キミが競馬に絶対勝つ方法
「ううっ……」
『一緒に日本ダービーを見よう』とぼくを自宅へ誘ったクラスメイト、高野尚子はそううめくと、胸をおさえてソファーの上へ倒れこんだ。
ぼくは冷ややかにそのオーバーリアクションを見ている。
そして視線を読んでいた本へと戻した。
手の中にあるのは、夏目漱石の『こころ』。
読み返すのはもう四度目になる。
名作だと素直に思う。
一方で、テレビ画面ではアナウンサーが若干の驚きの声を交えてこう伝えている。
「東京十一レース、日本ダービーは波乱の結末になりました。入線順位は6、8、13、それぞれ七番人気、十一番人気、五番人気。まだ確定は出ておりませんが……」
その声を聴きながらぼくは考える。
なるほど、尚子は裏切られたわけだ。
先生に裏切られたKのように。
すでに想像はついていたが、知らん顔をしてぼくはたずねてみた。
「どうしたの」
「どうもこうもないの。信じられない」
「へえ。いくら賭けてたの」
「全部で十万円」
ぼくは本から目を離し、尚子をまじまじと見た。
だが、彼女が競馬に女子高生らしからぬお金をかけているのは、今にはじまった話じゃない。
「よくそんな大金をかけるよね。もったいない」
「当たったの」
絶対当たると思ったのに、とかいう泣き言が返ってくることを予想していたぼくは、みんなそう言うんだよ、と言葉をつなぐ準備をしていた。
だから、「あ」と「え」の中間のような間抜けな声が出たのは、ぼくの責任ではないはずだ。
「だからさ、当たったの。どうしよう、これ。七ケタは間違いないんだけど……」
ぼくは視線を尚子からテレビへと向けた。
画面に掲示板が映っている。
その掲示板には、「確定」という文字が光っていた。
やがてアナウンサーが配当を読み上げた。
『馬単』という一着と二着を当てる馬券を尚子は買っていたらしい。
百円に対し、約十八万円の配当が付いていた。
その馬券を尚子は二万円分、買っていた。
それはすなわち、どういうことかというと、要するに八ケタだ。
ぼくはつい、ううっ、と声をもらした。
※※※
尚子が仙台に赴任している兄貴の名義で、ネットで競馬をするようになったのは今から二年前、らしい。
兄名義のアパートに一人暮らしをしている尚子は、誰に止められることもなく、ヒマな休日はいつも競馬をしていた。
それからぼくと出会い、今に至るまで、尚子は二百万程度の貯金を作り上げている。
と、いうのは今日までの話で、それまででも十分すごかったのに、今ではその貯金は十倍以上になってしまった。
三千六百万円。
女子高生が持っていていいお金ではない。
とはいえ、持ってしまったのだから仕方がない。
一時間後、ぼくらは駅前の高級焼肉店に来ていた。
尚子とぼくはすでに特上のカルビを合わせて三人前ほど平らげていた。
どれほど特上かといえば、その一人前だけで通常の焼き肉の一人分の支払いに足りる値段だった。
もちろんカルビだけじゃなく、その他の肉も、たっぷりといただいていた。
今まで何度か尚子にごちそうをしてもらったことはあったけれど、こんなに豪華なのははじめてだった。
ぼくとしては、喜んでいいのか、情けない男だと自分を卑下していいのか、よくわからない。
まあでも、好意は素直に受け取るべきだ。
「ふう。満足、満足」
もともとそれほど量を食べる方ではない尚子が、お腹をさすりながら言う。
女の子がいうセリフとしてはとても上品とはいえないけれど、今日はそんなことにいちいち文句をいう気はなかった。
「不労所得で食べる飯がうまいか?」
「最高ね、もう」
ぼくもまったくもって賛成だったので、二人でニヤニヤと目を見合わせて笑った。
それから、不意に尚子がつぶやいた。
「でもこのお金、どうしよう」
※※※
「なんか、もうかりすぎちゃった。税金をちゃんと払っても、たぶん、めちゃくちゃ余る」
まだ日が残る帰り道で、尚子がそう言った。
おこぼれを授かったばかりの口で何を言っても説得力に欠けるとは思ったけれど、ぼくはとりあえず口をはさんだ。
「事故とかにあわないといいけどな。競馬、しばらくやめてみたら?」
尚子はぼくをじっと見て、首をかしげてみせる。
それから急に、何かを思いついたような口調でたずねてきた。
「ねえ、このお金、恭介はどのぐらい欲しい?」
そう聞かれたとき、いつもと同じようにぼくは答える。
