第1話 希望から始まる
長き競馬の歴史の中で、JRAで女性騎手が登場したのは90年代に入ってからのことであるが、顕著な活躍を残す者はいなかった。
斤量特典(※1)により、条件戦ではある程度、勝てるようになってきている。
そして現在、中央のGⅠ勝利を期待されている女性騎手。
それが天海優姫であった。
競馬村の出身でもない一般家庭に生まれ、ベースとなった身体能力は、器械体操というもの。
しかし競馬学校に入学してからは、瞬く間にその実力を開花させていった。
女性騎手は男性に比べて、体格的に騎手の体重制限を楽にクリアできる。
それでも騎手を目指すのは男性が多数。
現在の女性騎手はデビューした時点で、およそ46kgの体重を求められる。
性別の以外に、見習い騎手の斤量特典もあるからだ。
だが重賞レースだと、そんな特典はない。
誰もが等しい条件で戦うが、そもそも新人が重賞に乗ることが少ない。
しかし優姫は、デビュー一年目にしてその領域に達した。
加えて12月に入った時点で、40勝に到達。
GⅠレースへの騎乗も可能となった(※2)のである。
12月最終週の土曜日。
翌日には有馬記念が行われるので、本命の注目はそちらに集まる。
だが本日行われるホープフルステークスも、例年に比べればはるかに多くの注目が集まっている。
「来たね」
珍しい女性調教師の鳴神千草は、パドック前の通路で声をかける。
「そうですね、本当に、来ちゃいましたね。GⅠなんですよね」
おどおどと馬を引く担当厩務員の小暮美奈も、まだうら若き女性だ。
担当馬がGⅠへ出走するのは初めてのため、その態度も無理はない。
「今から緊張してたら、パドックでもっと緊張するよ」
千草は一応、GⅠに所属馬を出走させたことはある。
諭される厩務員に比べて、調教師は仮面をかぶったように、感情を見せない。
千草も実はサングラスの向こうの目は、緊張に揺らいでいるのだが。
人間の動揺は馬に伝わる。
だから必死で隠そうとしていて、隠しきれていない。
(煙草が吸いたい)
もうずっと禁煙を続けていたのだが、そう思った。
千草はGⅠレースに、優勝が期待されるレベルの馬で出走したことは、これまではなかった。
加えてジョッキーも、これがGⅠに挑むのは初めて。
これほどの馬であるがオーナーも含め、新人の優姫が騎乗することには難色を示すこともなかった。
挑むのはシュガーホワイト。父ホワイトウイングの芦毛馬。
芦毛は個体によって灰色からほぼ純白まで、かなり色に濃淡がある。
シュガーホワイトは白い悪魔の血統を継ぎ、一歳には既に、かなり白い馬体だった。
オーナーはレースを見るために、早々に馬主席に上がっている。
調教師の千草は、今更どうにもならないのは分かっていても、ぎりぎりまで馬の様子を見守る。
パドックにおいても、その白い馬体ははっきりと目立つ。
待機していたジョッキーの優姫は、静かにその姿を見つめる。
この血統は気性難で知られるが、シュガーホワイトはこだわりが強いだけ。
唇から漏れる空気が、もう真っ白な冬の景色の中、プレッシャーも感じない。
人間の感情はおおよそ、馬にとって有害なもの。
「無理せんと最後までしがみついとれよ」
隣で嘲るような声にも、優姫はマネキンのような表情を向けさえしない。
思考の揺らぎを止め、優姫は人間であることをやめる。
ここからの彼女は、ジョッキーであるのだ。
シュガーホワイトの毛色のように、真っ白な存在であれ。
反応しない優姫に対して、それ以上の言葉はかけられない。
「とま~れ~」
待機していたジョッキーが、それぞれの騎乗馬に向けて駆けていく。
手綱を引いていた厩務員の手を借り、馬の背にまたがる。
だが優姫の愛するお手馬は、自然と背を少し屈めてくれた。
「優姫ちゃん、頑張って」
思わずプレッシャーをかける美奈だが、優姫は頷くことさえない。
パドックからいよいよ、本馬場入場。
白無地の勝負服に、一本の紫色のライン。
GⅠの歴代最年少記録を更新し、さらにJRA女性騎手の初制覇となるか。
新たなるスターの登場を、競馬界は望んでいる。
だが世間がどう期待していようが、忖度などしないのが、ジョッキーの矜持。
むしろ女に負けてたまるか、という気持ちを持つのは、男として普通だろう。
