「絶対に言うなよ? あいつ、〇〇が悪いんだ」
とある領主の嫡男は幼い頃に親しい者の死を幾つも経験した。
父は馬駆けの最中に転落して事故死。
なお、馬は無事だった。
母は夫の死に様を知って心を病みやがて病死。
その後に発覚した浮気相手の処遇についての言及は避ける。
幾人かいた兄弟達はする必要もない後継者争いの末に見事に共倒れ。
結局、一番権力に興味のない彼のみが残った。
そんな彼は意外にも成長過程で頭角を現し始め、今では名君として領民たちに受け入れられている。
兄弟達のような権力争いに興味がないからか常に質素に暮らしており、その様に呆れた家臣達から信頼に満ちた陰口を堂々と¨目の前で¨言われる。
父の末路を恐れているのか馬駆けなどに出かけたりはせず、むしろ妻や使用人……時には領民を連れてのんびりと領内を¨小旅行¨している姿がよく見られる。
そして言うまでもなく浮気など頭をかすめたこともないように誠実で、幼い頃から自分を支えて来てくれた使用人の少女と結婚して以来、常に彼女を愛し続けていた。
――妻が呆れるほどに。
「昔のあの人との思い出?」
問われれば妻は答える。
「よく覚えているわ。旦那様と奥様……いえ、お義父様とお義母様が亡くなられ、さらに自業自得とは言えご兄弟も皆この世を去られてから本当にお辛そうだったの」
彼女は平民出身でそれ故に人の慰め方を実に単純でそれでいて効果的な方法しか知らなかった。
「毎日のように泣いていたから私はあの人の身体を抱きしめていたの。私は馬鹿だったからそれくらいしか方法が思いつかなかった。私が幼い頃泣いていた時に母さんに抱きしめられていたのと同じ。抱きしめられたら辛いのは変わらなくても少しでも安心できる――だから、私はそれをし続けていたの」
くすりと笑った彼女の目は微かに青い。
「私もあの人もまだ十二、三歳だったと思う。だからね、本当に単純だった。考えることがね。私はずっと先のことを考えることが出来なかった。あの人は貴族で私は使用人。その関係を私は理解していなければならなかったのに」
左手の薬指の指輪を彼女はじっと見つめた。
彼女がプロポーズを何度も拒んだことは領民の間では有名だった。
身分違いの恋と言えばロマンチックなものだが、少なくとも彼女にとっては幾つもの葛藤があったのだろう。
しかし、彼女は必要以上に語ることはない。
「――私はあの人と夫婦になった。だけど、それはあの人の苦しみを誰よりも近くで受け止め支えなければならないということでもある」
一つ。
小さなため息を吐き、僅かな間を置いて彼女は告げた。
「あの人はまだ怖がっている。自分の大切なものがどこかに行ってしまうのを――だからね」
目を軽く閉じて言葉を結ぶ。
「あの人。未だに寝る時は私の身体を思い切り抱きしめるの。まるでどこにも行かないでって言うように」
開かれた目は微かに潤んでいた。
***
「え? 彼女を思い切り抱きしめて寝る理由?」
今や、名君と呼ばれるようになった領主は頭を掻く。
まったく。
どいつもこいつもどこから夫婦の寝屋の話を嗅ぎつけてくるんだか……。
「絶っっっ対に言うなよ?」
そう前置きをして答える。
「彼女、滅茶苦茶寝相悪いんだよ。いや、マジで。しっかり抱きしめとかないとベッドの下に落ちちゃうんだよ――痛そうなコブをつくりながらね」