扉
その日、私は取引先との話し合いを無事に終えて会社に戻る途中でした。
時刻はちょうど正午、まさにお昼時。
いつもは社内に設置してある菓子パンの自販機で済ませていますが、
せっかく外にいるのだからと、飲食店を探すことにしました。
あまりお腹は空いてないし、食事に時間をかけたくない。
有名なチェーン店はどこも混雑しており、
きっと待たされるだろうし、落ち着いて過ごせない。
やっぱり菓子パンで済ませるかと諦めかけたその時、
青紫の暖簾に『そば』の文字。
これだと思い、私はその店に入りました。
ガラガラと扉を開けると、老齢の男性店員が
「いらっしゃい!」と元気良く出迎える。
客は誰もいないけど、彼はとても忙しそうに仕込みの作業をしていました。
すぐさま老齢の女性店員が席まで案内し、
メニュー表を手渡してくれました。
そこに書かれているものを見て、私は一瞬目を疑いました。
ラーメン。チャーシューメン。チャーハン。ギョーザ。
あとはドリンクがコーラとビールに焼酎。以上。
どうやら私は入る店を間違えたようです。
ここは『そば』の店ではなく、『中華そば』の店だったようです。
でもこのまま何も注文せずに出ていったら冷やかしだよなあと考えてしまい、
とりあえず一品だけ頼もうと決めました。
私がチャーハンを注文すると、男性店員は
「お客さん、うち来るの初めてでしょ?
だったらラーメン食っていきなよ!
うちはスープが自慢なの! 絶対おいしいから!」
と、強引にラーメンを作り始めました。
困惑した私が女性店員に目を向けると、彼女は
「ごめんねえ
うちの人、昔ながらの職人気質でねえ
一度こう決めたら絶対に意見を曲げない頑固者なのよ〜」
などと楽しげに語りました。
私はもうこの時点で、こんな店には二度と来ないと誓いました。
すぐにでも店を出るべきだったのですが、
老齢の夫婦が切り盛りしているであろうこの寂れた店に
久々に来店した客が私なのだと思うと、出ていくことができませんでした。
それから40分後、私はやっぱり出ていこうと席を立ちました。
遅い。あまりにも遅すぎる。
他に客がいるわけでもないのに、男性店員は厨房で忙しそうにしている。
私が帰る旨を伝えると女性店員は動揺し、
おそらくその夫であろう男性店員が大声を上げました。
「おい、あんたさあ!
一口も食べずに帰ろうってのかい!
冷やかしとか、そういうの困るんだよねえ!」
私はカチンときました。
しかし大人として冷静な態度は崩さず、強い言葉は使わず、
客の注文を勝手に変更した挙句、待たせすぎている事実を淡々と述べました。
「いやいや、待たせすぎって言うけどさあ……
とっくに出来上がってんのに、あんたが取りに来ないんだろうが!」
私は耳を疑いました。
え、何?ここセルフ方式なの?
そんなの聞かされてないし、どこにも書いてない。
とっくに出来上がってたのだって、今知ったんだけど。
その出来上がったラーメンとやらは厨房に置きっぱなしなんだけど、
なんだろう、客が厨房に入っていい店なんて聞いたことがない。
私は冷静に質問してみましたが、
彼は自分の非を認めようとはしませんでした。
「うちはそういうやり方でずっとやってきてんの!
大体、遅いと感じたんならその時に言えよ!
あんたには自分の意見ってもんが無いのか!
なんでもかんでも人任せにしてんじゃねえよ!」
呆れて物が言えないとはまさにこのこと。
この男には話が通じない。
私は対話を諦め、店の出入り口に手をかけました。
「ちょ、ちょっとちょっと!
お客さん! お金! お金払ってないよ!」
慌てて止めたのは女性店員でした。
なんだろう、私を食い逃げ犯扱いする気なのだろうか。
何も食べてないのに食い逃げかあ。
もう本当に面倒臭い。
私はラーメン代の500円を机に置き、今度こそ店を出ようとしました。
「ちょっとあんた、ふざけてんの!?