「いらないよ」
「……なんでそう、欲がないかなあ。少なくとも、半分までは恭介のおかげだって、いつも言ってるのに」
「じゃあ半分欲しい」
「そう言われるのもなんか違うんだけどさ」
尚子がしかめ面で首をひねり、その話はそれでお開きになった。
そうして尚子の住むアパートの前で、また明日学校で、といって別れた。
※※※
尚子とぼくが出会ったのは、高校二年の春のクラス替えのときで、彼女に抱いた第一印象は、変な女がいる、というものだった。
何かの偶然でぼくらの席は窓側最後尾の隣同士だった。
一番窓際に位置していたぼくは、隣に座る女のことをそのときまで何一つとして知らなかった。
どうやらぼくの苦手なタイプらしい、と思ったのは否定しないけれど。
尚子は小柄で、髪を金色に染めていた。
肌は黒くないけれど、風貌はまぎれもなく、ギャルといわれる種族だった。
数日経って、その新たな隣人はどうやらどのグループにも所属していないということに気がついた。
女子はすぐに女子同士仲良くなる。
しかし尚子に関していえば、決して孤立しているわけではないものの、誰かと特別仲がいい、ということはなさそうだった。
そしてその理由は主に、週末の近い昼休みになると彼女が真剣にスポーツ新聞を眺め、耳に挟んだ赤ペンでときどき新聞に書き込みを加えながら、ブツブツと何かをつぶやいているためだと察せられた。
おしゃべりが好きな女子たちは、はじめのうちは好奇心でもって、そんな状態の尚子に話しかけていたけれど、やがてちょっと距離を置くようになった。
尚子の勉強の成績はいい。
スポーツだって人並み以上に出来る。
そうして愛想だっていいけれども、決して分かり合えない壁がある。
ふつうの女子たちはそう考えたのだろう。
女子たちの好奇心が尽きるころ、やっとぼくも好奇心を満たす機会を得た。
昼休みは、ぼくもヒマだった。
そうしてその日は昼休みに入ってすぐ本を読み終えてしまい、次の授業がはじまるまでに間があった。
ぼんやりと時計をながめていると、尚子が不意に、スポーツ新聞から顔をあげて、両手を上にあげて大きく伸びをした。
んんっ、と漏れ出た声に反応してぼくは目を尚子に向けた。
ぼくの視線に気づいた彼女が、こっちへ顔を向けた。
お互い目が合った。
ぼくは若干の気まずさを覚えた。
それで、口を開いた。
「……それ、いつも見てるけど、何してるの」
「別に、いつもじゃないけど?」
そのときのぼくはまだ、尚子の行動の規則性に気が付いていなかった。
そう、月曜日から水曜日までは、尚子は普通の女子みたいに、他のグループに交じっておしゃべりをしていることがある。
一人でいるのは、木曜日と金曜日の二日だけだ。
「いや、スポーツ新聞を読む女子なんて珍しいと思ってさ。だからいつもそうしているような気になるのかも」
「そんなに変?」
少し語気をとがらせて聞く尚子に、ぼくはとっさに答えた。
そしてぼくには、つい、思っていることをそのまま口にしてしまう癖があった。
しかし、あとで聞いたところ、尚子はその言葉が気に入ったらしい。
「変だね」
尚子はじっとぼくを見て、それから少し笑顔をみせた。
「まあ、確かに」
そのときぼくは、改めてこいつは変な女だ、と思った。
同時に、もしかすると悪い奴じゃないのかも、とも。
「で、何見てたの?」
「競馬。……鈴城くん、だよね。鈴城くんは、競馬知ってる?」
ぼくは首を振った。弟が競馬ゲームをやっているのは見たことがある。
しかしそのゲームをぼくはやったことがないし、現実のものなら、なおのこと知識がない。
「そっか。興味もない?」
ぼくは素直にうなずいた。
「まあ、そうだよねえ……」
「高野さんは、競馬好きなの?」
「うん」
「どうして?」
よく競馬を知らなかったぼくは、馬が可愛いだとか、騎手がかっこいいだとか、そんな答えを想像していた。
だけど、そのとき尚子は言い切った。
「お金がもうかるから」
「へえ。結構当たるんだ?」
未成年は馬券を買えない、ということを、そのときのぼくはまだ知らなかった。
そうして、尚子は不機嫌そうに眉をひそめて言った。
「全然」
じゃあ、嫌いになってしかるべきだ、とぼくは言おうとした。
だがそこで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
