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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
一章 三冠の幻影

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10/12

第10話 研磨と成長

 弥生賞の勝利から間を置かず、優姫はまた週末の騎乗に追われていた。

 皐月賞という大目標はあるが、それはそれとして同時に、日々の騎乗機会を逃さず積み重ねていく。

 阪神・京都で騎乗しつつ勝ち鞍を積み上げる。

 優姫は芝・ダート問わず乗り続けた。

 気の荒い先行馬を落ち着かせて、気まぐれな追い込み馬に発破をかける。


 特に問題児として知られたダート馬など、向正面で被せられ砂の直撃を浴びても前を向き続けた。

 最後の直線で馬群を割り、鼻差の2着。

「砂、飲んでない?」

 美奈が心配したが、優姫は水を飲みながら馬の舌を見る。

「大丈夫そう」

「いや、優姫ちゃんの話ね」

 どんな馬でも乗れる新人、という評判が栗東では広まりつつあった。

 去年と同じ乗り方をしているのだが、やはりホープフルSの影響が大きい。

 さらに言えば弥生賞でも強い乗り方をした。


 疲労は確実に蓄積していた。

 重い負荷を背負わせる調教、減量維持、軽い斤量で走るための筋肉量の調整。

 全レース終了後の検量室では、ベンチに沈んだまま微動だにせず眠り込み、他のジョッキーに揺すられて発見される。

「また倒れてたのか……もう名物だな、これ」

「寝てただけなので、倒れてはいない」

 本人は必死に否定するが、半ば公認の持ちネタと化していた。


 栗東トレセンで調整中に、優姫は同期に声をかけられた。

 箱崎颯太。一年目に30勝した期待の新人。

 父親は元ジョッキーの調教師で、そこに所属して乗っている。

 優姫がいたから目立たないが、コネクションの差により、彼が重賞レースに乗っている回数は優姫より多い。

「皐月までに30勝って本当かよ。まだ三月やぞ」

「でもダービーまでには50勝ほしいから」

「……新人って概念知ってるか?」

 呆れたような声に、優姫は無言で首を傾げる。

 颯太は苦笑しつつも、激励の言葉をかけるのだ。

「皐月賞、死ぬ気で勝てよ。お前が勝ったらニュースになるから」

 競馬学校時代は色々と張り合いにきたものであるが、プロの舞台ではそんな余裕はないらしい。


 元から優姫の世代は、かなり注目されていた。

 颯太は父がジョッキーとしても、調教師としてもずっと上位で、リーディングを取ったこともある。

 また穂乃果は馬術競技において、全国上位の常連であった。

 その中で優姫の存在は、異色の経歴という目立ち方であったのだ。

 もっともその常識外れなところは、すぐに分かっていったが。


 優姫が去っていく中、颯太はもどかしい思いに苛まれる。

(くっそ、もっと笑えよな)

 優姫が笑うのはだいたい、馬と戯れている時である。

 競馬学校でもあの鉄仮面が、馬に向けて外されたところを、何度も見ていたのだ。

(でも先にクラシック勝たれたくね~!)

 同期の嫉妬というか、男の意地と言うか。

(けどあいつ……痩せてたな……)

