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プリンセス・ジョッキー ~優駿の姫騎手~  作者: 草野猫彦
序章 夢の跡、約束の場所

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1/11

第1話 希望から始まる

 長き競馬の歴史の中で、JRAで女性騎手が登場したのは90年代に入ってからのことであるが、顕著な活躍を残す者はいなかった。

 斤量特典(※1)により、条件戦ではある程度、勝てるようになってきている。

 そして現在、中央のGⅠ勝利を期待されている女性騎手。

 それが天海優姫あまみゆきであった。


 競馬村の出身でもない一般家庭に生まれ、ベースとなった身体能力は、器械体操というもの。

 しかし競馬学校に入学してからは、瞬く間にその実力を開花させていった。

 女性騎手は男性に比べて、体格的に騎手の体重制限を楽にクリアできる。

 それでも騎手を目指すのは男性が多数。

 現在の女性騎手はデビューした時点で、およそ46kgの体重を求められる。

 性別の以外に、見習い騎手の斤量特典もあるからだ。


 だが重賞レースだと、そんな特典はない。

 誰もが等しい条件で戦うが、そもそも新人が重賞に乗ることが少ない。

 しかし優姫は、デビュー一年目にしてその領域に達した。

 加えて12月に入った時点で、40勝に到達。

 GⅠレースへの騎乗も可能となった(※2)のである。




 12月最終週の土曜日。

 翌日には有馬記念が行われるので、本命の注目はそちらに集まる。

 だが本日行われるホープフルステークスも、例年に比べればはるかに多くの注目が集まっている。

「来たね」

 珍しい女性調教師の鳴神千草は、パドック前の通路で声をかける。

「そうですね、本当に、来ちゃいましたね。GⅠなんですよね」

 おどおどと馬を引く担当厩務員の小暮美奈も、まだうら若き女性だ。


 担当馬がGⅠへ出走するのは初めてのため、その態度も無理はない。

「今から緊張してたら、パドックでもっと緊張するよ」

 千草は一応、GⅠに所属馬を出走させたことはある。

 諭される厩務員に比べて、調教師テキは仮面をかぶったように、感情を見せない。

 千草も実はサングラスの向こうの目は、緊張に揺らいでいるのだが。

 人間の動揺は馬に伝わる。

 だから必死で隠そうとしていて、隠しきれていない。

(煙草が吸いたい)

