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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
一章 三冠の幻影

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12/14

第12話 王者の門は開かれり

『19歳と5ヶ月、若い、あまりにも若い女王誕生です。牡馬クラシック最年少制覇記録、伝説の記録がついに更新。皐月賞に限って言えば2歳半以上もの短縮』

『あ~』

『おっと、これは審議です。審議のランプがついていますが』

『最後の直線ですかね。両馬が共に馬体を併せに行ってました。ただこれは問題ないでしょう。強いて言うならメテオスカーレットの脚色はよかったですが、これはフォーリアナイトよりさらに外を回していました』

『確認の審議、ということですかね?』

『少なくとも上位二頭は変わらないはずです』


 呼吸が荒い。

(肺が……痛い……)

 最後には全力の無呼吸運動を行った。

 酸素が足りずに頭が回らず、激しい耳鳴りまでしている。

(でも、勝った……)

 鞍に尻を落とし、シュガーホワイトの鬣に突っ伏す。

 相棒は自分も鼻息荒く、それでいて心配そうに顔を向けてきていた。


「天海」

 弥生賞までは、天海さんとか優姫ちゃんとか、そんな柔らかい呼び方をしていた五十嵐。

「おめでとう」

 伸ばしてきた手に対して、優姫もかろうじてハイタッチする。

「ウイニングラン、行ってきな」

「……っはひ……」

 まだ呼吸を整えながら、ゆっくりとウイニングランを開始する。


 全力で追っていた影響か、手は固まったまま震えていた。

 それでも彼女は、クラシックに勝ったのだ。

(これから大変だろうな)

 ライバルと見なしていいだろう、と五十嵐は内心では思う。

 しかしこれからのことを思うと、そんな気楽なものでもないだろうな、という想像も出来るのだ。

(オーナーに頭下げないとなあ)

 三着に5馬身差もつけていながら、惜しくも敗北。

 いくら惜しくても、敗北には間違いはない。

 条件戦ならばむしろ、あるいは重賞であっても、敗北でも仕方がないと言えるレースはある。

 だが3歳クラシックだけは、絶対に勝たなければいけなかったのだ。




 ゆっくりとシュガーホワイトが駆けていく。

 ウイニングランをする中で、優姫はひたすら呼吸を整えていた。

 正面スタンドが見えてくる。

 今年の中山は去年に比べても多く、8万人ほどが入っていると誰かが言っていた。

(あの時の有馬はすごかったな……)

 この倍の人数が入っていたのだから、時代の変遷は著しい。

 塩対応の優姫に比べると、シュガーホワイトは歯を見せてスタンドに視線を送る。

 大多数の男どもよりは、俺の方が優れているのだぞ、と言わんばかりに。

 確かに賞金だけで、生涯年収ぐらいはもう稼いだだろう。

 そしてGⅠを二つも勝っていれば、種牡馬価値もかなり高くなる。

「よくやった」

 優姫の言葉にぶるるんと震える、汗に濡れた芦毛の癖馬は、まさに牡馬の頂点とも言える威厳に輝いていた。


 ウィナーズサークルでは、顔をぐしゃぐしゃにした美奈が待っていた。

 手綱を彼女に渡し、優姫は後検量に向かう。

 体重はがっつりと500gほど減っていた。

 優姫が予想していた以上で、鞍を持っていただけでも、足がふらついている。

(やっぱりクラシックは違う)