つまり他の17人は、優姫だけには勝たせたくない。
それでも優姫ならば、という期待が関係者にはあった。
初の女性騎手によるGⅠ優勝が、最年少記録となるのか。
もしも勝ったら、GⅠ初騎乗で初勝利、という唯一の記録にもなる。
時代の転換期には、とんでもない天才が現れる。
かつて競馬の世界にも、二年目でリーディングを取るような存在が現れたように。
それまでの常識を覆す存在は、どこかで必ず生まれるものだ。
優姫は女性騎手というだけで、常識を覆えす存在たりうる。
公営競技である競艇やオートレースと並んで、女性が男性に混じって戦える舞台がジョッキー。
だがトップ層は、男性ばかりなのである。
出てこないのはやはり、勝負にかける男の意地というものだろうか。
競馬は果たして、そういうものなのか。
(雑音は消えた)
パドックから返し馬と、状態は落ち着いていた。
シュガーホワイトはここまで4戦3勝。新馬戦で2着の後、未勝利と条件戦を勝利し、重賞を一つ勝っている。
ゲートに入る前には、輪乗りで耳を動かすシュガーホワイト。
その耳元に、優姫は唇をつける。
「行こうか」
囁き声にシュガーホワイトは応え、耳を真っすぐに伸ばした。
「いい子」
ほんのわずかに優姫は微笑む。
二歳の優駿たちは、まだファンファーレにも慣れていない。
だが鞍上優姫のシュガーホワイトに、動揺は見られない。
人馬一体、デビュー戦以前からずっと、このコンビで走ってきた。
外枠からのスタートは、逃げ馬のシュガーホワイトにはやや不利。
だがスタートダッシュがつけられれば、上手く切り込んでいける。
シュガーホワイトの鞍上、優姫の気配が変化する。
馬はとても敏感な生物で、騎手の気分を敏感に察する。
ゲートが開いたらすぐスタートか、それともゆっくりスタートか。
すぐにスタートだと、優姫の肉体が伝えている。
そしてわずかに優姫が手綱を絞った瞬間、ゲートは勢いよく開く。
一番に飛び出したシュガーホワイトは、すぐに先頭に立っていった。
中山の芝2000mは、最初の直線が少し長い。
そのため1コーナーまでのポジション争いは、それなりに激しくなる。
優姫はホープフルステークスに乗ったことはない。
だが中山の芝2000は、皐月賞と同じ距離で、一般レースとしてもそれなりに使われるコース。
馬の若さを考えても、やることは分かっている。
ハナから先頭を切ったシュガーホワイトは、1コーナーに達するまでに先頭に飛び出す。
そしてそこから、徐々にペースを落としていった。
作戦としては逃げであるが、第2コーナーまでは集団が大きく動くことはない。
先頭に立った優姫の尻を見ながら、残り17頭と17人のジョッキーが追う。
その中には勝負師の、強烈な勝利への執念がある。
この展開では逃げ馬でもペースが速すぎる。
ジョッキーは誰もが、精密な体内時計を持っている。
先頭はこのままでは最後までもたない。
実際にわずかに、シュガーホワイトはペースを落とす。
優姫の意思は手綱と鐙から、しっかり馬に伝わっている。
向こう正面に入り直線となると、ここでも位置取りが重要となる。
果たして動くべきか待つべきか、その判断もしなければいけない。
優姫は手綱を引くこともなく、シュガーホワイトに任せたままに見えた。
気分よく走っているのはいいが、このままのペースでは速いのではないか。
客観的に見れば、これは逃げ切ることなく、最後の直線で潰れる。
少なくとも後ろからはそう判断した者が多かった。
勝負は最後の直線か。
中山はゴールまでの最後に坂がある。
そこまでに脚を溜めるため、3コーナーと4コーナーでも先頭は変わらない。
ここですべきは内ラチ沿いを通って、距離のロスをなくすこと。
自然とペースが落ち、ほんのわずかに息を入れて、いよいよ最後のコーナーに向かう。
優姫は後ろの様子を確認することなく、最後の4コーナーに集中する。
体内のラップは狂いなく、シュガーホワイトの踏みつける大地から、その力を感じ取る。
(駆けろ)
サラブレッドは走るために生まれてきた。
人間の力がなければ、ほぼ繁殖することも出来ない存在。
経済動物だからこそ、その最後まで責任を持たないといけない。
およそ生産された半分は、食肉となってしまうものなのだ。
(だからこそ、走れ!)