※※※
尚子が向こうから話しかけてきたのは、次の週の月曜日の朝だった。
「ねえねえ、鈴城くん」
その日の朝、ぼくは本を読んでいた。
ヒマなときはいつも、本を読むようにしている。
本の中の世界は誰にも邪魔がされないし、時間がつぶせる。
しかし、尚子は平気でその世界に干渉をしてきた。
ぼくはやや戸惑いながらも、本から目を離した。
その日の尚子は、やけにうきうきとしていた。
「どうしたの。何か機嫌がよさそうだけど」
「わかる? ね、わたし、当たったの。昨日も、一昨日も」
「へえ」
ぼくはそうとだけ答えて、本へと目を戻した。
あまり競馬の話に興味はなかったからだ。
でも、尚子は強引に話を続けた。
「それで、いくら当たったと思う?」
「知らないよ。競馬、詳しくないし」
「全部で五千円ぐらいもうかったんだから。しかも、一つは単勝で二十倍だったのよ。二百円買ってて、これがばっちり」
そのすごさを、ぼくは理解できなかった。
五千円という金額は、尚子の喜びように比べればそれほど大きなものではないように思えたし、単勝二十倍の珍しさも知らなかった。
おかげで、的外れな返答をする羽目になった。
「それで、金曜日はどうだったの?」
「……鈴城くん、金曜日には、JRAはやってないのよ」
※※※
それからしばらく、尚子とは話したり、話さなかったりする期間が続いた。
そのあたりのどこかで、尚子はぼくを恭介と名前で呼ぶようになり、それと同じぐらいの時期に、ぼくも同じように呼び捨てをはじめた。
やがてクラスでは席替えが行われ、ぼくと尚子の席が離れた。
尚子とは若干疎遠になったものの、たまに競馬について向こうから話しかけてきて、ぼくはその話を聞いてやった。
競馬について話せる唯一のクラスメイトという立場に、ぼくは立たされたらしかった。
一方、時折ぼくも本のことについて尚子に話したが、向こうはさして興味を持たなかった。
まあ、それは今に至るまでお互い様だということになっている。
そうして、とある事実に気が付いたのは、尚子の方が先だった。
その日は寒い冬の早朝で、尚子は頬を赤くしていた。
本を読んでいたぼくの席まですたすたとやってくると、開口一番にこう言った。
「負けた」
「あ、そう。未成年のくせに競馬をやってるからじゃないの」
そのぐらいの知識は、いつの間にかぼくに埋め込まれていた。
「それで今回は、何が本命だったの?」
そうは聞くけれど、そんなときいつもぼくは、馬の名前なんてまったく知らない。
尚子が並べ立てる馬や騎手についての恨み言を聞き、なだめ、まあ来週もがんばれば、と適当に背中を押してやるのが、尚子が負けた日のぼくの役目だった。
逆に、勝ったときはたいてい、前もって尚子の講釈を聞いているから、予想通りだったね、と褒めてやるだけで、尚子は機嫌をよくする。
そんなときは尚子はすぐ満足して自分の席に帰っていく。
結果、前もって聞くか、後になって聞くかだけで、費やす時間は同じだ。
だからぼくは、尚子のためにも、週末になると彼女が勝ってくれることを期待していた。
しかし残念ながらそのとき尚子は負けており、また長い話を聞くことになるんだろうなと考えていた。
だが、その日の尚子は違った。
「……ねえ、恭介。わたし気が付いたんだけど」
「競馬をやめればいいってことに?」
「あのねえ、結構まじめな話なの。……わたし、先週、恭介に競馬の話はしてないよね?」
「したよ。先週も負けたんだろう?」
「違う、結果じゃなくて、予想の話。だからさ、先々週も、たぶんしてないよね」
「覚えてない」
「重要なんだから思い出してよ。その前はしてる。わたし、勝ったもの。うん、そのはず」
ぼくには話の筋道がまったく見えなかった。
しかし、尚子は何かに納得したようにうなずいている。
ぼくはさほど真剣でもなく、記憶を呼び起こしてみた。
確かにそんな気がする。
三週間前の金曜日に、なんとかという種牡馬の産駒は内枠が得意だから、こいつが来るという話を聞いた気がする。
それでその翌週の月曜日は、尚子がえらく上機嫌だった。
万馬券を当てたとかで。
「うん、たぶん合ってると思うけど……で、それがどうかしたの?」
「じゃあ、やっぱり、そうだ。わたし見つけたのよ、勝つ方法。競馬に、絶対、勝つ方法」
語気を強めてそんなことをいう尚子の言葉を、ぼくはくだらないと思った。
