第12話 王者の門は開かれり
『19歳と5ヶ月、若い、あまりにも若い女王誕生です。牡馬クラシック最年少制覇記録、伝説の記録がついに更新。皐月賞に限って言えば2歳半以上もの短縮』
『あ~』
『おっと、これは審議です。審議のランプがついていますが』
『最後の直線ですかね。両馬が共に馬体を併せに行ってました。ただこれは問題ないでしょう。強いて言うならメテオスカーレットの脚色はよかったですが、これはフォーリアナイトよりさらに外を回していました』
『確認の審議、ということですかね?』
『少なくとも上位二頭は変わらないはずです』
呼吸が荒い。
(肺が……痛い……)
最後には全力の無呼吸運動を行った。
酸素が足りずに頭が回らず、激しい耳鳴りまでしている。
(でも、勝った……)
鞍に尻を落とし、シュガーホワイトの鬣に突っ伏す。
相棒は自分も鼻息荒く、それでいて心配そうに顔を向けてきていた。
「天海」
弥生賞までは、天海さんとか優姫ちゃんとか、そんな柔らかい呼び方をしていた五十嵐。
「おめでとう」
伸ばしてきた手に対して、優姫もかろうじてハイタッチする。
「ウイニングラン、行ってきな」
「……っはひ……」
まだ呼吸を整えながら、ゆっくりとウイニングランを開始する。
全力で追っていた影響か、手は固まったまま震えていた。
それでも彼女は、クラシックに勝ったのだ。
(これから大変だろうな)
ライバルと見なしていいだろう、と五十嵐は内心では思う。
しかしこれからのことを思うと、そんな気楽なものでもないだろうな、という想像も出来るのだ。
(オーナーに頭下げないとなあ)
三着に5馬身差もつけていながら、惜しくも敗北。
いくら惜しくても、敗北には間違いはない。
条件戦ならばむしろ、あるいは重賞であっても、敗北でも仕方がないと言えるレースはある。
だが3歳クラシックだけは、絶対に勝たなければいけなかったのだ。
ゆっくりとシュガーホワイトが駆けていく。
ウイニングランをする中で、優姫はひたすら呼吸を整えていた。
正面スタンドが見えてくる。
今年の中山は去年に比べても多く、8万人ほどが入っていると誰かが言っていた。
(あの時の有馬はすごかったな……)
この倍の人数が入っていたのだから、時代の変遷は著しい。
塩対応の優姫に比べると、シュガーホワイトは歯を見せてスタンドに視線を送る。
大多数の男どもよりは、俺の方が優れているのだぞ、と言わんばかりに。
確かに賞金だけで、生涯年収ぐらいはもう稼いだだろう。
そしてGⅠを二つも勝っていれば、種牡馬価値もかなり高くなる。
「よくやった」
優姫の言葉にぶるるんと震える、汗に濡れた芦毛の癖馬は、まさに牡馬の頂点とも言える威厳に輝いていた。
ウィナーズサークルでは、顔をぐしゃぐしゃにした美奈が待っていた。
手綱を彼女に渡し、優姫は後検量に向かう。
体重はがっつりと500gほど減っていた。
優姫が予想していた以上で、鞍を持っていただけでも、足がふらついている。
(やっぱりクラシックは違う)
かなり厳密に体重調整はやったつもりだが、レースが思ったよりきつかった。
「天海騎手、こちらへ」
呼ばれたのは採決委員室で、これもあるだろうなとは思っていた。
他には五十嵐も呼ばれている。
最後の直線に向かう前、第3コーナーからのレース映像。
きついカーブでばらついた馬の中、シュガーホワイトは真ん中あたりを進む。
問題になりそうなのは、最後のストレートの斜行であろう。
「あの最後の斜行で、フォーリアナイトなどの進路に影響を与えましたか?」
しかしこれは問題はない。
「他馬は既に後方にいて、フォーリアナイトはあちらからも接近していた」
こいつは本当に口の利き方がなっていないな、と思われても仕方ない。
だが委員の視線は五十嵐に向けられる。
「フォーリアナイトも抜け出した後、芝のいいところに切れ込んだだけです。併せには行きましたが接触はしていません」
「分かりました。着順確定、問題ありません」
大丈夫なはずであったが、それでも少しは心配になるものだ。
審議のランプが消えて、着順が確定する。
ふらついている優姫は、壁にもたれかかる。
一つのレースに、全身全霊を捧げる、というジョッキーは確かにいる。
だが本当にここまで、消耗しているというのはジョッキーも見たことがない。
それでも誰の手を借りるでもなく、優姫はまたシュガーホワイトのところへ戻っていく。
周囲の人々も、声をかけることが憚られた。
審議のランプが消えて、これでもう何も問題はない。
「歌っちゃう? 私も何か歌っちゃう?」
「オーナー、口取りがありますから」
はしゃぎながら白雪も、ターフに降りてくる。
