第10話 研磨と成長
弥生賞の勝利から間を置かず、優姫はまた週末の騎乗に追われていた。
皐月賞という大目標はあるが、それはそれとして同時に、日々の騎乗機会を逃さず積み重ねていく。
阪神・京都で騎乗しつつ勝ち鞍を積み上げる。
優姫は芝・ダート問わず乗り続けた。
気の荒い先行馬を落ち着かせて、気まぐれな追い込み馬に発破をかける。
特に問題児として知られたダート馬など、向正面で被せられ砂の直撃を浴びても前を向き続けた。
最後の直線で馬群を割り、鼻差の2着。
「砂、飲んでない?」
美奈が心配したが、優姫は水を飲みながら馬の舌を見る。
「大丈夫そう」
「いや、優姫ちゃんの話ね」
どんな馬でも乗れる新人、という評判が栗東では広まりつつあった。
去年と同じ乗り方をしているのだが、やはりホープフルSの影響が大きい。
さらに言えば弥生賞でも強い乗り方をした。
疲労は確実に蓄積していた。
重い負荷を背負わせる調教、減量維持、軽い斤量で走るための筋肉量の調整。
全レース終了後の検量室では、ベンチに沈んだまま微動だにせず眠り込み、他のジョッキーに揺すられて発見される。
「また倒れてたのか……もう名物だな、これ」
「寝てただけなので、倒れてはいない」
本人は必死に否定するが、半ば公認の持ちネタと化していた。
栗東トレセンで調整中に、優姫は同期に声をかけられた。
箱崎颯太。一年目に30勝した期待の新人。
父親は元ジョッキーの調教師で、そこに所属して乗っている。
優姫がいたから目立たないが、コネクションの差により、彼が重賞レースに乗っている回数は優姫より多い。
「皐月までに30勝って本当かよ。まだ三月やぞ」
「でもダービーまでには50勝ほしいから」
「……新人って概念知ってるか?」
呆れたような声に、優姫は無言で首を傾げる。
颯太は苦笑しつつも、激励の言葉をかけるのだ。
「皐月賞、死ぬ気で勝てよ。お前が勝ったらニュースになるから」
競馬学校時代は色々と張り合いにきたものであるが、プロの舞台ではそんな余裕はないらしい。
元から優姫の世代は、かなり注目されていた。
颯太は父がジョッキーとしても、調教師としてもずっと上位で、リーディングを取ったこともある。
また穂乃果は馬術競技において、全国上位の常連であった。
その中で優姫の存在は、異色の経歴という目立ち方であったのだ。
もっともその常識外れなところは、すぐに分かっていったが。
優姫が去っていく中、颯太はもどかしい思いに苛まれる。
(くっそ、もっと笑えよな)
優姫が笑うのはだいたい、馬と戯れている時である。
競馬学校でもあの鉄仮面が、馬に向けて外されたところを、何度も見ていたのだ。
(でも先にクラシック勝たれたくね~!)
同期の嫉妬というか、男の意地と言うか。
(けどあいつ……痩せてたな……)
優姫は全く気付かずに、自分のやるべきことをやっていく。
レースの合間には、皐月賞のライバル確認も抜かりない。
フォーリアナイトは当然として、他の馬もまとめていく。
おおよそ他には、三頭が注意すべき馬であろう。
中団で息を潜めるアタックブレイザーは、ロングスパートタイプ。
瞬発力型のメテオスカーレットは、フォーリアナイトに似ている。
そして底力勝負に強いカルマインザダークは、これまた先行から逃げが得意。
これに比べるとシンザン記念の勝者スカイグライダーに、優姫の乗ったグランジェッテは、おおよそ封じる手はずが整っている。
千草はこれを見て笑う。
「多士済々だねえ」
いずれも重賞勝利か、重賞2着の実績は持っている。
優姫が収集してきた、阪神開催での騎手の癖のメモを眺める。
「人のデータまで作る新人、初めて見たわ」
「岡部もやってた」
「いやそんなレジェンドクラスのジョッキーを持ってきても……」
優姫はこういう時、しっかりと断定した口調になる。
呆れた千草であるが、優姫は単なる感覚派ではないのだ。
迎えた木曜日、いよいよ皐月賞の枠順が発表される。
クラシックのものとなれば、ちょっとしたイベント形式になったりもするのだ。
シュガーホワイトは4枠7番――中枠の絶好。内を取れる可能性もあり、外すぎてロスが出る心配も少ない。
中山の2000mとしては天候にもよるが、まずいいポジションを取れるだろう。
優姫は千草と数字だけで顔を見合わせ、言葉なく頷いた。
この週は前週日曜日の夕方から、皐月賞のためだけの一週間になっている。
週末の皐月賞以外は、土曜日や日曜日、他の馬の騎乗依頼を断っているのだ。
新人が何を、という声もあるかもしれない。
だが初めてのクラシックで、しかも一番人気になっていると考えれば、それも無理のない話と納得してくれる。
実際のところ、優姫は「皐月賞用」の肉体を作っていったのだ。
期間は一週間ある。
その間に優姫は、筋力と体幹を集中的に鍛えた。
実際には三週間ほど前から、しっかりと水抜きをしている。
皐月賞の重量を考えれば、50kgぐらいまで体重を増やしても問題ない。
単純に筋肉をという話でもなく、充分な水分も入れることで、ベストのコンディションに持っていく。
クラシックの一勝のためなら、さすがに他の乗鞍を譲る。
同じ女性斤量で乗れるなら、それこそ関東には穂乃果がいるのだ。
騎手の身体は単純に、軽ければ良いわけではない。
適性体重というものはあり、男性騎手はおおよそ、49kgから51kgまでにそれを抑えている。