 優姫は全く気付かずに、自分のやるべきことをやっていく。




 レースの合間には、皐月賞のライバル確認も抜かりない。

 フォーリアナイトは当然として、他の馬もまとめていく。

 おおよそ他には、三頭が注意すべき馬であろう。

 中団で息を潜めるアタックブレイザーは、ロングスパートタイプ。

 瞬発力型のメテオスカーレットは、フォーリアナイトに似ている。

 そして底力勝負に強いカルマインザダークは、これまた先行から逃げが得意。

 これに比べるとシンザン記念の勝者スカイグライダーに、優姫の乗ったグランジェッテは、おおよそ封じる手はずが整っている。


 千草はこれを見て笑う。

「多士済々だねえ」

 いずれも重賞勝利か、重賞2着の実績は持っている。

 優姫が収集してきた、阪神開催での騎手の癖のメモを眺める。

「人のデータまで作る新人、初めて見たわ」

「岡部もやってた」

「いやそんなレジェンドクラスのジョッキーを持ってきても……」

 優姫はこういう時、しっかりと断定した口調になる。

 呆れた千草であるが、優姫は単なる感覚派ではないのだ。




 迎えた木曜日、いよいよ皐月賞の枠順が発表される。

 クラシックのものとなれば、ちょっとしたイベント形式になったりもするのだ。

 シュガーホワイトは4枠7番――中枠の絶好。内を取れる可能性もあり、外すぎてロスが出る心配も少ない。

 中山の2000mとしては天候にもよるが、まずいいポジションを取れるだろう。

 優姫は千草と数字だけで顔を見合わせ、言葉なく頷いた。


 この週は前週日曜日の夕方から、皐月賞のためだけの一週間になっている。

 週末の皐月賞以外は、土曜日や日曜日、他の馬の騎乗依頼を断っているのだ。

 新人が何を、という声もあるかもしれない。

 だが初めてのクラシックで、しかも一番人気になっていると考えれば、それも無理のない話と納得してくれる。

 実際のところ、優姫は「皐月賞用」の肉体を作っていったのだ。


 期間は一週間ある。

 その間に優姫は、筋力と体幹を集中的に鍛えた。

 実際には三週間ほど前から、しっかりと水抜きをしている。

 皐月賞の重量を考えれば、50kgぐらいまで体重を増やしても問題ない。

 単純に筋肉をという話でもなく、充分な水分も入れることで、ベストのコンディションに持っていく。

 クラシックの一勝のためなら、さすがに他の乗鞍を譲る。

 同じ女性斤量で乗れるなら、それこそ関東には穂乃果がいるのだ。


 騎手の身体は単純に、軽ければ良いわけではない。

 適性体重というものはあり、男性騎手はおおよそ、49kgから51kgまでにそれを抑えている。

 千草はジョッキー経験がないので、これが正しいのかは分からない。

 だが少なくともこんなことをやっているジョッキーがいないのは知っている。

 クラシックに乗る女性ジョッキーが、そもそも少ないという事情もある。


 女だから、という優遇特典。

 しかしそれは重賞に乗る場合は、優遇には全くならない。

 負担斤量のうち、実際に騎手の体重が、多ければ多いほどいい。

 鉛を重りとするのは、本当にただの荷物なのだ。

 どうせならば追うための筋肉が、多ければ多いほどいい。

 ボクサーや格闘家の水抜きを、完全に皐月賞だけに合わせて行う。

 優姫がやっているのはそういうことだ。 


 週末、阪神開催を終えてからの優姫の調整。

 食事量を増やし、水分を多めに摂取し、ミネラルなども忘れない。

 47kgの体重を、50kgまで増やす。

 普段はやや削っているのだから、やっと普通の体重で乗れる、ということでもある。

 言ってしまえば封印解除だ。

 そして金曜日には移動。

 今回は乗るレースは日曜日だけなので、土曜日に調整ルームに入ればいい。

 だが移動によるアクシデントを考えて、前乗りという考えだ。

 シュガーホワイトは先に、馬運車で移動している。


 土曜日を空けておくというのは、他にもそれなりに意味があるのだ。

 情報収集もぎりぎりまで行えるし、あるいは調教師との作戦も立てられる。

 皐月賞に乗るようなジョッキーは、この土曜日の開催も乗っているはず。

 その様子を確認して、自分の情報を更新していく。

 既に作戦などは、何通りも立てている。

 また各陣営の追い切りなども、頭に入っているのだ。


 土曜の開催に合わせて、優姫はスタンドからレースを見る。

 眼鏡をかけて変装したような優姫。

 ただこうなると身長と童顔もあって、子供が競馬場にいるように見えてしまう。

 もちろん競馬場は、馬券さえ買わなければ、子供がいても問題はない。

 しかし中学生ぐらいに見えてしまう、というのは本当の話である。

(内枠有利かな?)