ウィナーズサークルにおいて、記念撮影が行われる。
シュガーホワイトに騎乗すべき優姫なのであるが。
「ちょっと優姫ちゃん」
「ごめん、ちょっともう足ががくがくで」
生まれたての仔馬のように、優姫はまだ膝が震えている。
シュガーホワイトは紳士である。
「おらよ」という声が聞こえた気がして、体をかがめて促してくる。
さすがにGⅠでジョッキーが乗っていない、というのは締まらない。
ゆらゆらと揺れながら、写真撮影を行う。
赤熱した状態から、逆に今度は顔面蒼白のジョッキー。
対してむしろ馬の方が、歯をむき出しに感情表現豊かな写真であった。
牡馬クラシックの一冠目が終わった。
写真撮影も終えて、あとはもう控室に戻ろうという優姫だったが、そんなことは許されない。
ホープフルステークスも間違いなく、偉業ではあったのだ。
しかし今回はクラシックの勝利であり、注目度も段違いだ。
(これだった……)
多数の取材に対応するのも、人気商売の宿命である。
「おめでとうございます! グレード制導入以降、史上最年少での牡馬クラシック制覇です! 今のお気持ちは?」
ここで固まってしまうのが優姫なのだ。
普段はもう少しマシなのだが、今日はまだ頭に酸素が届いていない。
「皐月賞も、ダービーも、ジャパンカップも、有馬記念も……」
ずっとずっと、胸の内に響く鼓動があった。
「夢の中で何度も乗って、何度も戦って勝ってきたので、今更どうにかとは……」
あまりにもとぼけた返答に、次の質問者が固まる。
その後の応対もどうにも、期待したような返事にはならない。
これまでも取材を受けたことはある。
ホープフルSにしても、GⅠ記録の更新であったのだ。
初めてのGⅠで、そのまま優勝という初めての例。
だが今日のインタビューは、まるで地に足がついていないようで、逆にやっと新人らしいところを見せたな、と思わせたのであった。
最終レースが終わるまで、優姫は控室でそのまま気絶していた。
これまた穂乃果が本当に大丈夫かな、と一応は医者を呼んだりもしたのだ。
「う~ん、大丈夫ではあるんだが」
点滴を打っているあたり、全く大丈夫そうにみえない。
「1レースだけでこんなに疲労するのかね?」
医師はジョッキー専任というわけではなく、競馬場全体を見ている。
またジョッキーは確かに1レースに全力を注ぐし、夏場であれば熱中症の危険もある。
だがGⅠレースだけであって、今日は他に騎乗を入れなかったのは正解だ。
「というわけで、大丈夫だそうです」
今日も中山に乗っていた穂乃果が、男どもに報告する。
それは良かったと思う素直な気持ちと、ここが弱点なのかと計算する、冷徹な思考が共にある。
最終レースも終わって、調整ルームから解放される。
そこで優姫を待っていた千草は、報告を受けてやきもきしていたものだ。
「もう大丈夫そうだね」
「回復しました」
そこまで付き添っていてくれた穂乃果に、千草は声をかける。
「祝勝会をするんだけど、よかったら君も来る?」
「え、いいんですか?」
「白雪さん、かたっぱしから声をかけてるし」
「じゃあお邪魔しようかな。ユッキーも馬が気になるから帰る、とか言わないよね?」
「馬は気になるけど、祝勝会を欠席するわけにはいかない」
意外な優姫の言葉である。
「馬主さんを見つけて営業をしないと」
このあたり本当に、意外と打算的なところもあるのだ。
ホープフルSの時は、正直まさか勝つとは思っていなかった白雪。
なので当日に用意した店で、関係者もあまり集まらなかった。
ただ今回は生産者も招待されている。
厩務員の美奈も、シュガーホワイトの輸送は明日にしたので、この場にいることが出来る。
関係者でいないのは、それこそ優勝した馬だけであろう。
白雪もおおよそ、業界内ではクールと言われているものだ。
だがこの日は珍しくも、ニコニコ愛想がいい。
「馬主になって15年、22頭目でやっとオープンになったと思ったら、重賞にGⅠ、そしてクラシックを制覇。いや~、強い馬を持つと違う!」
そんなことを言っているが、好みで選んでいたならば、なかなか勝てないのも当たり前なのだ。
奇跡が起こった。
芦毛の中でも特に、白っぽい馬しか買わない馬主。
その芦毛は女性にしか懐かなかった。
女性調教師、女性厩務員、女性騎手が全てそろったところ。
新馬戦で負けた以外は、ここまで6連勝。
「ただちょっと使い過ぎかな」
千景としてはダービーが終われば、たっぷりと休ませようと考えている。
(たぶんダービーでは勝てないしね)
府中の重賞を勝ってはいるが、相手のレベルがあの時とは、まるで比較にならないようになる。
日本ダービー、2400mという道の距離。
(ん?)
