私もいつか……)
違う形で、サラブレッドの血統に携わっていきたい。
血統をつないでいく、このロマンの塊。
他のあらゆる家畜と比べても、特別な存在であろう。
優姫の知る馬主とは、もう随分と変わったな、とは思う。
かつては庭先取引が主であり、セリで売れるのは売れ残り、などと言われていたのだ。
そこに真っ当な市場原理を持ち込んだ生産者がいた。
今はそこからのセリで、ちゃんと強い馬が登場している。
(繁殖は囲い込んでるけど)
先日のパーティーでも出会った、五代グループ。
クラブの一口馬主が、ここまで巨大な成長を遂げるとは。
昔に比べて明らかに、欧州競馬は衰退している。
やはりイギリスの女王の崩御が、あの国にとっては大きかったのか。
イタリアもドイツも、競馬は縮小の傾向。
オーストラリアは混乱し、アメリカはまた別の方向性。
日本で勝つということが、そのまま世界で勝つということにつながっている。
さすがに2レース目は、勝つことが出来なかった。
それでも3着という馬券圏内に持ってきたので、仕事はしたと言えるだろう。
1勝クラスになっていると、ちゃんと掲示板に入ることが重要になる。
それで賞金が稼げれば、馬主はまだ馬を処分しようとは思わないのだから。
そして食事の時間。
今日のメインである、青葉賞に向けて。
斤量に余裕があるので、しっかりと水分を補充していく。
食事はいまさら食べたとしても、この短時間で筋肉になるわけではない。
だがカロリーはしっかりと摂取しておく必要がある。
レースの合間には、控室にも戻った。
男女で完全に、分かれてしまっているこの控室。
女性ジョッキーがいない日は、こちらも男性が使うので、ゆったりと使えるのだと言われていた。
確かに一時期JRAからは、女性ジョッキーが一人もいなくなった期間がある。
ただレース中となると、検量室に戻る。
他のジョッキーが、レースをどう見ているのか、あるいはどう乗っているのか、それを確認しないといけない。
良馬場のコンディションは変わっていない。
ただ他のレースが終わっているので、やや荒れているのは当たり前だ。
内ラチを少しずらして、芝の良いところを変えている。
「メインは逃げるのか?」
そんなことを尋ねてくるジョッキーがいる。
こういったレース前の駆け引きも、以前にはなかったことだ。
完全に優姫のことを、対等の相手と見なしたということだろう。
優姫も色々と考えてきたのだ。
府中の2400は、最後の直線で勝負を決めるのが、とても多いレースである。
歴代の馬にも、府中専用、などと言われてる名馬は多い。
逆に言うとそういう展開では、紛れが少ないコースとも言える。
「逃げられたら楽かな……」
優姫はそう呟くが、微妙なところなのである。
モーダショーはスタートで、いきなり行き脚が付くタイプではない。
トップスピードを維持することは、それなりに得意ではあるが。
(ロングスパートしかないかな)
基本的にはそれでいいだろう。
だがやはりモーダショーには、京都の長距離が合っていると思う。
二度目のレースでも、優姫には大きな歓声があった。
そのプレッシャーで潰れるかな、とベテランのジョッキーなどは思ったものだ。
だが未勝利では勝ち、1勝クラスでも着を拾う。
若手らしくない、したたかな乗り方と言える。
「天海、お前の馬、まだ5走目だよな。最後の正面で歓声に驚かないよう気を付けろよ」
「はい」
こういったあたりはアドバイスと言うよりは、安全を確保するためのものだ。
ただモーダショーに関しては、大丈夫だろうと思っている。
あれはズブいのに加えて、図太い馬なのだから。
本日のメインレースである。
GⅡ青葉賞、2400m。
ダービーへの切符を得るため、最後の機会に挑む馬たち。
もっとも他の重賞の、2着などで賞金を稼いだ方が、より確実だと思われたりしている。
「天海は府中の2400に乗ったことがない」