どうせ怪しげな情報サイトでも見つけたんだろう。
それまでの言葉のつながりは、ぼくには理解不能だったが。
しかし、尚子はぼくにはまったく予想外なことを口にした。
「わたしが恭介に、予想を話すこと」
「は?」
「だから、わたしが、恭介に、予想を話すこと」
同じ言葉を、尚子は勝ち誇ったように繰り返した。
そんな馬鹿な。
ぼくは鼻で笑いながら、本に目を戻した。
※※※
競馬で重要なのは、予想が当たることではない、と尚子は言う。
予想なんてものは、当然いくらでも外れるものだし、二キロ先の馬の首の上げ下げで決まる勝負の世界なんて、確実に当てるのは不可能だという。
では、競馬でもっとも大事なのは何か。
尚子に言わせればそれは、最終的にお金がもうかるかどうか、なのだという。
そのとき尚子が出した仮説は、尚子のそんな信条に合致するものだった。
尚子が言うには、レース前にぼくに予想さえ話しておけば、競馬に勝てる。
ただ、その予想が百パーセント一致するわけではない。
尚子はスポーツ新聞の例にならい、◎、○、▲、△、×、とそれぞれ馬に印をつけている。
そうして、その印が、そのまま的中することは少ない。
というより、ほぼない。
だけど競馬には勝てる。
その予想の通りに馬券を買っていれば、いかなる力の働きかは不明だが、最終的にお金がもうかるのだ。
尚子のそのとんでもない仮説は、結論としては正しかった。
今のところ、ぼくにもそう思える。
尚子が狙えると思ったレースの予想を、ぼくに話す。
そうしてぼくは、その予想を聞く。
内容は、いつも理解していないが、それでもかまわない。土曜日と、日曜日、真剣にその二日に賭け続けている限り、最終的に尚子は勝つ。
だいたい、一日に二から三レース。
どれかは外すし、どこかで当たるけれど、最終的には決して、マイナスにはならない。
なぜかプラスになる。
それならば、とふざけて全レースの予想をしようなどと、尚子は考えたこともないそうだ。
勝てる限り、それまで通りに事を進める。
そうやって、競馬に絶対勝てる方法に気づいて以来、尚子は負けたことがない。
その結果が昨日までの二百万であり、今日の三千六百万になっている。
※※※
そして、尚子が女子高生にはしかるべきではないお金を手に入れた、次の週の水曜日のことだった。
「ねえ、恭介」
昼休みにそういって、尚子が近づいてきた。
そういうときはたいてい、よからぬことを考えているときで、それはつまり、ぼくに競馬の予想を披露するときでもあった。
しかし、それはたいてい金曜日の昼休みのことで、ぼくはちょっと違和感を覚えていた。
「わたしね、こんな馬がいいと思ってるんだけど」
そういって、プリントされたいくつかの馬の写真をぼくの机に置いた。
今までになかったパターンだ。
警戒しながらも、ぼくは尚子にうなずいてみせた。
「まあ、いいんじゃないかな。よくわからないけど」
「うん。そうとだけ言ってもらえばいいのよ」
さっぱりわからない。
尚子はさっさと写真を畳んで、胸のポケットにおさめた。
「……明日って競馬、ないよね」
「うん。なんかさ、わたし、そろそろ競馬もいいかなって思っちゃった。あんなにお金もうけちゃうと、どうもね」
「それじゃ、それ何?」
「あのさ、わたしは別に一生競馬で儲けていくつもりもないし、普通に働く気もあるわけ。恭介のいうところの不労所得で、楽して暮らすのもいいかもしれないけど、そんな人生、つまらなそうだし」
「それはいいことだと思うけど」
でも尚子はぼくの質問に答えていない。
そうして尚子は、満面の笑みを浮かべて続けた。
「ということで、あの三千万円は、いわばわたしにとってはもう必要のないお金なの。だからさ、わたし、決めた」
「何を?」
「恭介、一口馬主って知ってる?」
※ 一口馬主とは、日本において、競走馬に対し小口に分割された持ち分を出資するものである。要するに、尚子は競走馬の部分的なオーナーになろうとしていたわけで、競走馬が得た賞金の一部はオーナーに分配される。だから、尚子のやっていることは競馬にお金をかけることと、そんなに変わらない。ちなみに、ぼくに写真を見せ、それから尚子が兄名義で出資したその馬たちの中には、後に日本ダービーを勝ったやつもいて、彼女に多大なるリターンをもたらしたそうだ。