だがその前に青葉賞で、優姫はモーダショーに乗る。
(まさか、そのためか?)
他の重賞2着までに入っても、おそらく賞金が足りてダービーにも出られる。
もちろん確実に出るためには、青葉賞2着以内というのは正しい。
しかし優姫は単に、馬が好きなだけの人間ではない。
(本番のための練習か?)
そうも思ったが、千草には止める理由にはならない。
それにしても遅い。
優姫がスーツなども持って来ていなかったため、白雪は衣装を揃えるために送りだしたのだ。
馬主席とも違うので、フォーマルな服装ではない人間もいる。
しかし今日の場合、主役は間違いなく馬主の白雪でもなく、優姫になっているはず。
白雪とは知り合いの、芸能関係者やマスコミも、何人かはここに来ている。
「どうも先生、おめでとうございます」
「ああ、確か……こういう場合は本名で呼んだ方がいいのかな?」
「ええ、渡辺で」
白雪が連れていた、若い男女の夫婦である。
「ものすごい話題になってますけど、天海さんは芸能事務所に所属はさせないんですか?」
「ああ……そういう話も出てくるか」
確かにそういった、競馬の枠を外れた心配も、これからはしなければいけない。
JRAの女性騎手であり、しかも新人の一年目からGⅠを勝利し、二年目にクラシックを勝った。
これは史上初のことと言うよりは、おそらく今後も更新されない記録だ。
取材の中には確かに、競馬という枠組みを越えた、一般記者やマスコミもいたであろう。
別に男性ジョッキーであっても、芸能事務所に所属することは珍しくない。
そこまで考えてやる必要はあるな、と千草は頭を悩ませる。
「白雪さんはそれこそ詳しいから、相談してもいいと思いますよ」
「ああ、そうですね」
そんな会話をしていたところに、ドレスアップした女性が入ってくる。
千草はそれを目で追っていたが、しばらくは誰か分からなかった。
「え、馬子にも衣裳を地でいくの?」
優姫だと気づいた時には、そんなことを言ってしまっていた。
白雪の意見も入っていたのか、白を基調にドレスアップした優姫は、確かにいつもと違って見えた。
もっと言ってしまえば、本当に同じ人間かと疑ったものである。
普段はどこか、適当にぴょんと髪が跳ねていることもある。
だがうっすらと化粧をし、アクセサリーでも飾られた姿は、間違いなく美人の範疇に入る。
童顔のためまだ、美少女という印象が強いが。
あれは誰だ、という声が聞こえてくるようだった。
そんな中で優姫は、まず白雪に挨拶する。
「ドレスの手配、ありがとうございました」
「うん、やっぱりその気になれば光るね」
白雪は優姫の露わな上腕部などを見て、やっぱり鍛えているなという感想を抱く。
この腕がクラシックの、最初の門を潜り抜けたのだ。
「これから周りがうるさくなると思うけど、私に相談してくれて構わない」
芸能人である白雪は、スターとしての煩わしさを知っている。
「でも、私はホースマンだから」
優姫のその言葉の意味を、逆に白雪が理解することも、それは難しいのだ。
白雪が優姫を来客に招待する。
そんな白雪にも、接近してくる人物はいた。
「ああ、五代さん」
「おめでとうございます。またやられました」
「いいレースでしたね」
「勝てればもっと良かったんですが」
50がらみのその男性は、実は白雪とほぼ、同じ年頃であったりする。
「これからも楽しみでしょう。まあうちも負けませんが」
「日高の馬でも走るものですね」
白雪はそう言うが、日高の馬でもピンキリだ。
五代グループは日本の馬産において、最大勢力を誇る。
白雪にしても以前、そちらのセールで買った馬はいるが、走らなかった。
「とりあえず三冠馬の栄誉を得る可能性を持つ、唯一の馬になりましたね」
「芦毛の三冠馬ってものすごい人気でそう」
「馬主、ジョッキー、そして馬を考えると、第四次競馬ブームになってもおかしくはないですね」
それはつまり、あのハイセイコーやオグリキャップと比べられる、ということか。
ここで五代は少し声を落とした。
「引退はまだまだ先でしょうか、その時にはまた、いいお話が出来ればと思っていますよ」
その言葉の意味がすぐには分からないあたり、白雪にはこれまで無縁のことであったのだ。
白雪はマスコミとの関係も深いので、一部のテレビを入れたりもしている。
そこでまた優姫は見世物になるのだが、彼女としてもいい営業だと割り切る。
「騎乗依頼、全力で待ってます」
頭がちゃんと働いていれば、こういった打算のある言葉も出てくるのだ」
翌日からの取材攻勢なども、優姫は少しは理解している。
(菊花賞は向いているけど、問題はダービー……)
その思考は常に、ジョッキーとしてのものが最優先であった。