 かなり厳密に体重調整はやったつもりだが、レースが思ったよりきつかった。

「天海騎手、こちらへ」

 呼ばれたのは採決委員室で、これもあるだろうなとは思っていた。

 他には五十嵐も呼ばれている。


 最後の直線に向かう前、第3コーナーからのレース映像。

 きついカーブでばらついた馬の中、シュガーホワイトは真ん中あたりを進む。

 問題になりそうなのは、最後のストレートの斜行であろう。

「あの最後の斜行で、フォーリアナイトなどの進路に影響を与えましたか?」

 しかしこれは問題はない。

「他馬は既に後方にいて、フォーリアナイトはあちらからも接近していた」

 こいつは本当に口の利き方がなっていないな、と思われても仕方ない。

 だが委員の視線は五十嵐に向けられる。

「フォーリアナイトも抜け出した後、芝のいいところに切れ込んだだけです。併せには行きましたが接触はしていません」

「分かりました。着順確定、問題ありません」

 大丈夫なはずであったが、それでも少しは心配になるものだ。


 審議のランプが消えて、着順が確定する。

 ふらついている優姫は、壁にもたれかかる。

 一つのレースに、全身全霊を捧げる、というジョッキーは確かにいる。

 だが本当にここまで、消耗しているというのはジョッキーも見たことがない。

 それでも誰の手を借りるでもなく、優姫はまたシュガーホワイトのところへ戻っていく。

 周囲の人々も、声をかけることが憚られた。


 審議のランプが消えて、これでもう何も問題はない。

「歌っちゃう? 私も何か歌っちゃう?」

「オーナー、口取りがありますから」

 はしゃぎながら白雪も、ターフに降りてくる。

 ウィナーズサークルにおいて、記念撮影が行われる。

 シュガーホワイトに騎乗すべき優姫なのであるが。

「ちょっと優姫ちゃん」

「ごめん、ちょっともう足ががくがくで」

 生まれたての仔馬のように、優姫はまだ膝が震えている。


 シュガーホワイトは紳士である。

「おらよ」という声が聞こえた気がして、体をかがめて促してくる。

 さすがにGⅠでジョッキーが乗っていない、というのは締まらない。

 ゆらゆらと揺れながら、写真撮影を行う。

 赤熱した状態から、逆に今度は顔面蒼白のジョッキー。

 対してむしろ馬の方が、歯をむき出しに感情表現豊かな写真であった。




 牡馬クラシックの一冠目が終わった。

 写真撮影も終えて、あとはもう控室に戻ろうという優姫だったが、そんなことは許されない。

 ホープフルステークスも間違いなく、偉業ではあったのだ。

 しかし今回はクラシックの勝利であり、注目度も段違いだ。

(これだった……)

 多数の取材に対応するのも、人気商売の宿命である。


「おめでとうございます! グレード制導入以降、史上最年少での牡馬クラシック制覇です! 今のお気持ちは?」

 ここで固まってしまうのが優姫なのだ。

 普段はもう少しマシなのだが、今日はまだ頭に酸素が届いていない。

「皐月賞も、ダービーも、ジャパンカップも、有馬記念も……」

 ずっとずっと、胸の内に響く鼓動があった。

「夢の中で何度も乗って、何度も戦って勝ってきたので、今更どうにかとは……」

 

 あまりにもとぼけた返答に、次の質問者が固まる。

 その後の応対もどうにも、期待したような返事にはならない。

 これまでも取材を受けたことはある。

 ホープフルSにしても、GⅠ記録の更新であったのだ。

 初めてのGⅠで、そのまま優勝という初めての例。

 だが今日のインタビューは、まるで地に足がついていないようで、逆にやっと新人らしいところを見せたな、と思わせたのであった。


 最終レースが終わるまで、優姫は控室でそのまま気絶していた。

 これまた穂乃果が本当に大丈夫かな、と一応は医者を呼んだりもしたのだ。

「う~ん、大丈夫ではあるんだが」

 点滴を打っているあたり、全く大丈夫そうにみえない。

「1レースだけでこんなに疲労するのかね?」

 医師はジョッキー専任というわけではなく、競馬場全体を見ている。

 またジョッキーは確かに1レースに全力を注ぐし、夏場であれば熱中症の危険もある。

 だがGⅠレースだけであって、今日は他に騎乗を入れなかったのは正解だ。


「というわけで、大丈夫だそうです」

 今日も中山に乗っていた穂乃果が、男どもに報告する。

 それは良かったと思う素直な気持ちと、ここが弱点なのかと計算する、冷徹な思考が共にある。

 最終レースも終わって、調整ルームから解放される。

 そこで優姫を待っていた千草は、報告を受けてやきもきしていたものだ。

「もう大丈夫そうだね」

「回復しました」

 そこまで付き添っていてくれた穂乃果に、千草は声をかける。

「祝勝会をするんだけど、よかったら君も来る?」

「え、いいんですか?」

「白雪さん、かたっぱしから声をかけてるし」

「じゃあお邪魔しようかな。ユッキーも馬が気になるから帰る、とか言わないよね?」

「馬は気になるけど、祝勝会を欠席するわけにはいかない」

 意外な優姫の言葉である。

「馬主さんを見つけて営業をしないと」

 このあたり本当に、意外と打算的なところもあるのだ。




 ホープフルSの時は、正直まさか勝つとは思っていなかった白雪。

 なので当日に用意した店で、関係者もあまり集まらなかった。

 ただ今回は生産者も招待されている。

 厩務員の美奈も、シュガーホワイトの輸送は明日にしたので、この場にいることが出来る。

 関係者でいないのは、それこそ優勝した馬だけであろう。


 白雪もおおよそ、業界内ではクールと言われているものだ。

 だがこの日は珍しくも、ニコニコ愛想がいい。

「馬主になって15年、22頭目でやっとオープンになったと思ったら、重賞にGⅠ、そしてクラシックを制覇。いや~、強い馬を持つと違う!」

 そんなことを言っているが、好みで選んでいたならば、なかなか勝てないのも当たり前なのだ。


 奇跡が起こった。

 芦毛の中でも特に、白っぽい馬しか買わない馬主。

 その芦毛は女性にしか懐かなかった。

 女性調教師、女性厩務員、女性騎手が全てそろったところ。

 新馬戦で負けた以外は、ここまで6連勝。

「ただちょっと使い過ぎかな」

 千景としてはダービーが終われば、たっぷりと休ませようと考えている。

(たぶんダービーでは勝てないしね)

 府中の重賞を勝ってはいるが、相手のレベルがあの時とは、まるで比較にならないようになる。


 日本ダービー、2400mという道の距離。

(ん?)