最後の直線。
先行集団から黒鹿毛一頭が抜けだし、後方集団から栗毛一頭が大外を回してくる。
分かっていた。シュガーホワイトの広い視界に、その姿が映る。
だが鞍上の優姫に、何も動揺はない。
完全に不安も焦燥も、その内からは消してしまう。
必要なものは闘争心だけ。
そして優姫の手綱はわずかに、彼女の意思をシュガーホワイトに伝える。
短い直線ではあるが、坂がスタミナを削ってくる。
そこで優姫は手綱を取って、ムチなど使わず首を押しにかかっていく。
鞍上の優姫の気配が変わったのを、相棒だけが感じ取った。
羽毛のような軽さから、熱量を伝えるように。
今がその時だと、シュガーホワイトに教えている。
限界に近い、その領域をさらに突破するのだ。
坂を駆け上がる力が、さらに強いものとなる。
苦しさを激しい気性が上回り、まだ失速することなく駆けていく。
坂を上ってからわずかな、ゴールまでの距離。
優駿たちが駆けてくる。
その先頭に、くっきりと芦毛が輝く。
優姫は体重が軽すぎるため、重りをつけてこのレースに乗っている。
本来なら筋肉で馬を追うところ、余計な重量があるのだ。
重賞レースで馬を追うのに、むしろ不利なのが新人の女性騎手。
それを他のジョッキーは分かっていた。
だから逃がしてしまい、こういう形となる。
黒鹿毛の馬が並びかけようと迫る。
外を回った栗毛の馬も、勢いよく駆けてくる。
わずかなリードが、ほぼなくなろうとしている。
だが優姫は全身の筋肉を、連動させて動かす。
優姫とシュガーホワイトは、沈み込むように身を沈め、そこから強く跳ねる。
二の脚を使ってまた加速した。
わずかずつ差を縮めていたものが、半馬身の距離を開ける。
外から差してくるが、それも追いつけない。
ゴール板を半馬身差で逃げ切り、先頭に駆け抜けたシュガーホワイト。
JRA所属の女性ジョッキーの、史上最年少GⅠ制覇。
また一つ競馬界に、伝説が生まれた。
それでも撒き散らされるハズレ馬券の儚さは、他の全てのレースと同じようなものであった。
GⅠ馬のみに許されたウイニングラン。
手綱を握る優姫の指は、半ば硬直していた。
ゆったりとした走りを終えて、シュガーホワイトは戻ってきた。
元から優姫は競馬学校時代から、おかしなやつとは言われていた。
だがかつて人格のおかしさと言われたものは、今では実力のおかしさと言っていいだろう。
「やあやあ、おつかれさま」
「氷川オーナー、おめでとうございます」
オーナーの氷川白雪は、レース直前では優姫と会わなかった。
ただこの二人は、妙に馬が合っている。馬だけに。
同じ女だからというわけではないが、新馬戦で2着の優姫を、ずっと乗せてきたのだ。
まあ馬の方が優姫でないと乗せたがらない、という理由もあったのだが。
関係者一同で行われる口取り式。
とてつもない量のカメラが向けられる中、既にレースは終わったのだ、と優姫はもう未来を見ている。
優姫は馬に顔を近づける時だけ、わずかに感情が浮かぶ。
喜びがあふれているのが少数という、異例の光景。
厩務員や生産者は恵比須顔になっている中、もう次を考えている二人。
三歳の優駿たちが、全て挑むとも言われるクラシック。
シュガーホワイトはその第一戦、皐月賞と同じ2000mの距離を勝った。
「優姫、ここが始まりだよ」
前を向いたまま、笑わない調教師の言葉に、優姫も無言で頷く。
一つの伝説の始まりは、まだ淡い夢の形でしかなかった。
※1 斤量特典
新人の見習い騎手と女性騎手には、一般レースにおいて、騎乗機会の確保や育成、ハンデの是正を目的とした斤量(負担重量)の減量特典が設けられている。
5年の見習い期間の間、100勝以下のジョッキーは勝利数によって1~3kgの恩恵を得られる。
また女性騎手も2~4kgの恩恵があり、こちらは最低でも2kgの恩恵がずっと得られる。
ただこれらは重賞やオープン特別などでは適用されない。
また最低負担重量というものがあり、斤量特典がいくらあっても、それ以下の重さで乗れるわけではない。
※2 GⅠの騎乗条件
現在では31勝以上、かつては41勝以上であった。
とはいえ新人をGⅠに乗せることは滅多にない。