これじゃ全然足りないでしょ!」
「はあっ!?」
さすがに冷静な態度ではいられませんでした。
この店はぼったくりまでするのか。本当に終わってる。
よく潰れずに営業できてるなあと感心する。
会計の内訳を見ると、そこには
・ラーメン
・チャーハン
・ギョーザ
・ビール
と、明らかに注文していない品が記載されていました。
チャーハンについては私の落ち度だろう。
勝手にラーメンに変更された時、キャンセルしなかったのだ。
常識的な店ならばそんなことをする必要は無いが、ここでそれは通じない。
そもそも常識的な店は客の注文を勝手に変更なんてしないが……。
しかしギョーザとビールは絶対にあり得ない。
これから本社に戻るのだ。
ニンニク臭くなるし、ましてやアルコールを摂取するわけがない。
これはどういうことなのかと尋ねると、
やはり私には理解し難い答えが返ってきました。
「だって、ラーメン食うんだったら普通はギョーザも頼むだろ?
で、ビールも飲むだろ? うちに来る常連客はみんなそうしてんだよ!」
こんな店に常連客がいるなんてにわかには信じられないが、
それはそれとして会計がぼったくりであることは間違いない。
「あの、警察呼んでもいいですかね?
駅前だし交番が近くにありますんで、
どちらが悪いのか第三者にはっきりさせてもらいましょう」
警察と聞いても男性店員は強気な態度を崩しませんでした。
「おうおう、呼べ呼べ!
出るとこ出て、白黒はっきりさせようじゃねえか!
覚悟は出来てんだろうなあ!」
その自信は一体どこから来るのだろう……。
5分もしないうちに女性店員が2人の警官を連れて戻ってきました。
そのうちの1人は私の姿を見るや否や、苦笑いしながら頭を下げました。
「いやあ、災難でしたね
ここの店長さんはご近所でも有名な変わり者でしてね、
昔から同じようなトラブルが絶えないんですよ」
「昔からって……
よく店が潰れませんね
何かの罪に問えたりしないんですか?」
「それがですね、店長さんあるいはお客さんが
毎回こうして我々を呼ぶもんで、今まで事件は起きてないんですよ
それに店長さんの性格はともかく、味は評判らしくて……
擁護するファンの方々が大勢いらっしゃるようです」
そんなことあるんだ……と納得し、いや、納得できたかはわからないが、
とりあえずその場は警察の人が店主の相手をしてくれて、
私は不当な料金を支払わずに店を出ることができました。
私はその店での出来事を忘れようと努めましたが、無理でした。
ネットで悪口を書き込んでやろうと思い立ち、
件の店の情報を調べてみると出てくる出てくる。
私と同じような目に遭った人たちの話が。
それらの書き込みを読んでいるうちに、あることが気になりました。
『店員は最悪だけど味は最高』、『味は最高だけど店員は最悪』など、
ファンがいるというのはどうやら事実のようでした。
どうやって発見したのかわかりませんが、隠しメニューとやらで
ネギ塩丼、酢豚、杏仁豆腐なども絶品だそうです。
あれから半年後、私は誓いを破ってあの店までやってきました。
今日は私服だし、帽子と眼鏡で変装しています。
たぶん気づかれないだろうけど、もし気づかれたらその時はその時です。
とりあえず一口だけでも食べてみて、味を確かめたい。ただそれだけです。
ガラガラと扉を開けると「いらっしゃい!」と懐かしい声。
あの時の男性店員……店主だ。
そしてあの時の女性店員に案内される。
大丈夫、2人ともこちらの正体には気づいてない。
私はラーメンを注文し、厨房を観察しました。
15分ほど待つと、彼はどんぶりに麺、スープ、具材を盛り、
そのまま他の仕込み作業に入りました。
誰にも何も言わないのでわかりづらいですが、おそらく完成したのでしょう。
私は臆することなく厨房に足を踏み入れ、店主に尋ねました。
「あの、これ私が注文したラーメンですよね?
出来上がったんですよね? 持っていってもいいですか?」
「出来たに決まってんだろうが!
見てわかんねえのかよ! さっさと食っちまいな!」
やはりこの男、癖が強い。
それはわかりきっていたことだ。
しかし私は彼に会いに来たわけではない。
問題は味だ。
それだけ確かめられればそれでいい。
私はレンゲでスープを掬い、口の中へと流し込んだ。
「──すいません、ギョーザとビール追加でお願いします」
実際に酷い店に当たってしまった場合、
安易にネットに悪口を書き込む行為は推奨しません。
たとえ書いたことが事実であろうと、
名誉毀損や業務妨害などで訴えられる可能性が生じます。
もし悪質な店で被害に遭った場合は警察に相談するなり、
法律の専門家を味方につけるなりして対処しましょう。