先輩の魔法陣
「おはようございます、黒木君、よく眠れましたか?」
結局、おれは店主のソファの上で黒いもやの襲来におびえて気を張っていたが、なんだかんだでぐっすり眠り、おいしそうな朝食の香りで目を覚ました。
朝食の用意をしていた店主に挨拶すると、先輩が外にいることを教えてくれた。
「まあ、それなりに」
怖かったので店主の部屋で寝ましたとは言えず、おれは言葉を濁した。
空は晴れているが、空気はまだひやりとしている。
「先輩は朝早くから、何ですか? 修行?」
「はい、鳥さんがいつ現れるか分かりませんから、それにこの不思議な力で何ができるかいろいろ研究したいので」
見ていてください、と先輩はにっこり笑ってこちらに背中を向けた。
「それっ」
先輩が勢いよく手を広げると手の間に浮かんでいた魔法陣がぐんっと大きくなった。大きいと言うより、巨大といったほうがいいかもしれない。その円は後ろにある宿をすっぽり囲ってしまえそうなほど大きかった。見上げるだけで首が痛くなる。
「これは、でかい」
「大きな鳥だと聞いているので魔法陣もできるだけ大きくできるように練習してみました。これをそっと近づいて投網のように投げて捕まえる、なんて方法を考えたのですが、どうでしょう?」
先輩が手を振ると巨大な魔法陣がぐにゃりとしなって近くの木を覆う。その挙動はまさに縁におもりが付いた網のようだった。
「それは良さそうですね。これだけ大きい魔法陣なら簡単に捕まえられますよ」
「それからこんなこともできます」
先輩はぱっと巨大魔法陣を消すと、こちらに両手を差し出した。左右にひとつずつ魔法陣が現れる。
「一度に二つ出せるようになりました。二つとも巨大にすることは無理でしたが、コツをつかんだらできそうな気がします」
先輩は、肉まんを半分あげる、くらいの軽い感じで魔法陣の一つをおれに差し出した。少し戸惑ったがおれはそれを受け取った。
「おお、すげー」
魔法陣がおれの手の中でくるくる回った。指ではじくと反対向きに回り始める。大きさを変えたりはできないが持つぐらいのことはおれでもできるらしい。朝日に照らされて、魔法陣はひときわ白く輝いて見える。
「おれも何かそういう力が使えたらいいんですけど」
この危なっかしい先輩の代わりにおれがこの騒ぎを一人で解決できたらどれだけいいことか。
「もしかしたら黒木君が気づいていないだけで実は何かできるかもしれませんよ」
「そうだといいんですけど」
おれは肩をすくめた。
「私は魔法が使えない普通の黒木君も十分、素敵だと思います」
まったく、どうしてこの人はそんなことを照れもなく言えるんだろう。はにかみそうなのを我慢しておれは咳払いをする。
「いいですか? 先輩は魔法が使えるからと言ってその力を過信しないようにしてくださいよ。何度も言いますけど、怪我の原因になりかねないですから」
「はい。十分、気をつけます。黒木君は本当に心配性なんですね」
先輩が笑う。
「あ、あともうすぐ飯ができるみたいです」
「分かりました。私、手を洗ってきますね」
宿に戻る先輩を見送って、おれは恒例の電波チェックのため、空にスマホを掲げた。ここも電波は、なし。
そうだ、今のおれは魔法も何も使えないけど、できることはある。
カサ。カサ。カサ。
近くで物音がした気がした。おれは何も聞かなかったことにして急いで宿に戻った。
村より数キロ離れた草原を巨大な黒い影が滑るように移動していた。その影がいくつも自分の頭上を通り過ぎることに気づいて、鳥は顔を上げた。見上げた空に仲間たちがいた。大きな翼を広げ、悠々と山を越えていく。
鳥は空に向かって鳴いた。そして仲間を追いかけて走り始めた。