 だがその前に青葉賞で、優姫はモーダショーに乗る。

(まさか、そのためか?)

 他の重賞2着までに入っても、おそらく賞金が足りてダービーにも出られる。

 もちろん確実に出るためには、青葉賞2着以内というのは正しい。

 しかし優姫は単に、馬が好きなだけの人間ではない。

(本番のための練習か?) 

 そうも思ったが、千草には止める理由にはならない。


 それにしても遅い。

 優姫がスーツなども持って来ていなかったため、白雪は衣装を揃えるために送りだしたのだ。

 馬主席とも違うので、フォーマルな服装ではない人間もいる。

 しかし今日の場合、主役は間違いなく馬主の白雪でもなく、優姫になっているはず。

 白雪とは知り合いの、芸能関係者やマスコミも、何人かはここに来ている。

「どうも先生、おめでとうございます」

「ああ、確か……こういう場合は本名で呼んだ方がいいのかな?」

「ええ、渡辺で」

 白雪が連れていた、若い男女の夫婦である。

「ものすごい話題になってますけど、天海さんは芸能事務所に所属はさせないんですか?」

「ああ……そういう話も出てくるか」

 確かにそういった、競馬の枠を外れた心配も、これからはしなければいけない。


 JRAの女性騎手であり、しかも新人の一年目からGⅠを勝利し、二年目にクラシックを勝った。

 これは史上初のことと言うよりは、おそらく今後も更新されない記録だ。

 取材の中には確かに、競馬という枠組みを越えた、一般記者やマスコミもいたであろう。

 別に男性ジョッキーであっても、芸能事務所に所属することは珍しくない。

 そこまで考えてやる必要はあるな、と千草は頭を悩ませる。

「白雪さんはそれこそ詳しいから、相談してもいいと思いますよ」

「ああ、そうですね」

 そんな会話をしていたところに、ドレスアップした女性が入ってくる。

 千草はそれを目で追っていたが、しばらくは誰か分からなかった。

「え、馬子にも衣裳を地でいくの?」

 優姫だと気づいた時には、そんなことを言ってしまっていた。




 白雪の意見も入っていたのか、白を基調にドレスアップした優姫は、確かにいつもと違って見えた。

 もっと言ってしまえば、本当に同じ人間かと疑ったものである。

 普段はどこか、適当にぴょんと髪が跳ねていることもある。

 だがうっすらと化粧をし、アクセサリーでも飾られた姿は、間違いなく美人の範疇に入る。

 童顔のためまだ、美少女という印象が強いが。


 あれは誰だ、という声が聞こえてくるようだった。

 そんな中で優姫は、まず白雪に挨拶する。

「ドレスの手配、ありがとうございました」

「うん、やっぱりその気になれば光るね」

 白雪は優姫の露わな上腕部などを見て、やっぱり鍛えているなという感想を抱く。

 この腕がクラシックの、最初の門を潜り抜けたのだ。

「これから周りがうるさくなると思うけど、私に相談してくれて構わない」

 芸能人である白雪は、スターとしての煩わしさを知っている。

「でも、私はホースマンだから」

 優姫のその言葉の意味を、逆に白雪が理解することも、それは難しいのだ。


 白雪が優姫を来客に招待する。

 そんな白雪にも、接近してくる人物はいた。

「ああ、五代さん」

「おめでとうございます。またやられました」

「いいレースでしたね」

「勝てればもっと良かったんですが」

 50がらみのその男性は、実は白雪とほぼ、同じ年頃であったりする。

「これからも楽しみでしょう。まあうちも負けませんが」

「日高の馬でも走るものですね」

 白雪はそう言うが、日高の馬でもピンキリだ。


 五代グループは日本の馬産において、最大勢力を誇る。

 白雪にしても以前、そちらのセールで買った馬はいるが、走らなかった。

「とりあえず三冠馬の栄誉を得る可能性を持つ、唯一の馬になりましたね」

「芦毛の三冠馬ってものすごい人気でそう」

「馬主、ジョッキー、そして馬を考えると、第四次競馬ブームになってもおかしくはないですね」

 それはつまり、あのハイセイコーやオグリキャップと比べられる、ということか。

 ここで五代は少し声を落とした。

「引退はまだまだ先でしょうか、その時にはまた、いいお話が出来ればと思っていますよ」

 その言葉の意味がすぐには分からないあたり、白雪にはこれまで無縁のことであったのだ。


 白雪はマスコミとの関係も深いので、一部のテレビを入れたりもしている。

 そこでまた優姫は見世物になるのだが、彼女としてもいい営業だと割り切る。

「騎乗依頼、全力で待ってます」

 頭がちゃんと働いていれば、こういった打算のある言葉も出てくるのだ」

 翌日からの取材攻勢なども、優姫は少しは理解している。

(菊花賞は向いているけど、問題はダービー……)

 その思考は常に、ジョッキーとしてのものが最優先であった。


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