千草はジョッキー経験がないので、これが正しいのかは分からない。
だが少なくともこんなことをやっているジョッキーがいないのは知っている。
クラシックに乗る女性ジョッキーが、そもそも少ないという事情もある。
女だから、という優遇特典。
しかしそれは重賞に乗る場合は、優遇には全くならない。
負担斤量のうち、実際に騎手の体重が、多ければ多いほどいい。
鉛を重りとするのは、本当にただの荷物なのだ。
どうせならば追うための筋肉が、多ければ多いほどいい。
ボクサーや格闘家の水抜きを、完全に皐月賞だけに合わせて行う。
優姫がやっているのはそういうことだ。
週末、阪神開催を終えてからの優姫の調整。
食事量を増やし、水分を多めに摂取し、ミネラルなども忘れない。
47kgの体重を、50kgまで増やす。
普段はやや削っているのだから、やっと普通の体重で乗れる、ということでもある。
言ってしまえば封印解除だ。
そして金曜日には移動。
今回は乗るレースは日曜日だけなので、土曜日に調整ルームに入ればいい。
だが移動によるアクシデントを考えて、前乗りという考えだ。
シュガーホワイトは先に、馬運車で移動している。
土曜日を空けておくというのは、他にもそれなりに意味があるのだ。
情報収集もぎりぎりまで行えるし、あるいは調教師との作戦も立てられる。
皐月賞に乗るようなジョッキーは、この土曜日の開催も乗っているはず。
その様子を確認して、自分の情報を更新していく。
既に作戦などは、何通りも立てている。
また各陣営の追い切りなども、頭に入っているのだ。
土曜の開催に合わせて、優姫はスタンドからレースを見る。
眼鏡をかけて変装したような優姫。
ただこうなると身長と童顔もあって、子供が競馬場にいるように見えてしまう。
もちろん競馬場は、馬券さえ買わなければ、子供がいても問題はない。
しかし中学生ぐらいに見えてしまう、というのは本当の話である。
(内枠有利かな?)
それも確認しているが、おそらく当日の朝に、最終確認することになるだろう。
調整ルームに入る前に、コースの雰囲気をもう一度確認する。
昔と変わらない。
(有馬記念……)
あの、あるはずのない記憶で、最後に勝ったレース。
それが行われたのも、この中山のコースである。
もっとも距離が違うため、全く同じコースを走るわけではないが。
調整ルームに入れば、娯楽室には何人も、皐月賞に乗るジョッキーが揃っている。
その空気が違うことを、優姫ははっきりと感じる。
(戻ってきた……)
ホープフルSもGⅠだが、同じGⅠでも格というものがある。
その中ではやはり、牡馬のクラシックは特別のものだ。
普段とは全く違う空気をまとう者。
普段と全く同じ空気をまとう者。
(いつだって、変わらない)
そう、これもまた変わらないものだ。
優姫はここに、勝ちに来たのだ。
レース当日。
馬主席では氷川白雪が、落ち着かない様子でスタンドを眺めていた。
普段クールな白雪が胸に手を当て、深く呼吸している。
「……クラシックに、うちの子が走るなんて」
その隣には、白雪に招待された若い夫婦が控えめに頷いている。
暇なら来いよ、と誘われたもの。
「優雅な趣味ですね」
「君もそれぐらいのお金はあるんじゃないの?」
「うちは全部、音楽と教育に投資してるんで」
「……純粋だねえ」
むしろ白雪に、こんな趣味がある方が、二人にとっては意外であるのだ。
パドックの光景は、また違うものである。
これを眺めたアナウンサーの落ち着いた声と、解説者の手堅いコメントが流れる。
「今年の皐月賞、大注目はシュガーホワイトとフォーリアナイト。前哨戦の弥生賞では、内枠を利したシュガーホワイトが勝ちましたが、末脚の鋭さはフォーリアナイトが上。展開次第では逆転可能です」
「7番、シュガーホワイト。落ち着いてますね。馬体はさらにひと回り大きく見えます。天海騎手とのコンビは相性抜群ですね」
だがそれでも、二番人気とは僅差。
続いてフォーリアナイト、アタックブレイザー、メテオスカーレット、カルマインザダークらの全ての出走馬が紹介され、観客の熱気が高まっていく。
クラシックなのだ。
全ての馬が生涯に、ただ一度だけ参戦を許される舞台。
整列した経験豊かなジョッキーたちの中、唯一のクラシック初騎乗の優姫。
ただし既にGⅠを勝っているのは、かなり異質なことである。
「行ってきな」
千草の言葉に、優姫は無言で頷く。
「とま~れ~」
美奈の曳いていた手綱が外され、優姫の騎乗したシュガーホワイトは返し馬のためコースに入っていく。
「頑張れ」
美奈は小さく呟いていた。
輪乗りから、ゲートインへ向かう。
シュガーホワイトは、優姫の手綱で小さく首を振り、前へ進もうとする。
「大丈夫」
今日は少し違う、と優姫は空気を使って囁く。
シュガーホワイトの耳が、くるりと一回転した。
そんな彼の肩を、優姫は軽く叩いた。
クラシックの、あのファンファーレ。
大観衆のスタンドから、それ以上の大歓声が聞こえる。
やっと来た。
(やっと戻ってきた)
そしてここから、また始まるのだ。
ゲートインが始まる。
1番から順に馬が収まり、係員の声と蹄の音が重なる。
シュガーホワイトは迷わずゲートへ向かい、7番の枠へとあっさり滑り込んだ。優姫は深く息を吸う。
直前に回避の馬もなく、18頭の優駿が揃う。
全馬ゲートイン完了――。
静寂がスタンドを包み、そしてゲートが開く。
皐月賞の幕が上がった。




