2 天使に喧嘩を売ってみる
「少し待っていろ。治癒とかそういうの、俺は苦手なんだよ」
声は聞こえるが、何も見えなかった。微かに意識はあるが身体の感覚がなく、瞼を動かすこともできない。
唐突に、激痛が赤竜を襲った。しかし、それは一瞬のことで、痛みが治まると身体の感覚が蘇っていることに気づく。冷たい地面の感触を身体の下に感じた。
「よし、とりあえずは終りだな。もう目は開けられるだろう?」
言葉に従って目を開くと、目の前にカルマがいた。
赤竜は反射的に身構えようとするが、全く力が入らない。
「さすがに今動くのは無理だからさ、諦めろよ」
揶揄うように笑うカルマに、赤竜は顔をしかめる。
今も膨大な魔力が溢れ出しているカルマを警戒しながら、置かれている状況を把握しようと、ゆっくりと首を動かして周囲を確認する。赤竜が横たわっているのは岩山の一角にできた窪地だった。
先ほどまで戦っていた相手が隣にいることに、違和感と不信感を覚えたが、すぐに、もっと重大なことに気づいて意識を捉われる――カルマに切断された筈の翼と後ろ足と、自ら溶解させた前足までもが、元通りの状態に戻っているのだ。
幻ではないのか――赤竜が確かめるように動かすと、確かな感覚があった。
(……どういうことだ? 貴様は、いったい何をしたのだ?)
「何って……再生術式を使ったんだけど?」
何を当たり前のことを訊くんだという感じで、カルマは応えた。
「ああ、再生術式って言っても。本当に再生したのは前足だけで、翼と後ろ足は回収して繋げたんだけどさ。他の傷も一通り直したけど、おまえは魔力が枯渇してるし、大量に血を流したからな。まともに動けるようになるまでには何日か掛かるぞ?」
太古の竜である赤竜は魔法に精通しており、カルマの説明を理解することができた。
身体の部位を復活させる再生は高位の神聖魔法であり、使うことができる者は限られている。しかも、赤竜の巨体を再生するには膨大な魔力を必要とするのだ。それを事も無げに行ったカルマに今さらながら脅威を覚えるが――論点は別にあった。
(そういうことではない!!! 貴様はわざと惚けておるのか? 我が聞きたいのは、貴様が如何なる意図で我を治療したかということだ!!!)
「ああ、そっちの方ね――そんなに警戒するなよ、俺は何も企んでないからさ。理由は単純で、おまえを殺したくなかっただけだよ」
しれっと爽やかな感じで応えるカルマに、赤竜は激怒した。
(……貴様は我を馬鹿にしておるのか!!!)
そんな気紛れのような、理由ともつかない理由で命を救ったと本気で信じろと言うのか? 赤竜は噴き上がる激情に駆られてカルマに襲い掛かろうするが、身体は思うように動かず、立ち上がることすら儘ならなかった。
(……おのれ!!! やはり貴様は、我など敵とすら認めないと言うのか!!!)
苦々しい思いに歯ぎしりしながら、赤竜は行き場のない怒りの全てを視線に込める。
「あのさあ……おまえは誤解していると思うよ?」
どうしたものかと、カルマは少し困った顔で頬を掻いた。
「俺は別に……おまえのことを認めないとか馬鹿するとか、そういうことは全く思ってない。むしろ逆に……」
自分の歯切れの悪い言葉に思わず苦笑すると、カルマは正面から赤竜を見た。
「なあ、赤竜……今度こそ、俺の話を聞いてくれないか?」
何を今さらと赤竜は訝しそうに見るが、文句は言わなかった。
それを合意と受け取って、カルマは話を続ける。
「迂闊に力を発動させた俺も悪いと思ったから、最初は適当に躱して終わらせるつもりだった。だけどおまえが何度もしつこく攻撃してくるから、殺さない程度に痛めつけて諦めさせようとしたんだよ。それでも……おまえは自分が死ぬ瞬間まで戦おうとした」
物事を合理的に考えるカルマには、赤竜の考えが解らなかった。勝算のない戦いに命を懸けるなど戦略的には誤りであり、何の価値もないと思う。しかし――他の全ての価値観を無視して、自分の誇りのために全てを賭けて戦う赤竜の姿に、カルマは何かを感じたのだ。
「俺は無謀な戦いに挑む奴は馬鹿だと思うから、おまえのやり方を認める気はない。だけど……理屈じゃないんだよな? たとえ、おまえを殺したとしても、意志を折らない限りは勝ったことにはならないし、おまえは絶対に譲らない。
そういう感情的な行動原理なんて、本当の意味では、俺には決して理解できないと思うけど……それも悪くないなって思ってしまったんだから、仕方がないだろう?」
訝しそうな表情を変えない赤竜を見て、カルマは自嘲するように苦く笑う。こんな言葉に動かされるほど、安い相手ではないのだ。
「おまえが納得できないのも解るけどさ、これだけは言わせてくれよ――俺は初めから、おまえのことを馬鹿になんてしていない」
人間だと決めつける察しの悪さに呆れはしたが――だからと言って、正面から感情を叩きつける奴が嫌いな訳じゃない。