 それも確認しているが、おそらく当日の朝に、最終確認することになるだろう。


 調整ルームに入る前に、コースの雰囲気をもう一度確認する。

 昔と変わらない。

(有馬記念……)

 あの、あるはずのない記憶で、最後に勝ったレース。

 それが行われたのも、この中山のコースである。

 もっとも距離が違うため、全く同じコースを走るわけではないが。


 調整ルームに入れば、娯楽室には何人も、皐月賞に乗るジョッキーが揃っている。

 その空気が違うことを、優姫ははっきりと感じる。

(戻ってきた……)

 ホープフルSもGⅠだが、同じGⅠでも格というものがある。

 その中ではやはり、牡馬のクラシックは特別のものだ。

 普段とは全く違う空気をまとう者。

 普段と全く同じ空気をまとう者。

(いつだって、変わらない)

 そう、これもまた変わらないものだ。


 優姫はここに、勝ちに来たのだ。




 レース当日。

 馬主席では氷川白雪が、落ち着かない様子でスタンドを眺めていた。

 普段クールな白雪が胸に手を当て、深く呼吸している。

「……クラシックに、うちの子が走るなんて」

 その隣には、白雪に招待された若い夫婦が控えめに頷いている。

 暇なら来いよ、と誘われたもの。

「優雅な趣味ですね」

「君もそれぐらいのお金はあるんじゃないの?」

「うちは全部、音楽と教育に投資してるんで」

「……純粋だねえ」

 むしろ白雪に、こんな趣味がある方が、二人にとっては意外であるのだ。


 パドックの光景は、また違うものである。

 これを眺めたアナウンサーの落ち着いた声と、解説者の手堅いコメントが流れる。

「今年の皐月賞、大注目はシュガーホワイトとフォーリアナイト。前哨戦の弥生賞では、内枠を利したシュガーホワイトが勝ちましたが、末脚の鋭さはフォーリアナイトが上。展開次第では逆転可能です」

「7番、シュガーホワイト。落ち着いてますね。馬体はさらにひと回り大きく見えます。天海騎手とのコンビは相性抜群ですね」

 だがそれでも、二番人気とは僅差。


 続いてフォーリアナイト、アタックブレイザー、メテオスカーレット、カルマインザダークらの全ての出走馬が紹介され、観客の熱気が高まっていく。

 クラシックなのだ。

 全ての馬が生涯に、ただ一度だけ参戦を許される舞台。

 整列した経験豊かなジョッキーたちの中、唯一のクラシック初騎乗の優姫。

 ただし既にGⅠを勝っているのは、かなり異質なことである。


「行ってきな」

 千草の言葉に、優姫は無言で頷く。

「とま~れ~」

 美奈の曳いていた手綱が外され、優姫の騎乗したシュガーホワイトは返し馬のためコースに入っていく。

「頑張れ」

 美奈は小さく呟いていた。

 

 輪乗りから、ゲートインへ向かう。

 シュガーホワイトは、優姫の手綱で小さく首を振り、前へ進もうとする。

「大丈夫」

 今日は少し違う、と優姫は空気を使って囁く。

 シュガーホワイトの耳が、くるりと一回転した。

 そんな彼の肩を、優姫は軽く叩いた。


 クラシックの、あのファンファーレ。

 大観衆のスタンドから、それ以上の大歓声が聞こえる。

 やっと来た。

(やっと戻ってきた)

 そしてここから、また始まるのだ。


 ゲートインが始まる。

 1番から順に馬が収まり、係員の声と蹄の音が重なる。

 シュガーホワイトは迷わずゲートへ向かい、7番の枠へとあっさり滑り込んだ。優姫は深く息を吸う。

 直前に回避の馬もなく、18頭の優駿が揃う。


 全馬ゲートイン完了――。

 静寂がスタンドを包み、そしてゲートが開く。

 皐月賞の幕が上がった。

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