響心琴語
アーイエは仙人だ。というよりは、仙術をつかうわけでもなく山に引きこもっているただの老人かもしれない。
下界を離れずっと遠くの場所までたどりつき石峰の峠に小さな住まいを構えて暮らしている。
静夜には酒を飲み月を眺め、寒雨には酒を飲み雨音を聞く。
彼はもう何年もこの土地を離れておらず自分が何歳なのか、ここはどこなのかすら忘れてしまった。
雪月夜、アーイエは夜半まで酒を飲み月を眺め床についた。
彼は目を閉じ、ふと遠い昔の記憶へと思いを馳せた。
まだ彼の長髪が黒く艶やかで肌は陶器のように白くきめ細やかだった頃のあの暖かな春の日々が思い出される。
鮮やかな桜の花びらが風に舞い、木々が青々と葉を広げるなか、アーイエとジングァンは小さな丘の上に腰を下ろしていた。
「ジングァン、君の琴の音色は本当に美しいな。」
アーイエは微笑みながら、紅の着物に身を包んでいるジングァンの前に立った。
ジングァンの長い髪が風になびいている。
ジングァンは微笑を浮かべ、琴の弦を優しくなでる。音色が風に乗って広がり丘一面に響き渡った。
アーイエは盃の酒を飲み、詩を読んだ。
「忽ち雅なる音、清き風のごとく幽玄に響く。
琴の音、天空に律動し、指先から神仙の曲が舞い出る。
鳴玄は霞の空を舞い、鳳凰の翼のごとく空に翔ける。
古木も遠方の山河も皆息を潜め傾聴する。
雅人も俗人も琴の音に酔わされ魂を静める。
永遠と共にある君と時を超え、その音、千古に響く。」
昼は音楽に耽り、夜は星々を仰ぎながら二人は語り合った。
朝の冷気が老いぼれたアーイエの五感を刺激し彼は目を醒ました。
ずいぶんと長い夢をみた気分だった。
彼はゆっくりと体を起こし、白綾の寝間着のまま黒靴を履いて外にでた。
あたりは一面白銀の世界となり、静まり返っている。
ざく、ざく、というアーイエの足音は降り積もる雪に静かにかき消され足あとのみ残る。
しかしその足跡もいつしか雪によって消えゆくのだろう。
どれほど歩いただろうか、アーイエの目の前に小さな池が現れた。
彼はその水面を覗き込み静かに呟いた。
「随分と久しぶりに自分の顔をみたものだ。今ではすべて白髪になってしまった。長い髪は白く、眉も、髭も白くなった。我が友、ジングァンよ、私はいつお前の元にいけるのだね。」
彼は今朝の夢の続きに思いを馳せた。
幸福な日々は長くは続かなかった。
一国の王に使える臣下だったアーイエは王に国民を巻き込む無益な戦をやめるよう進言した。王の怒りをかい罪人となった彼は国を追われ二度とジングァンと会うことはなかった。
その後祖国は戦火によって滅び、王も死んだという。
アーイエが荒廃した祖国に戻り見つけたのは壊れたジングァンの琴だった。
彼は降り積もった雪を震える両手ですくった。雪は砂のようにさらさらと指のすきまから零れ落ちていく。
「永遠と共にある君と時を超え、その音、千古に響く」
彼の言葉は風に乗って池の水面にささやかれ、かつての友へと届くような気がした。
思い出の中で輝くあの桜色の春とともに琴の音色が空に舞い、その旋律は千年の時を超えて響いていくだろう。
遠い遥か先に友との邂逅を約束しているかのように。