その正しい認識が、同じレースのジョッキーたちに共有されている。
2400は王道のクラシックディスタンス。
しかしながら実際には、この距離のレースは少ないのだ。
特に優姫が乗る未勝利や下級条件は、比較的距離が短い。
さらに言ってしまえば、栗東所属であるため、府中のレースに乗ること自体が少ない。
だから論理的には、ここは消しだと馬券予想家などは言うだろう。
馬の能力も重要だが、距離が長くなれば長くなるほど、ジョッキーの能力で差が出ると言われている。
モーダショーはスタミナがある、と優姫は確信している。
だが実際のレースは、ここまで2000mまでしか走っていない。
(油断してくれると楽かな)
「優姫ちゃん、頼むよ」
パドックにて、優姫はそう声をかけられる。
調教師の三ツ木に加えて、厩務員の小田川。
ベテラン厩務員はまだ、クラシックの担当馬になったことがない。
勝算は微妙であるし、ダービーもさらに微妙だ。
しかしホースマンとしては、まずダービーに担当馬を出したいのだ。
「こいつのお爺ちゃんは、三冠レース全部出たからなあ」
そう言ってくるのは、やっと優姫が会えたオーナーである。
男性にしてはやや小柄ながら、俊敏さを感じさせる。
優姫の知る限りでは、初めて持った馬が、GⅠを勝ったという豪運の持ち主。
クラシック全て2着の後に、有馬記念で勝って、最優秀3歳牡馬になった。
その後もGⅠレースを二つ勝ち、種牡馬としても期待されていたはずなのだ。
さらにその父もそうであったが、むしろ母父として優秀だった。
だが本領を発揮したのは、産駒があまり走らないとされて、アメリカに連れていかれてからであった。
そこでの産駒のスプラッシュヒットが、また日本に来てこのモーダショーを出している。
「ダービーに出してくれよ」
明るい笑顔でそう言われて、優姫は小さく頷いた。
府中の2400。
優姫が体験する中では、初めてのはずの距離。
だが今の優姫が考えるのは、その距離への不安ではない。
シュガーホワイトで府中自体は、既に経験している。
あとは距離をどう突破するかと、府中の直線対策だ。
シュガーホワイトの時は、まだ相手が弱かった。
だがモーダショーはシュガーホワイトではなく、距離も2400である。
(距離じゃなく、コースが問題)
二頭に共通して言えることだが、おそらくヨーイドンで2400を走るのは、あまり得意ではないのだ。
だからレース展開は、こちらで考えていく必要がある。
返し馬から輪乗りになって、ゲートに入っていく。
モーダショーは今回、内枠を取れている。
(シュガーの時に取れてたら、もっといいんだけど)
おそらくどういうレースをするにせよ、スタートは早めに出るはずなのだ。
全頭が収まり、17頭での勝負。
本来なら18頭のフルゲートのはずであったが、直前での回避があった。
そして金属音と共に、ゲートがオープン。
優姫の体重移動に従い、スムーズにスタートするモーダショーである。
ズブいがスタートが苦手というわけでもないのだ。
最初から比較的、いい位置取りが取れそう。
そう思ったがやはり、外から切れ込んでくる馬がいる。
(中団あたりから、どうやって行けるか)
この展開は優姫にとって、悪いものではない。
後ろは後ろで、末脚勝負の馬が待機している。
コースロスではなく、ストライドロスを考える。
そして周りを軽く見回すと、やはり気合乗りが違う。
(ここがダービー最後のチャンスだから)
どの馬にとっても、2着までがほしいのだ。
逆に言えば1着を取らなくてもいい、それがトライアルレースだ。
およそ1000mを通過して、ラップタイムは1分を切ったあたり。
やや早いかと思うかどうかは、展開によるだろう。
優姫が考えているのは、ある程度は運も左右される乗り方。
だがスタートの時点では、その作戦は上手く成功していた。