 もうずっと禁煙を続けていたのだが、そう思った。


 千草はGⅠレースに、優勝が期待されるレベルの馬で出走したことは、これまではなかった。

 加えてジョッキーも、これがGⅠに挑むのは初めて。

 これほどの馬であるがオーナーも含め、新人の優姫が騎乗することには難色を示すこともなかった。

 挑むのはシュガーホワイト。父ホワイトウイングの芦毛馬。

 芦毛は個体によって灰色からほぼ純白まで、かなり色に濃淡がある。

 シュガーホワイトは白い悪魔の血統を継ぎ、一歳には既に、かなり白い馬体だった。


 オーナーはレースを見るために、早々に馬主席に上がっている。

 調教師の千草は、今更どうにもならないのは分かっていても、ぎりぎりまで馬の様子を見守る。

 パドックにおいても、その白い馬体ははっきりと目立つ。

 待機していたジョッキーの優姫は、静かにその姿を見つめる。

 この血統は気性難で知られるが、シュガーホワイトはこだわりが強いだけ。

 唇から漏れる空気が、もう真っ白な冬の景色の中、プレッシャーも感じない。


 人間の感情はおおよそ、馬にとって有害なもの。

「無理せんと最後までしがみついとれよ」

 隣で嘲るような声にも、優姫はマネキンのような表情を向けさえしない。

 思考の揺らぎを止め、優姫は人間であることをやめる。

 ここからの彼女は、ジョッキーであるのだ。

 シュガーホワイトの毛色のように、真っ白な存在であれ。


 反応しない優姫に対して、それ以上の言葉はかけられない。

「とま~れ~」

 待機していたジョッキーが、それぞれの騎乗馬に向けて駆けていく。

 手綱を引いていた厩務員の手を借り、馬の背にまたがる。

 だが優姫の愛するお手馬は、自然と背を少し屈めてくれた。

「優姫ちゃん、頑張って」

 思わずプレッシャーをかける美奈だが、優姫は頷くことさえない。


 パドックからいよいよ、本馬場入場。

 白無地の勝負服に、一本の紫色のライン。

 GⅠの歴代最年少記録を更新し、さらにJRA女性騎手の初制覇となるか。

 新たなるスターの登場を、競馬界は望んでいる。

 だが世間がどう期待していようが、忖度などしないのが、ジョッキーの矜持。

 むしろ女に負けてたまるか、という気持ちを持つのは、男として普通だろう。

 つまり他の17人は、優姫だけには勝たせたくない。

 それでも優姫ならば、という期待が関係者にはあった。


 初の女性騎手によるGⅠ優勝が、最年少記録となるのか。

 もしも勝ったら、GⅠ初騎乗で初勝利、という唯一の記録にもなる。

 時代の転換期には、とんでもない天才が現れる。

 かつて競馬の世界にも、二年目でリーディングを取るような存在が現れたように。

 それまでの常識を覆す存在は、どこかで必ず生まれるものだ。


 優姫は女性騎手というだけで、常識を覆えす存在たりうる。

 公営競技である競艇やオートレースと並んで、女性が男性に混じって戦える舞台がジョッキー。

 だがトップ層は、男性ばかりなのである。

 出てこないのはやはり、勝負にかける男の意地というものだろうか。


 競馬は果たして、そういうものなのか。

(雑音は消えた)

 パドックから返し馬と、状態は落ち着いていた。

 シュガーホワイトはここまで4戦3勝。新馬戦で2着の後、未勝利と条件戦を勝利し、重賞を一つ勝っている。


 ゲートに入る前には、輪乗りで耳を動かすシュガーホワイト。

 その耳元に、優姫は唇をつける。

「行こうか」

 囁き声にシュガーホワイトは応え、耳を真っすぐに伸ばした。

「いい子」

 ほんのわずかに優姫は微笑む。

 二歳の優駿たちは、まだファンファーレにも慣れていない。

 だが鞍上優姫のシュガーホワイトに、動揺は見られない。

 人馬一体、デビュー戦以前からずっと、このコンビで走ってきた。


 外枠からのスタートは、逃げ馬のシュガーホワイトにはやや不利。

 だがスタートダッシュがつけられれば、上手く切り込んでいける。

 シュガーホワイトの鞍上、優姫の気配が変化する。

 馬はとても敏感な生物で、騎手の気分を敏感に察する。

 ゲートが開いたらすぐスタートか、それともゆっくりスタートか。

 すぐにスタートだと、優姫の肉体が伝えている。




 そしてわずかに優姫が手綱を絞った瞬間、ゲートは勢いよく開く。

 一番に飛び出したシュガーホワイトは、すぐに先頭に立っていった。

 中山の芝2000mは、最初の直線が少し長い。

 そのため1コーナーまでのポジション争いは、それなりに激しくなる。

 優姫はホープフルステークスに乗ったことはない。

 だが中山の芝2000は、皐月賞と同じ距離で、一般レースとしてもそれなりに使われるコース。

 馬の若さを考えても、やることは分かっている。

 ハナから先頭を切ったシュガーホワイトは、1コーナーに達するまでに先頭に飛び出す。

 そしてそこから、徐々にペースを落としていった。


 作戦としては逃げであるが、第2コーナーまでは集団が大きく動くことはない。

 先頭に立った優姫の尻を見ながら、残り17頭と17人のジョッキーが追う。

 その中には勝負師の、強烈な勝利への執念がある。

 この展開では逃げ馬でもペースが速すぎる。


 ジョッキーは誰もが、精密な体内時計を持っている。

 先頭はこのままでは最後までもたない。

 実際にわずかに、シュガーホワイトはペースを落とす。

 優姫の意思は手綱と鐙から、しっかり馬に伝わっている。

 向こう正面に入り直線となると、ここでも位置取りが重要となる。

 果たして動くべきか待つべきか、その判断もしなければいけない。


 優姫は手綱を引くこともなく、シュガーホワイトに任せたままに見えた。

 気分よく走っているのはいいが、このままのペースでは速いのではないか。

 客観的に見れば、これは逃げ切ることなく、最後の直線で潰れる。

 少なくとも後ろからはそう判断した者が多かった。


 勝負は最後の直線か。

 中山はゴールまでの最後に坂がある。

 そこまでに脚を溜めるため、3コーナーと4コーナーでも先頭は変わらない。

 ここですべきは内ラチ沿いを通って、距離のロスをなくすこと。

 自然とペースが落ち、ほんのわずかに息を入れて、いよいよ最後のコーナーに向かう。

 優姫は後ろの様子を確認することなく、最後の4コーナーに集中する。


 体内のラップは狂いなく、シュガーホワイトの踏みつける大地から、その力を感じ取る。

(駆けろ)

 サラブレッドは走るために生まれてきた。

 人間の力がなければ、ほぼ繁殖することも出来ない存在。

 経済動物だからこそ、その最後まで責任を持たないといけない。

 およそ生産された半分は、食肉となってしまうものなのだ。

(だからこそ、走れ!)