「こんなことを俺が言うと嫌味にしか聞こえないだろうが……強いとか弱いとか、そんなものには大した価値がないって俺は思うよ。確かに力は勝敗を決める大きな要因の一つではあるけど、戦いって、そんなに単純なものじゃないだろう? それにさ、そもそも戦うこと自体が、争いを解決する手段の一つに過ぎないんだから」
他人に理解して貰えるとは思わないが、カルマは本気でそう考えていた。
「つまり……俺が言いたいことはだな? 自分の攻撃が効かないから馬鹿にされているって思ったのは、おまえの勝手な被害妄想だってことだよ」
そう言い終えると、カルマは再び空中に浮かび上がった。
いきなり何を始めるのかと警戒する赤竜を見下ろしながら、さらに上昇を続ける。
「……俺の話は終わりだ。用件は済んだから、もう行くよ」
(待て……まだ、我は……)
「おまえなら、まともに動けなくても、他の奴に殺されたりはしないだろう? まあ、食い物くらいは自分で探して、あとは勝手に回復してくれ」
(だから、待つのだ。我の話はまだ終わって……)
「ああ、それとさ。全快したら、いつでも復讐しに来いよ。だけど、何度もおまえの相手をするのは面倒だから、次からは簡単には見つからないようにするし、見つかっても全力で逃げるからな」
カルマの姿が次第に小さくなっていく。
赤竜は空を見上げながら、小刻みに身体を震わせて――
(……いい加減にしろ!!! この我が待てと言っておるだろうが!!!)
咆哮のように激しい思念を噴き上がらせた。
数百メートル上空から、カルマは意外そうな顔で見下ろす。
「さすがは竜族の王だ。思ったよりも回復が早いな」
だったら何の問題もないなと、カルマは再び赤竜に背を向けた。
(……おい。貴様は本当に我を無視して、このまま立ち去るつもりか? 我に馬鹿にしていないという言葉は、やはり偽りのようだな?)
嘲るような思念を背中に浴びて、カルマは動きを止める。
「……それとこれとは話が別だ。馬鹿にはしていないけど、面倒だから置いていくよ」
(そんな理屈が通る筈がなかろう!!! 良いから、すぐに降りて来い!!!)
自分の言いたいことだけを言って、一方的に話を終わらせて放置してきたのだ。赤竜の言い分の方が正しいことは解っている。しかし正直に言えば、頑なな相手と議論するのは面倒だった。
どうしたものかとカルマは逡巡するが――不意に何かに気づいて上空へ視線を向けた。
「……解ったよ。後でおまえの話を聞いてやるからさ、少しだけ待ってくれないか?」
カルマの視線の先――高度数千メートルの上空に、彼らは忽然と出現した。
鳥のような白い翼を広げる十三体の巨人たちは、白銀の甲冑を纏っていた。
鎧で隠れているために生身の姿は見えないが、その白い翼と、頭上で輝く光の輪が、彼らが何者であるかを物語っている。
(其奴らは……)
「あのさ。とりあえず少し黙っていようか? こいつらは俺のお客さんだから」
カルマの空間認識能力が、巨人の大きさを正確に把握する。
十二メートルを超える巨体は赤竜に比べれば小さいが、巨人族としては最大級だった。もっとも、単なる巨人の筈はないのだが。
巨人たちはすぐに行動を開始した。無言のまま一体がカルマの頭上に、残り十二体が、それを中心点とする巨大な円を描く位置に転移する。
一斉に腕を振り上げると、それぞれの手に金色に輝く巨大な槍が出現する。圧倒的な質量を感じさせる膨大な魔力が、金色の槍から放たれていた。
(何という力を……)
赤竜の思念を無視して、カルマは巨人たちを見据える――
間髪を入れずに頭上の一体が槍を投げると、それを合図として残り十二体が同期するような動きで同時に槍を投げ降ろした。
十三本の巨大な槍は音速の数倍の速度で大気を突き破りながら、正確な軌道を描いて一点へと収束する。約一秒後、最初の一本がカルマの頭に、一瞬遅れて残り十二本が同時にカルマのいる空間を押し潰すように直撃した。
「ホント、おまえら性格が悪いよな」
十三本の槍を全身で受け止めながら、カルマは鼻を鳴らす。空間認識能力によって、最初の一撃を避ければ、地上の赤竜に直撃することを把握していたのだ。つまりは、カルマが回避することを封じた上での一斉攻撃だった。
「ほら、邪魔だから返すよ」
カルマが魔力を込めると、全ての槍が弾かれたかのように逆向きに加速する。
軌道をトレースされて正確に持ち主の元へ――しかし、十倍以上の速度で投げ返された槍を巨人たちは掴むことができずに、身体の中心部を貫かれた。
顔が隠れているから表情は解らないが、巨人たちの全身は震えていた。
しかし、それも一瞬のことで、十三体の巨人は光の粒となって消失する。
「……まあ。宣戦布告にはなったかな?」
カルマは赤竜に背を向けたまま、強かな笑みを浮かべた。