 最後の直線。

 先行集団から黒鹿毛一頭が抜けだし、後方集団から栗毛一頭が大外を回してくる。

 分かっていた。シュガーホワイトの広い視界に、その姿が映る。

 だが鞍上の優姫に、何も動揺はない。

 完全に不安も焦燥も、その内からは消してしまう。

 必要なものは闘争心だけ。

 そして優姫の手綱はわずかに、彼女の意思をシュガーホワイトに伝える。


 短い直線ではあるが、坂がスタミナを削ってくる。

 そこで優姫は手綱を取って、ムチなど使わず首を押しにかかっていく。

 鞍上の優姫の気配が変わったのを、相棒だけが感じ取った。

 羽毛のような軽さから、熱量を伝えるように。

 今がその時だと、シュガーホワイトに教えている。


 限界に近い、その領域をさらに突破するのだ。

 坂を駆け上がる力が、さらに強いものとなる。

 苦しさを激しい気性が上回り、まだ失速することなく駆けていく。

 坂を上ってからわずかな、ゴールまでの距離。

 優駿たちが駆けてくる。

 その先頭に、くっきりと芦毛が輝く。


 優姫は体重が軽すぎるため、重りをつけてこのレースに乗っている。

 本来なら筋肉で馬を追うところ、余計な重量があるのだ。

 重賞レースで馬を追うのに、むしろ不利なのが新人の女性騎手。

 それを他のジョッキーは分かっていた。

 だから逃がしてしまい、こういう形となる。


 黒鹿毛の馬が並びかけようと迫る。

 外を回った栗毛の馬も、勢いよく駆けてくる。

 わずかなリードが、ほぼなくなろうとしている。

 だが優姫は全身の筋肉を、連動させて動かす。

 優姫とシュガーホワイトは、沈み込むように身を沈め、そこから強く跳ねる。

 二の脚を使ってまた加速した。


 わずかずつ差を縮めていたものが、半馬身の距離を開ける。

 外から差してくるが、それも追いつけない。

 ゴール板を半馬身差で逃げ切り、先頭に駆け抜けたシュガーホワイト。

 JRA所属の女性ジョッキーの、史上最年少GⅠ制覇。

 また一つ競馬界に、伝説が生まれた。

 それでも撒き散らされるハズレ馬券の儚さは、他の全てのレースと同じようなものであった。




 GⅠ馬のみに許されたウイニングラン。

 手綱を握る優姫の指は、半ば硬直していた。

 ゆったりとした走りを終えて、シュガーホワイトは戻ってきた。

 元から優姫は競馬学校時代から、おかしなやつとは言われていた。

 だがかつて人格のおかしさと言われたものは、今では実力のおかしさと言っていいだろう。


「やあやあ、おつかれさま」

「氷川オーナー、おめでとうございます」

 オーナーの氷川白雪は、レース直前では優姫と会わなかった。

 ただこの二人は、妙に馬が合っている。馬だけに。

 同じ女だからというわけではないが、新馬戦で2着の優姫を、ずっと乗せてきたのだ。

 まあ馬の方が優姫でないと乗せたがらない、という理由もあったのだが。


 関係者一同で行われる口取り式。

 とてつもない量のカメラが向けられる中、既にレースは終わったのだ、と優姫はもう未来を見ている。

 優姫は馬に顔を近づける時だけ、わずかに感情が浮かぶ。

 喜びがあふれているのが少数という、異例の光景。

 厩務員や生産者は恵比須顔になっている中、もう次を考えている二人。

 三歳の優駿たちが、全て挑むとも言われるクラシック。

 シュガーホワイトはその第一戦、皐月賞と同じ2000mの距離を勝った。

「優姫、ここが始まりだよ」

 前を向いたまま、笑わない調教師の言葉に、優姫も無言で頷く。

 一つの伝説の始まりは、まだ淡い夢の形でしかなかった。

 ※1 斤量特典

 新人の見習い騎手と女性騎手には、一般レースにおいて、騎乗機会の確保や育成、ハンデの是正を目的とした斤量(負担重量)の減量特典が設けられている。

 5年の見習い期間の間、100勝以下のジョッキーは勝利数によって1~3kgの恩恵を得られる。

 また女性騎手も2~4kgの恩恵があり、こちらは最低でも2kgの恩恵がずっと得られる。

 ただこれらは重賞やオープン特別などでは適用されない。

 また最低負担重量というものがあり、斤量特典がいくらあっても、それ以下の重さで乗れるわけではない。


 ※2 GⅠの騎乗条件

 現在では31勝以上、かつては41勝以上であった。

 とはいえ新人をGⅠに乗せることは滅多にない。

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